いつも隣にいる彼女の名前を僕は知らない
リビングに置いてある椅子で泣いている彼女と、それをただ茫然と眺めている僕。
この夢は一体いつまで続くのだろうか。
なぜこの夢をずっと見ているのだろうか。
詳しいことはもうあまり覚えていないし、この女性が誰だったかさえ忘れてしまった。
思い出せないし夢だからか思い出す気力もない。
忘れてはいけない何かとても大事なことが記憶から抜けている気がする。
彼女の涙で胸のざわつきが収まらず、僕はドアを開けて家の外へ出た。
そしてそこで夢は終わった。
***
「あっちゃん、今日久しぶりに実家帰ってさ、お母さんとお父さん相変わらず元気そうだった。ほぼ毎日、見舞い来てくれてるんだってね。あとあの子ともさっきすれ違ったよ。あっちゃんのことみんな待ってるんだよ」
長年続いていた夢が突然白い光に包まれた。
そして段々と僕に向かって語りかけているであろう声が聞こえてくる。
僕はゆっくりと目を開けた。
最初は何が何だか認識できなかった。
見えるのにそれが何だか分からなくて、すべてが一つのものに見えた。
「ん、んん......」
上手く喋ることができない。
ここはどこで、動こうとする僕は何だろう。
僕に働く既視感のある事柄が余計に奇妙に思えた。
この世界を理解することができなかった。
「あっちゃん、あっちゃん!?」
急に僕の視界に女性が入り込む。
(あっちゃん......人......人の名前)
「起きたの!? あっちゃん!?」
何回にも及ぶあっちゃんコールに僕は少し理解することができた。
(あっちゃん......僕の名前......)
***
「明弘さんも明日退院ですか、本当に目が覚めてくれて良かったです」
朝の病室の中、隣に座ってリンゴを剥いてくれている小鳥遊 晴海と名乗る女性はそんなことを言う。
意識が回復して約ニ週間が経った。
ずっと植物状態だったので最初の一週間は物事を理解するのに時間がかかり、記憶もほとんど抜け落ちていた。
ただ、母や父、姉から色々と話を聞かされて大半のことは思い出した。
どうやら僕は赤信号を無視したトラックに跳ねられて約五年間意識を失っていたらしい。
当時、大学一年生で名前は平谷 明弘。
母は毎日のように見舞いに来てくれていたようで家族には本当に心配をかけてしまったと思う。
姉はもうすでに結婚していて友達もみんな社会人一年目。
僕だけ大学一年生のままで止まっていて出遅れているようだ。
もちろん経歴的には大学一年生どころか中退で高卒になってしまっている。
しかし忘れ去られてしまった記憶も中にはある。
事故当日のことだとか、友達との記憶だとか様々なことが頭から抜けてしまっている。
この女性に関することもそうだ。
何故かすっぽりと頭から抜けてしまっている。
「りんご、どうぞ食べてください」
「べ、別にいいよ、自分で食べるから」
「大丈夫です、私がしたいだけですから......はい、アーン」
そうして晴海はフォークをりんごに刺して僕の口元まで持ってくる。
子供扱いしないで欲しかったが欲の方が勝ってしまい、大人しく口を開けた。
りんごを口に入れると水々しくそして甘いりんごの味が口の中に広がる。
「そういえば晴海さん、ほぼ毎日会いに来てくれてるよね」
「仕事とかで忙しいなら無理しないでいいのに」
「いえ、今は仕事の方も落ち着いているので大丈夫です」
「そっか、ならいいんだけど......ちなみに晴海さんは僕にとっての何だったの?」
前は相当親密な関係だったことが窺える。
しかし残念ながら僕は一切彼女のことについて覚えていなかった。
僕が晴海に向かってそう言うと晴海はしばし黙り込んだ。
「......本当に明弘さんは何も覚えていないんですね」
「うん、ごめん、でも本当に記憶がないんだ」
「そう......ですか......残念です」
晴海の悲しそうな顔に胸が痛くなる。
しかし彼女はまたすぐにこちらに笑顔を向けた。
「前は......友達でしたよ、ただの友達です」
「そっか、じゃあ相当仲良かったのか」
「えっと、どうしてそう思ったんですか?」
「だって友達でも毎日のように会いに来てくれる人は晴海さんだけだし相当仲良かったんだろうなって」
「ふふ、そうですね、仲は良かったですよ」
「あー、やっぱり、でも何も覚えてないの嫌だな......本当、ごめん」
「そう何度も謝らないでください。ちょっとずつ思い出していけばいいんですから」
晴海はそう言ってまた笑顔を僕に向けた。
