10*
夏休み後の生活は、夏休み前の生活となんら変わるところは無かった。
二人から話しかけられたらどうしようかと思っていたけれど、実際にはそんなことはなく。そのことに拍子抜けしたのは、俺にそう期待する気持ちがあったからだろうと反省した。
九月下旬にあった、俺の初めての魔法技能演習大会はあっけなく終わった。
出場する生徒らは学園から離れた場所に学園が用意した会場へ、これまた学園が用意した馬車で移動した。もちろん、個々人で移動手段が用意できるのならそれで会場へ向かうことも許可されている。だから、基本的には平民と下級貴族や貴族に連なる家の者だけがまとめて馬車で移動した。
会場に到着後は学年毎に競技が行われる。午前は一年生、休憩を挟んで午後からは二年と三年だ。
午後の方が観客が多くなっていることに俺は気づいていた。それはおそらく、一年の演技が他学年と比べると見どころに乏しいからだろう。身内しか観に来ないのに対して、二年三年の生徒が操る魔法は迫力もあるから、身内の応援でなくとも見たいと思わせる。
大会が始まれば、衆人環視の中で生徒一人一人が順繰りにそれぞれの一番得意な、あるいは派手な魔法を与えられた時間をいっぱいに使って披露する。魅せる魔法の使い方、構成力などのセンスと技術力が求められる。
事前に図書館で過去の記録を当たっていなければ、俺には全くできなかっただろう。
俺は午前中は一人で最終調整をしながら過ごした。
午後、昼休憩を挟んで第二学年の番になった。生徒控室は自分の番を待つ生徒がそれぞれ、緊張した面持ちで座っていた。その中に混じって、俺はできるだけ王子やその側近たちの視界に入らないよう小さくなりながらその番を待った。
特に問題が起きることも無く、たんたんと魔法大会は進んでいった。
とうとう俺の名前が呼ばれ控室を出た。控室からそのまま会場入りし、緊張したままに演技をした。
なんの達成感もないままに俺の演技が終わり、何の感慨も無いままに結果がもたらされた。
結果は第二学年ではデミアンが一位だった。王子は三位に入っていた。俺は、二十位で半分にも届かなかった。本当なら入賞しなければならなかったが、仕方なかった。
結果発表後、俺の結果を見た幾人かがくすくすと笑ったりひそひそと何事か俺の振るわなかった結果について好き勝手に言ったりしていたが、そんなものは全く気にもならなかった。そうか、と発表された結果を無感動に受け入れている自分がいた。
大会が終わって数日して十月になった。ここまできてやっと、俺は自分の将来への不安が押し寄せてくるのを感じた。このままでは良くないということだけははっきりしていた。
だから、来年に向けて今から準備をしっかりと固めなければいけないのだと、気持ちを引き締めた。王子たちのことはもうきれいさっぱり忘れようと自分に言い聞かせた。
それからあっという間に秋がきて冬になった。二回テストが終わり、俺はなんとか総合順位で二位を維持できていたが、一位との差は開き、三位との差がもう微々たるものであることに気付いていた。
周囲の連中がまたぞろひそひそと俺のことを噂し合っていた。
もうすぐ二位から陥落するだろう。誰かがそう言うのが聞こえた。
それに俺は内心で同意してしまっていた。本当ならもう転落していてもおかしくは無かった。
これはひとえに、夏休みの間に乗馬の練習をしていたからだった。もし練習していなかったら、とっくに三位に転落していただろう。
アルベルトのおかげだというのは分かっていた。そのことを思うと、俺の胸は苦しくなって、だから無理やりそのときのことは頭を振って追い出した。
嫌な焦りが俺の中で大きくなった。
もう王子を抜いてやろうと言う気概はほとんど残っていなかった。現状を維持するだけで俺には精一杯で、上を目指す余裕などどこにもなかったからだ。俺の能力不足だ。それ以外の理由などありはしない。
雪がちらちらと舞い始め、学園は冬休みになった。
この時期は一年で最も人が少ない時期の一つだった。年越しと新年のお祝いを家族とするために帰省する者が多い。俺のような者でもない限りは、基本的に十二月の半ば頃から生徒らはどんどんと寮を出て行く。夏休みは帰らなかった奴らも、この時期ばかりは実家に帰ってしまっていた。
人が減り静かになった寮の中には、しんとした静寂と心の中まで凍えさせるような冷え冷えとした空気で満ちている。それは古ぼけた内装も相まって、全く別の世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えさせた。
俺は寝る前に院長先生に宛てた手紙を書いた。今年一年の感謝と来年一年を健やかに過ごして欲しい旨を書いた。それから、ちびたちのために新年のお祝いの足しにできるよう、少額だったがお金も送った。
