序章
『おばあちゃんにはね、魔法使いのお友達がいるの。』
人差し指を唇に添えて、嬉しそうにそんなことを語るおばあちゃんが、私は苦手だ。
楽観的で空想家。
そんなおばあちゃんの話しを聞いていると、自分がつまらない人間に思えてしまうから。
『小さい時は、よくおばあちゃんとバイオリン弾いてたのよ。』
おばあちゃん家に行くことを拒む私を見るたび、母はよく昔話を持ち出す。
たしかに、その頃の私たちは”友達”のように仲良しだった。
二人でドレスを着て演奏会ごっこをした思い出は、強く記憶に残っている。
だけど、私がバイオリンコンクールに出場するようになってから、おばあちゃんとの関係は一気に変化していった。
『おばあちゃんなんかと、遊んでいる時間はないの!
私は、おばあちゃんと違って本気でバイオリンをやってるんだから!』
偉そうにそんなことを吐き捨てたこともある。
その時の私には、どうしても叶えたい夢があって、それに向かって努力している自分が立派だと勘違いしていたのだ。
だけどその夢は、ゆっくりゆっくりと私の首を絞めつけて、まだ幼い瞳から光を奪っていった。
そんな私におばあちゃんは微笑みかける。
『また一緒に演奏会ごっこしましょうね』
なんて、垂れた目尻に幾重もの皺を寄せて。
だから私は、おばあちゃんが苦手だった。
そうして、幼い頃に描いた夢は、高校卒業と共に消えてなくなり、
私の中に挫折という経歴だけを残した。
現在、私は実家を離れ、都会で一人暮らしをしている。
好きでもない仕事に就いて、趣味も目標もなく、なんとなく毎日を過ごしていた。
おばあちゃんが今の私を見たら、どう思うだろう・・・。
そんなある日、私宛に荷物が届いた。
毎日の楽しみである晩酌の時間を邪魔する訪問者。
その腕に抱えるものは、蓋を止めるガムテープが不自然に緩く、数か所に小さな穴が開いていて、いかにも怪しいダンボールだった。
母を通しておばあちゃんから荷物が届くことは聞かされていたが、ダンボールに伝票も貼っていない。
私が受け取りに戸惑っていると、配達員の男性は
『重いので玄関までお持ちしますよ』
と柔らかな声で言う。
その表情は、帽子に隠れてよく伺えない。
『結構です。』
そう意地を張って奪い取ったダンボールは見た目以上に重くて、私は一歩も動けなかった。
すると、配達員の男は小さく笑い
『お任せください。』
と、私の腕から軽々ダンボールを受け取った。
そうしてフローリングの上に荷物を置くと、配達員の男は、屈んだまま、上目遣いに、ニコリと私に微笑みかける。
その瞳は、鮮やかな青色をしていた。
『・・・もういいですよ。』
配達員の男は、不気味にそう言いながらダンボールを軽くノックした。
『え・・・?』
心臓がドクンと跳ねあがり、私は思わず身構え後ずさる。
次の瞬間、ダンボール箱の蓋がひとりでに、ゆっくりと開いていき、
そして、中から飛び出してきたのは・・・
『はじめまして、僕”とかぺー”なの~。』
しゃべる、トゲトゲのトカゲだった。
『驚かせてしまって、すみません。”俺たちが”おばあ様からあなたへの贈り物です。』
そう説明する声は青い目をした配達員のものだが、その姿はなく。
いま私の目の前にいるのは、ふわふわとした毛並みのきつね一匹だけだ。
『えぇ!?・・・ えっとぉ、ちょ、ちょ、ちょっとまって!! 頭が追い付かない。』
”しゃべるトカゲと化けキツネ”を目の前に、「あー」「うー」と言葉にならない唸り声をあげながら、私は頭を抱えた。
するとキツネは、ダンボールの中から一封の封筒を取り出し、しなやかな動作でこちらに差し出す。
桜色の封筒の中には、独特の丸文字が並ぶ便せんが一枚入っていた。
『ペグちゃん、 元気にやっていますか?