何故だろう、晴海と話している間は落ち着くようなドキドキして落ち着かないような不思議な感覚に囚われる。
「......正直に言って私がこうして話しかけに来るのは迷惑ですか? いえ、明弘さんからしたら私は見知らぬ人......ですから、迷惑に決まっていますよね」
「ううん、全然。迷惑っていうか君の記憶失った僕でもこうして会いに来てくれて嬉しい......あのさ、良かったら連絡先教えてくれない? 今は携帯とか持ってないから追加は後になるけど」
「っ......連絡先、何だか懐かしい会話です......いいですよ、交換しましょうか」
僕は彼女のことを詳しく知らない。
ただ、思い出したい、もっと知りたい。彼女のことを。
***
『今日、空いていますか?』
日曜日の朝、ベッドで一人本を読んでいると晴海からメールが届いた。
退院してから一週間が過ぎた。
この一週間は濃厚で忙しいことだらけだった。
それに時代の進歩は意外に早く家の近くにあったコンビニがなくなっていたりと過去との相違が多くあった。
感覚的には退院してまだ一週間しか経っていないのかといった感じである。
母はゆっくりでいいよと言ってくれたが退院後すぐにバイトを始めた。
少しでも失った時間を取り返したかったのだ。
晴海の方も社会人なので忙しい中、連絡するのも悪いだろうと交換しただけで話はしていない。
そんな中、メールが届いたので朝から心が弾む。
『今日は一日中暇』
『では11時ごろ峯ヶ丘公園で会いません?』
『いいよ』
何の用件は知らなかったが晴海と会話はしたいと思っていたので承諾する。
現在時刻は午前九時半。
峯ヶ丘公園はここから近くの公園なのでかなり余裕はある。
僕は本を閉じて、支度を始めることにした。
***
「すみません、お待たせしました」
「全然大丈夫。久しぶり......と言っても一週間ぶりか」
「そうですね、何だか長く感じてしまいます」
晴海はそう言って上品に笑う。
お互いに顔を合わせるのは退院後初めてである。
友達も全員社会人になってそれぞれの道を歩んでいるので置いてけぼり状態。
そんな中、時間を作って会ってくれる晴海には感謝しかない。
「今日はどうしたの?」
「明弘さんって私のこともそうですけどそれ以外にもまだ記憶が曖昧なところが多くありますよね」
「うん、そう。絶賛今それで困ってる」
「だから思い出の場所でも巡ろうかなと思いまして。どうですか?」
晴海は僕にそう提案する。
たしかにいい案かもしれない。
思い出の場所を巡れば何かふと思い出すこともあるかもしれない。
思い出せなくともそこを通じて過去のことを晴海に聞けば自分をもっと知ることができる。
「たしかにありかも」
「では行きましょう、多少運賃とかかかりますけどいいですか?」
「大丈夫、ある程度お金はあるよ」
そうして晴海と僕は歩き出した。
最初に行ったところは隣市の大きなデパートだった。
「思い出の場所ってここ?」
「そうです、思い出の場所というよりもの......というか。映画見ませんか?」
「今から?」
「はい、そうです......幸いなことに五年前一緒に見た映画が再上映しているので......それとも先ご飯にします?」
「僕は映画でもいいよ。お腹空いてないし」
「私もあまり空いていないので先映画見ましょうか」
そうして晴海と僕は一緒に映画を見た。
映画は感動する恋愛映画で上映中、隣を見れば晴海が涙を流していた。
残念なことにこの映画を僕は見た記憶がなかった。
ただ内容に既視感があるという変な感覚だった。
「何度見ても泣けます......あの映画は」
「たしかに泣けなかったけどいい映画だとは思った。ただなんか既視感あった」
「ええ、五年前も見ていますし。その時の明弘さん私より泣いていたんですよ」
「本当に? あー、でも初めて見てたら泣きそう」
それからも二人で様々な思い出のスポットを巡った。
昼はフードコートで軽く食べ、その後はデパートを出て水族館へ行った。
晴海曰くクリスマスの日に一緒に水族館で遊んだらしい。
しかし既視感はありながらも僕は彼女のことについて思い出すことはなかった。
「もう20時ですか、付き合わせてしまってごめんなさいね」
「ううん、大丈夫、こちらこそありがと」
「とりあえず、今日はここには連れてきたかったです」
今いるのは噴水公園だ。
綺麗な噴水がライトアップされていて星空もはっきりとは見えないがそこそこ多くの数見れる。
海に面していて、噴水の音と夜の波の音が公園の雰囲気を作っていた。
「......何か思い出しましたか?」