大晦日から一月三日までは料理人も寮母も休暇のため、食事が出ない。その期間は俺は仕事上がりに外で簡単に食べれるものを買って帰ると、一人で食べた。
窓の外にはしんしんと雪が降っていて、底冷えのする寒さだったけれど、今の俺にはふさわしいと思えた。
真っ白な雪が地面に、木々に、家々の屋根に、窓ガラスの桟に積もっていく。全てを汚れのない白さで染め上げていく。人々の暮らしが、この雪の下に閉じ込められて見えなくなる。今だけは、自分の境遇を誰と比較しなくてもいいのだと思うと、この寒さも悪くないなと思えた。
仕事で学園の外に出る時には、雪道を馬車が通り過ぎるたびにデミアンのところの馬車ではないかと身構えた。年末年始は貴族連中のパーティが盛んなようで、外套にマフラー、手袋で着ぶくれした人間が多数、王城やどこかの貴族の屋敷へ向かうだろう馬車に乗り込む姿を見かけた。
彼がそこにいないことに、自分がそこにいないことに、少しだけほっとしていた。
そうやって、馬車や人に気を取られる時、俺は仕事をサボるなと殴られた。
そして、仕事のないような時や仕事終わりに自分の部屋に一人いるような時は、かじかむ指先に自らの吐息を吹きかけたりこすり合わせたりして温めながら、学年末の試験に向けて勉強をした。
寮内は普段では信じられないほど静かだったので、勉強は捗った。
そうしていると、徐々に寮へ生徒が帰ってくる。そしてあっというまに男子寮は以前と同じ活気を取り戻した。あの喧騒の日々が帰って来た。
冬休みが明けた。
休み明けの教室はいつも通りだった。王子もデミアンも元気そうだった。休暇明けのクラスは活気に満ちている。
アルベルトは依然と全く変わらないようで、次から次へとあいさつにくる級友たちに返事をしているのが目に入った。あの穏やかで落ち着いた声が俺の耳にも届く。
以前と違いがあるとしたらそれは、久しぶりに会う友人たちとの間で、互いの休暇中の様子について情報を交換し合う楽しそうな会話があちこちで繰り広げていることくらいだった。
しばらくして先生とちびたちからお礼の手紙が届いた。丁寧で美しい文字が俺の心を慰めた。その中には、お金を送ったことに対する感謝や子供たちの近況があって、それから風邪をひかないように気を付けるよう書かれていた。
それから最後の方に、友達と仲良く過ごすようにという言葉で締められていた。俺の手紙にはいつも俺以外のことなどほとんど書かれていないというのに。
俺はそっとその手紙を引き出しにしまった。
二月の末にあった学年末のテストで、俺はとうとう総合四位に転落した。誰かが俺の結果を大いに喜んだ。
生徒たちのざわめきの中で張り出された結果を見ながら、俺は内心で来るべき時がきたかと思っただけで、なぜかそこまでは落ち込まなかった。
仕方がないという気持ちだけが、俺の中にあった。
自分に無力感を覚えるたびに、街角で幸せそうな人を見るたびに、楽し気に友人たちと騒いでいる人を見るたびに、ひとりで部屋にいる時に、夜寝る前に、何故か、アルベルトの最後の顔がちらついた。悲しそうな顔が。
日々を無感動に過ごしているからだろうか。どんどんと季節は巡って行く。本当にあっという間だった。
三年一学期の二度のテストが終わった。成績は下がり続け、俺はかろうじて総合の十位にとどまっているに過ぎなかった。
俺よりも下にいたやつらが成績を上げて、俺を追い抜いて行った。
将来を見越して、雇う家庭教師の数を増やして対策しているというような話をそこここで聞いた。そのせいで俺には順位を上げるのが難しくなっていた。
けれど、俺はそれをずるいとは思わなかった。仮に俺にそうする金があったなら、同じことを迷わずしているはずだったから。彼らは彼らにできる手段を講じているに過ぎなかった。
俺の成績が下がってきている本当の理由は、徐々に勉強の内容が難しくなり図書館で調べながらの勉強に限界がきたことによるものだと俺は考えていた。彼らが家庭教師を増やし勉強時間を伸ばしたことなど、大した理由ではなかった。
図書館の本の多くは学生のために書かれたものだ。しかし、だからと言って初学者の疑問全てに懇切丁寧に解説をいれてくれているわけではない。
だから、一冊の本の中で何かわからない箇所があったとき、それを理解するためにまた別の本を読む必要があったりする。複数の本を見比べて、それぞれの本から情報を補い合って、そうやって理解しなければいけない箇所が、最終学年になって大きく増えていた。
理由もわからずいきなり出てくる数式、これこれと考えるのは自明なのでという自明ではない説明、省略される途中式、突然の古語の引用、ある単語の今まで知らなかった用法、文法を無視した意訳、飛躍した論理展開、拙著にて解説済みなのでそちらを参照のことなど、全く説明になっていない説明にうんざりさせられた。