おばあちゃんの秘密の友達送ります。
きっと、あなたの心の支えになってくれるわ。
おばあちゃんより』
(わけわかんない!一体何から質問すればいいの?)
何の解決にもならないおばあちゃんからの手紙は、ますます私を混乱させ、ズーンと頭を重くした。
(人間の言葉をしゃべるトカゲ? おばあちゃんのトモダチ? なんで私に送ってきた・・・!?)
『ペグさん・・・?』
私は便箋を睨みつけながら手紙の中に答えを探す。
『ペグさん。』
しかし、何度見返したところでそんなものはない。
『ペグさん!』
自分の名前を呼ばれていることに気が付きハッと我に返ると、キツネはこちらを見てニコリとほほ笑んだ。
『ふふ、あなたはコロコロと表情が変わって可愛らしいですね。
ですが、とりあえずは現状を受け入れてみてはいかがですか? その方が楽ですよ。』
口元を手で隠しながら楽しそうに笑うキツネ。
『受け入れろって言われても…。』
『簡単なことです。
あなたがおばあ様から受け取ったのは、人間とお話ができるトカゲとマイクロブタと
美しいキツネ。 ただそれだけのことです。』
ナルシストなキツネに突っ込む気にもなれないが、そう言われて初めて気が付いたことがある。
ダンボールの中には、目を輝かせて見上げてくるトカゲの他に、もう一匹、目つきの悪いマイクロブタがこちらを睨んでいた。
『申し遅れましたが、俺はキツネの”わふも”と申します。
こちらのマイクロブタさんは”もちょこれくん”です。そして・・・』
『僕は、とかぺーなの。』
わふもの言葉にかぶせながら、じたばたとダンボールの上に乗り上げて話しだすとかぺー。
その重さでダンボールは前方にぐらつきを見せたが、とっさにわふもがダンボールの中に入りこんだおかげで何とか倒れずに済んだ。
『そういうわけですから、ペグさん。今日からお世話になりますね。』
そう言って意地悪そうに微笑むわふもを見て、私は頭を抱え低く唸り声をあげながら彼らの存在を”と・り・あ・え・ず”受け入れることにした。
その後、母に電話で荷物のことをそれとなく聞いてみたが、
おばあちゃんからは『菓子やお野菜を贈った』としか聞かされていないようだった。
動物と喋るなんて、私には初めての体験だ。
おばあちゃんが言っていた『魔法使いのお友達』って、こいつらのこと?
そんな疑問も、今の私には直接聞く勇気さえない。
『・・・あのさ、』
ここで私が初めて話を切り出した。
するとダンボールの中にいるわふもともちょこれは、ツンと耳を尖らせた。
『悪いけど私、動物ってあまり好きじゃないのよね。 餌あげたり、遊んだりなんて絶対無理だし。
もし、飼い主を探してるんだったら……。』
そう言いかけたところで、
『勘違いするな。』
とぶっきらぼうな声が私の言葉を遮った。
その声の主は、先ほどまでこちらを睨んだまま沈黙を貫いていたマイクロブタのものだった。
『私たちは、君の”ペット”になるためにここに来たのではない。
あくまでも、君のおばあ様である駒子に君の”世話”を頼まれたからだ。
まぁ、居候といった形式にはなってしまうが、食事や掃除くらいの面倒はさせてもらうつもりだ。』
赤々と燃える瞳でこちらを見据えるもちょこれは、明らかに不服そうな表情をしている。
『はん、あんたちが私の世話をって、冗談でしょ?
あのね、別に私は小動物の手なんか借りるほど困っちゃいないの!』
私は、わざとらしくため息を吐いて肩をすくめると、もちょこれは部屋の奥へトテトテと歩き出し、こちらもわざとらしく相槌をうつ。
『ほぉー、この部屋が”支障なく生活できている人間の部屋”であると…そういうことか?