「残念ながらまったくと言っていいほど何も記憶にないかな。相変わらず既視感はあるだけ」
「そう......ですか。仕方ないですね」
そう言って晴海は笑顔を浮かべる。
しかしその笑顔には元気がなく、作った笑顔であることはすぐにわかった。
「......自己満の旅みたいで振り回しちゃいましたね」
「ううん、そんなことない。たしかに収穫は何もなかったけど楽しかったよ」
僕はそう言って晴海の目を見て笑う。
久しぶりに楽しいという感情を感じた。
目を覚ましてからあまり感情の起伏がなかった。
よくも悪くもずっと落ち着いている。
だから映画を見ても泣けなかった。
しかし今日が楽しい一日だと感じたのは紛れもない事実だった。
「ふふ......相変わらず変わりませんね」
少し動きが止まった後、晴海は今度は心の底から笑ったように見えた。
「何が?」
「何でもないですよ......では、そろそろ帰りましょうか」
「夜道危ないし送ってこうか?」
「大丈夫です。家も近いので......じゃあ、バイバイ、明弘くん」
「ばいばい」
僕は晴海に別れを告げて帰路についた。
***
「どうぞ上がってください」
午後、僕は晴海にそう言われて晴海の家に上がる。
退院して約一ヶ月が経った。
何の進捗もなく、少し高校時代を思い出した程度だ。
晴海のことについては相変わらず何も知らない。
五年前に使っていた携帯は事故で壊れていて記録もないのでわからない。
そこで今日は晴海に家に来ないかと誘われていた。
過去の僕は来たことがあるらしく、何か思い出すことがあるかもしれないとのことだった。
「お邪魔します」
そう言って靴を脱いで晴海の家に上がる。
(あれ......ここ......)
今まで見てきた思い出の場所の中で一番既視感があった。
そして猛烈に胸が締め付けられてしまう。
何故、なぜこうも胸が締め付けられるのだろうか。
「どうしました?」
「あー、いや、何でもない」
過去にあったことと関係するのだろうか、わからない。
ただ、次第に胸の苦しみは収まっていく。
「メールではああ言いましたが、実は暇だったので明弘さんと遊びたかったんです」
「なるほど、僕も実は遊びたかった」
「本当ですか!? 嬉しいです......あ、良かったらあの部屋で待っていてください。今日の朝クッキー作ったのでお菓子でも食べながらゲームでもしましょ」
「わざわざ作ってくれたの?」
「趣味ですし、暇だったので作ろうかなって」
「お菓子作りが趣味っていいね。じゃあ先、部屋で待っとくね」
晴海に言われて僕は晴海の部屋のドアの前に行く。
女子の部屋に入るのは少し抵抗があったが、ドアノブに手をかけてドアを開いた。
ドアを開けると可愛らしい装飾が施された部屋が目に映った。
そしてそれに加えてゲーム機だったり、ピンプの色をしたゲームのキャラクターの人形が置いてある。
どうやらかなりのゲーム好きらしい。
しかし棚の方にはたくさんの本が並べられていて読書も好きなようだ。
そして棚には本に加えて僕と晴海が映った写真が入った写真立てが飾られていた。
(......そっか、親しい友達だったんだもんな)
晴海曰く記憶を失う前はかなり仲の良い友達だったらしい。
けれども今は晴海に関する記憶を無くしてしまい、何も覚えていない。
楽しかった思い出も何もかも。
悔しさと申し訳なさで胸がいっぱいだった。
そんなことを考えていると晴海の部屋の机の上にメモ帳が置かれているのが見えた。
たしかに勝手に見てはいけないかもしれない。
しかし好奇心が勝ってしまった。
『2024年2月3日』
ちょうど二週間前の日付である。
この日は記憶を思い出すために晴海と遊びに行った日だ。
そして日付の後にはこう書かれていた。
『今日は明弘さんと遊んだ。昔、一緒に見た映画が再上映されていたので再び一緒に見た。あれから五年が経った。けど明弘さんがいなかった五年はつまらなかった。五年前に見た映画はやっぱり変わっていなくて映画の感動と懐かしさで明弘さんが隣にいるのに泣いてしまった。その後も思い出の場所を巡った。クリスマスの日に行った水族館、そして今でも忘れないあの噴水公園。でもやっぱり明弘さんは覚えていなかった。覚悟はしていたけどやっぱり悲しい。今の明弘さんは私のことをどう思っているのだろう。もし私のことを思い出してくれたらまずは謝りたい。そしてまたやり直したい。今でも私は明弘さんの』
そこで文は途切れていた。
おそらく次のページに書かれているのだろう。
(あれ、なんで、僕......)