それが勉強の気力を否応にも削っていく。それでもなんとか頑張れたのは、先生の応援があったからだろう。
分からないところは逐一質問したかったが、教師も教師で忙しいため、質問が許される時間は長くない。全ての疑問を解消することは難しかった。
そうやって生まれた分からないことが積み重なっていき、そのことによる理解の甘さが俺の成績の悪化へとつながった。
しかし、結局これは自分のせいなので、苛立ちもやるせなさも全て飲み込まなければならなかった。逆にそういったことはどうにもならないのだと割り切って、気持ちや頭を切り替えて一分一秒も無駄にしないことのほうが重要だった。
そんな風でもまだ俺は夢を諦めてはいなかった。
そうやって、這う這うの体で三年の一学期を潜り抜けた。
目の前にはもう、最後の剣術大会が控えていた。
俺の剣術の授業の成績もまた、徐々におちてきていた。同級生たちの伸びていく身長、大きくなる体、増えていく体重、そういったもって生まれた資質の差が、もはや埋められない明確な差として目の前に立ちはだかっていた。
一学期の剣術の最終順位は、やっと二十三位という程度だった。
もはや一回戦の突破も難しいように思われたが、それでも未来のために勝つことを諦めるわけにはいかなかった。諦めたら、そこで可能性が閉ざされてしまうことを、俺は知っていた。やり直せる可能性などは平民の俺にはありはしない。
剣術大会の組み合わせが発表される日。俺は去年と同じように会場から人が捌けるのを待ってから、張り出されたトーナメント表を見に行った。
昨年と同様に、巨大な三枚の紙が並べて張り出されている。第三学年の組み合わせ表は真ん中だった。
俺はその前に立つと、自分の名前を探した。自分が緊張しているのを感じた。
あった。
一回戦の相手は、アルベルトだった。
それを認めたとき一番に思ったことは、全くついていないということだった。思わずため息が零れた。
勝てる見込みなどもうなかった。授業中の模擬戦でも、彼我の差は明確だった。ここに来て、腰巾着どもは俺のことを悪く言うことは無くなっていた。ただ、にやついた表情を浮かべくすくすと意地悪く笑っているのみだった。
客観的に見ても実力差ははっきりとわかるらしかった。
けれど、俺は実力差以前に、アルベルトとは戦いたくないと思った。顔を合わせたくないという理由の為に。
再び、大きなため息が零れた。
もう一度、張り出された紙をみる。やはり結果は変わらない。俺の名前のとなりにある対戦相手の名前は、見間違いなどではなく本当にアルベルトだった。そのままだった。
あんな別れ方をしたのだ。彼の方は俺のことを疎ましく思っていることだろう。剣術の授業でも体育の授業でも、一緒に行動するようなとき、彼は俺に一言も話しかけないことからもそれは明白だった。
一対一で真剣勝負をするとき、不思議と相手の感情がはっきりとわかってしまう。だからなお一層、俺は剣術大会に出たくなかった。大会で真剣勝負をして、彼に嫌われているという事実を知るのが怖いと思った。
嫌われるのが怖い?
自然にそう考えていた自分に気付いて俺は愕然とする。そんなことを考えたのは幼いころ以来久しぶりだった。
子供心に、周囲の大人や町の子供から向けられる悪意に気付いていた。だから、いつのまにか嫌われないようにしようなどと考えるのはやめてしまっていた。どう足掻いたって、俺たち孤児は見下される運命なのだと理解してしまったから。
アルベルトの顔が思い浮かんだ。彼は笑っていた。
でも。
もし、もしも彼に嫌われていなかったら……。そうしたら……。
そんな風な思いが頭のどこかで首をもたげた。
俺は頭を振ってその甘い考えを追い払う。愚かな妄想だと思った。
その馬鹿らしい思いつきを俺は頭から追い払おうとしたけれど、できなかった。もし、もしも嫌われていないのなら。そう思わずにはおれなかった。
そして、愚かな俺は、せめてこの学園を卒業するまでは、嫌われたくはないなどとまで考えてしまっていた。卒業したらこの先二度と会うことなどないとしても。
彼に恥ずかしいところは見せられない。そう強く思った。その考えが俺の弱い心を奮い立たせた。
負けるのは構わない。けれど、戦うことが避けられないのなら、いっそのこと良いと思えるような勝負がしたいと思った。勝てなくとも、記憶に残るような試合ができたなら、あいつは一時でも俺の友達だったことを誇ってくれるだろうか。
そう考えると、全身にやる気が湧いてくるのが分かった。
夏の風が俺の伸びた髪を揺らして通り過ぎる。汗が一筋首筋を流れた。
強い日差しはじりじりと俺を焼いたが、俺の心は軽かった。
俺は踵を返すと、実技練習場へ逸る心を抑えながら向かった。俺の足取りは久しぶりに軽かった。