山盛りの洗濯籠、畳まれもせず積み重なるダンボール、それに食器棚の中が明らかに少ないな。
そのシンクの中には、いったいどれほどの食器が溜まっているのやら。』
『うっ・・・。』
『ふふふ、ペグさんって素直じゃないんですね。
まぁ、それはそれで可愛いです。
そんなあなたになら、俺はお世話されてみたいですね。』
『誰がするかッ!』
『そんなことよりいいんですか?
とかぺーくんが、何やら面白そうなことを始めていますよ。』
そう言ってわふもが指さす部屋の奥には、積み重なった三個目のダンボールによじ登ろうと手を伸ばすとかぺーがいた。
『ちょっと、危ないっ!』
ぐらつくダンボールをよそに、その小さな手が三個目に手をかける。
するとダンボールは大きく崩れだし部屋中に『わわぁ!』と、とかぺーの声が響いた。
私が彼を抱きかかえようと反射的に一歩足を踏み出すが、既に遅し。
積み重なったダンボールは弾けるようにように宙へ投げ出され、テーブルの上にあった呑みかけのビール缶に見事ヒット!
トクトクトクトク・・・とおいしそうな音を鳴らして、カーペットにゆっくりと大きな円を描いていた。
『ああぁぁ~、最後の一本だったのにぃ~・・・。』
しかし、この惨事の犯人であるとかぺーはというと、何事もなかった顔でヒトコト。
『すん、すん・・・このお部屋、なんか変なにおいするの~。』
私は、がくりと項垂れた。
”人間と話ができる動物”と言うだけでも驚きだが、それ以上に驚いたのは、彼らの生活力だ。
特にもちょこれに関しては、人間である私よりも家庭的と言える。
カーペットにこぼれたビールを見るや、彼らが入っていたダンボールから『割烹着』を素早く取り出し身に着けると、私に指示を出した。
『タオルを3枚用意しろ。うち一枚は水に濡らし、固く絞れ。』
『・・・は、はい。』
勢いに押されるがまま私は脱衣所まで駆けていき、指示通りに雑巾を用意すると居間へと戻た。
もちょこれは私から雑巾を受け取ると、素早くカーペットの応急処置を始める。
『ほぉー・・・。』
あまりの手際の良さに感心しながら眺めている私を、もちょこれはキッと睨んだ。
『眺めている暇があるなら、ダンボールやつまみが乗った皿を片したらどうだ。
またひっくり返されても知らんぞ。』
そう言われてとかぺーを見やると、彼は秘密基地に来た子供のような目で部屋を見渡していた。
『う・・・、わかったわよ。』
言い返すことのできない私は、肩をすぼめながらテーブルのおつまみメンマをそっと冷蔵庫へとしまった。
カーペット対応も一段落し、テーブルの上をきれいに片付けると、もちょこれは休むことなく冷蔵庫を開く。
背の低い一人用の冷蔵庫の中には、お酒と水、キムチ、あとはミニボトルの調味料が少々あるだけ。
(あ、あきらかに今、もちょこれの背中がズッシリと沈み込んだわ。)
その横で、わふもは、ズイと冷蔵庫をのぞき込みながら笑う。
『へ~。ペグさんは、食に関してはミニマリストなのですね。』
『う、うるさいわね。』
こんな小動物たちに何言われたって恥ずかしくもなんともないと、唇を尖らせる私。
もちょこれはため息まじりに話し始めた。
『・・・今から言うものをメモにとれ。』
『え?』
こいつはさっきから偉そうで鼻につくが、まぁビールの借りもある。
仕方ないなと私は言う通りに紙とペンを用意した。
『はいはい用意しましたよ。それで何を書くのよ。』
『ああ。』
そういうもちょこれの口からは、意外にも野菜や調味料などの品があげられ、私は言われるがままにメモを取った。
そして書き終えると、もちょこれは私に”買い出しに行くよう”要求しだしたのだ。
『はぁ? 何で行かなきゃいけないのよ。
私は、仕事で疲れて帰ってきてんだから、これ以上動きたくないの。
ってか、ご飯ならもう食べたし。』
『おつまみメンマと、キムチをか?』
『ふん、パックご飯もチンして食べたわよ?』
『そうか、では”私たちの”夕飯の買い出しを頼む。』
『だから、なんで私が!』
そう言いはしたが、目の前にいる”マイクロブタ”を見て私は標的を変えた。
『・・・買い出しなら、そこのキツネに行かせればいいんじゃない?
