噂のサーカズム
「まず、道とトンネルを潰さない理由だけど——」
向かいに腰を下ろした僕をチラリと見やって、さかえ義兄さんは言葉を紡いだ。「簡単に解決できそうな要素があってね」
「簡単に解決できる要素?」
僕が鸚鵡返しに言うと、にこりと微笑んだ義兄はうんうん、と頷く。
「そこ私道なんじゃないかなぁ」
僕は息を止めた。盲点だった。確かに、道の先に閉鎖した施設しかないのなら、間違いなくそこは私道だろう。
「だからね、地元の人は手出しできないんだよ。入り口を封鎖することも、トンネルを潰すことも、立て札さえ立てられない」
確かに、手が出せないなら、あの迷惑そうな、それでいて無関心な地元民の反応にも納得がいく。
「じゃあ、施設が閉鎖する前、まだ普通に使える道だった昔から事故が多かったっていうのは」
「デマじゃない? もしくは施設に向かう関係者がもれなくみんなドジっ子だったか」
そんなドジっ子属性あってたまるか。
「じゃあ……じゃあ、あれは」
写真に写り込んだ人影を思い出して、不意に僕は震えた。あまりにも異様で、人には見えなかった、あの姿。
さかえ義兄さんは困った顔で僕を見守りながら、言葉を継いだ。
「不思議だよねぇ。事故があったはずがない、人柱だって立ったことがないそんな場所で、どうしてあんなのが現れたのか」
立ち上がった義兄はシステムキッチンに向かい、コーヒーを淹れ始めた。と言ってもインスタントの粉をカップに入れて、お湯とミルクと砂糖を手当たり次第投入した手抜きコーヒーだ。かちゃかちゃとスプーンで雑にかき混ぜた後、そのスプーンをカップに突っ込んだまま、僕に差し出してきた。
「あ、ありがとう」
カップを受け取り、バカみたいに甘いコーヒーを口にする。それから、同じくコーヒーを淹れて向かいのソファに座るさかえ義兄さんをうかがった。
「……あの写真見たときねぇ、思ったんだ。
——ああ、きっと祓えないなコイツって」
「祓えない? 義兄さん、霊能力とか」
「俺? そんなもん持ってないよ」
あっけらかんという義兄。思わずコーヒーを吹き出しかけて、必死に熱い液体を飲み込む。
「きっとどんな強力な霊能者とか、お坊さんとか、神主さんとか、あと……エクソシスト? とか、そういうのが出てきても、祓えないんじゃないかなぁって意味でね」
「どうして……」
僕の問いかけに、さかえ義兄さんは困った顔をして苦笑する。
「だってあいつ、顔がないもの」
かお。顔がない、幽霊。
手足が異様に長く、背が異様に高いその人影を思い出して、僕は確かに唖然とした。それはどこまで行っても影。顔など、全く思い出せなかった。
「鬱蒼とした山道、薄暗いトンネル。向こうは薄暗い森。そりゃ、ここ怖い、なんかいわくあるんじゃないのって、思う人もいただろうね」
「いや、思ったって……」
いいかけて、ふと、先ほどの義兄の言葉を思い出した。
言葉は意味があり、力がある。
たとえ嘘でも、言い続ければそれが真実になることもある。
「……噂」
義兄の顔が、深く笑みを刻んだ。
「その通り。雑誌にも載るほどの怪奇スポット。そこにいわくがないわけがない。幽霊はいる。いなければならない。怪奇現象は起きる。起きなければならない。
そういう思いや期待が、近くから浮遊霊を集め、それらが地元の人々やそこを訪れる人々の期待と噂を集めに集め——結果がアレなのさ」
ありがちな噂。過激化する内容。撮れ高を期待して突撃する若者。
「地元の人もたまったものではないだろうね。だが彼らが何一つ悪くないというならそれは間違いだ。だって、彼らだって噂をしていた。あそこで『心霊現象は起きる』と口に出していた。誰も手出しできないレベルまで育った噂を、もう誰一人制御できていない。これはそういう話なのさ」
ずず、と音を立てて、さかえ義兄さんはコーヒーを啜った。
廃トンネルの怪異。もし義兄が言ったことが的を射ているのなら、確かにあれは祓うすべがない。なにしろ、祓うための縁など、どこにもないのだから。
そこになぜいるのかも、何のためにいるのかも、全く答えがない、訳がわからない噂の集まり。もっともらしく人柱だの事故だの言っているが、そこに実態も真実もない。
それはつまり、アレはずっと、あの場に残り続ける、ということだ。祓えないとは、そういうことだ。
「じゃあ、これからアレについては、どうすれば」
「どうもしなくていいでしょう」
僕の言葉を、さかえ義兄さんはつまらなそうに遮った。カップに残ったコーヒーをクイっと一気に煽り、それからついと立ち上がってシンクへ。カップを洗う水音を立てながら続ける。
「はるちゃんが怖い思いをしてまで、どうにかしてあげる必要はないよ。あそこで肝試しだの動画撮影だの、しようとしたやつだって同じこと。起きるべくして、起きたのさ。怖い思いをしたかったんだろう? その方が撮れ高もあるし、盛り上がるって思ったんだろう? じゃあ誰に文句を言う筋合いもない」
「だけど」
「それより」
反駁しかけた僕を遮って、さかえ義兄さんは僕の手から空になったカップを取り上げ、肩を強く叩いてきた。
「はるちゃん、はるちゃんは自分が怖い思いをせずに済む手段を選びなさい。君はもう、噂を知ってしまった。そこに『それ』がいると、認知もしている。
——次に行けば、出てくるよ」
「……——っ!」
ぞくりと背筋が泡立って、僕は思わず身震いした。暗いトンネルの向こうにいる『それ』の気配。全身が震えて、急激に温度が下がったような気がした。
僕の様子を見たさかえ義兄さんは、ぽんぽん、と僕の頭を撫で付け、あやすように肩を叩く。いつものひょうきんな義兄に戻って、僕の顔を覗き込む。
「だーかーら、約束。2度と行かないって」
ごく、と喉を鳴らして、背中を伝う汗を感じながら、僕は何とか、搾り出した。
「——も——
もう、行きません」
「よろしい。やっぱりはるちゃんはいいこいいこ」
思い切り子ども扱いされても、今だけは怒りは湧かなかった。
◆ ◆ ◆
——その後。
僕は写真データの入ったメモリカードを机の引き出しの奥に突っ込み、もう2度と見ないことに決めた。あの人影の写真を消すためにもう一度確認するのも憚られ、そういう、少しばかり情けない決断に至ったのは、僕としては不問にしてほしい、と言ったところだ。
その後フォロワーから受け取った件のトンネルの噂だが、どうやら変質しつつあるようだ。
トンネル手前の道路でも怪奇現象の噂が出回るようになったこと、今年の夏肝試しに向かった学生の一人が、まだ帰っていないらしいこと。
僕はその情報に簡単に礼を言ったあと、ノートPCを閉じた。
『アレ』の存在を認知してしまった僕としては、せめて電波や写真データを通じて、『アレ』がこちらに来ないことを、ただひたすら祈るばかりである。
《顔のない怨念 了》