気づけば頬に滴が一滴流れ落ちていた。
それを拭い取って、深呼吸をする。
「あ、それは......」
気づけば晴海がお盆を持って開けたドアの前に立っていた。
晴海の日記を見ていたことに気づかれると少し悲しそうな顔をする。
「もしかして......全部見ちゃいました?」
「えっと......ごめん、このページだけ見ちゃった」
「メモ帳を放置しっぱなしだったみたいですね、やっちゃった......」
「ごめん、見たらダメなものだった?」
「いえ、大丈夫です。本当に見たのこのページだけですか?」
「めくってはいないよ」
「そうですか、なら別に構わないです」
そう言って晴海はメモ帳を棚の中にしまった。
「あのさ、謝りたいって......どういうこと?」
「それ、聞いちゃいますか......」
そう聞くと晴海はしばらく黙り込む。
聞いてはいけないことを聞いてしまったかもと思ったが、過去のことを知らなければならない。
ずっとモヤモヤした想いを抱えているのだ。
それにこれ以上、晴海に迷惑をかけたくない。
事実、僕は晴海を悲しませてしまった。
「......ずっと後悔しているんです。事故があった日からずっと。理由は言えません、言いたくありません。言ったら......いえ、何でもないです」
しかし、彼女は過去のことについては触れなかった。
そしていつも通りの笑顔を思い浮かべた。
「ゆっくり思い出していきませんか? そして思い出した時、しっかりと面と向かって明弘さんに謝らせてくれませんか?」
その言葉に僕は黙って頷いた。
***
2018年 5月12日
『今日は明弘さんと初めてデートに行った。明弘さんから誘ってくれたので嬉しかった。映画はとても感動したので少し泣いてしまったが明弘さんの方が泣いていてびっくりした。感受性の高い人なんだなと意外な一面が知れた。帰り際、お互いにずっと苗字呼びだったけどお互い名前で呼ぶことになった。すごくドキドキした。また明弘さんと遊びたいな』
2018年 7月19日
『今日はデートの帰り際、有名な噴水公園で明弘さんに告白された。私も明弘さんのことが好きだったから夢じゃないかってくらい嬉しかった。その場で返事をしたので明日からは彼氏として明弘さんのそばに立てると思うと今日は眠れないかもな』
2018年 12月24日
『今日は昼に明弘さんとクリスマスデートに行った。デートはたまにしてるのに今日は何故かずっと胸がドキドキしていた。クリスマスデートってことで特別だからかな。お揃いのマグカップ買ったり、手繋いだり、キスしたり。本当幸せな時間だった。別れる時、もっと一緒にいたいと思って明弘さんを引き留めた。でもその後のことを考えていなかったのでつい私の家に泊まらないかって誘ってしまった。そしたら今から私の家に泊まりにくることになった。今日がその日なのかな、さっきからドキドキしっぱなしだな」
2024年 12月25日
『今日は明弘さんのお見舞いに行った。つい最近目を覚ましたと聞いて本当に嬉しかった。目を開けて笑顔を浮かべてさえいる明弘さんに会った時、泣きそうだった。これでやっとあの時のことを謝れるって思った。明弘さんが事故に遭ったのは私のせいだ、私の勘違いのせいだ。けれど明弘さんは私のことを覚えてくれていなかった。一部の記憶がなくなっているらしい。謝ることすらできなかった。それどころか一緒に過ごした思い出を、今の明弘さんは忘れてしまっているらしい。それどころか私の名前まで。すごく悲しかった。私はまだ明弘さんの彼女でいるつもりだったけど、明弘さんは私のことを覚えていないから明弘さんにとって私はただの他人。神様は何でこんな意地悪するんだろうな。もう胸が張り裂けそう、今日は早く寝よう』
最後まで見ていただきありがとうございました。