人間に化けれるんだし。』
その言葉を聞いたわふもは、わかりやすく両耳を垂れ下げ申し訳なさそうに答える。
『すみません。俺キツネですから、買い出しなんて難しいことできるかどうか…。』
あざとく瞳を潤ませてこちらを見上げるわふも。
絶対わざとだと分かっていても何も言い返せなくて、仕方なく私は再びもちょこれに標的を戻した。
『だいたい、このメモおかしいわよ。
ブリ、キヌサヤ、カボチャって・・・
あんたら、本当にこれ食べられるの?』
するとその言葉に反応したのは、意外にもとかぺーだった。
『ボチャボチャ!?
ね、ね、ね、ボチャボチャ食べられるの?』
そう言いながら足にしがみついてきたとかぺーは、ピョンピョンと跳ねながら私の体を左右にゆすってくる。
『ぼく、ボチャボチャ好き。ボチャボチャ食べたい~!』
『ちょ、ちょっと・・・。』
その様子を見たもちょこれはニヤリと笑って追撃する。
『そうだ。彼女が買い出しにさえ行けば、駒子の美味しいボチャ煮が食べられるぞ。』
『ちょっと煽らないでよ!』
私は、必死に引き離そうとするが、とかぺーはぎゅっと力強く抱きしめ放してくれない。
すると今度は、わふもも楽しそうな声をあげて引っ付いてきた。
『とかぺーくんだけペグさんとくっついてズルいですよ。』
わふもととかぺーは一緒になって食べたい、食べたい”のコールをしながら私の足元で暴れている。そうして、仕方なく私は・・・・
『わーかったから! 買い出し、行けばいいんでしょ!』
この場を治めるには、そう言うしかなった。
『やったぁ、ありがとなのー♪』
私はニコニコのとかぺーとわふもをゆっくり引き剝がすと、のそのそと背を丸めながら身支度を始める。
『では、頼む。』
”してやったり”とでもいうような顔のもちょこれに、私は睨むことしかできなかった。
玄関に向かうと、いつのまにか青年の姿に変身しているわふもが私を呼び止めた。
『俺もお供しますよ。 調味料なども買うとなると、女性一人では大変でしょうから。
荷物持ちはお任せくださいね、ペグさん。』
そんな言葉を慣れた様子で言うわふもの顔は、腹立たしいほどに爽やかで、その背にキラキラ輝きながら「イケメンです。」と書かれた背景を背負っているようだった。
『ぐ・・・勝手にすれば。』
対して女性扱いされることに慣れていない私は、無愛想に返すことしか出来ない。
なんか私、こいつらに上手く転がされてないか・・・?
『さっきからずっと黙っていますね? どうしたんですか?』
大きく膨らんだ買い物袋を揺らしながら、意地悪い笑みでこちらの顔を覗き見るのは青年の姿をしたわふもだ。
その顔から察するに、何故私が買い出し中ずっと黙り込んでいたかを理解しているのだろう。
だが私は、その問いには答えない。
”男の人と並んで歩くのが久しぶりすぎて緊張してる”なんて。
口にすれば調子に乗って何を言ってくるかわからないし。
『・・・あんたさ、どうせなら女の子に化けてくんない。
知り合いに見られたらどうすんのよ。』
『ふふふ、それはやめておいた方がいいと思いますよ。
こんな夜中に綺麗な女性が並んで歩いていては危険でしょ?』
(綺麗な女の人が、並んで・・・!?)
いけない、いけない。勘違いするな。
わふもの不意打ちパンチに危うく頬を緩ませるところだった。
よくもまあそんな言葉を恥ずかしげもなく真正面から言えたものだ。
彼はニコニコとほほ笑みながら、顔を引きつらせている私の反応を見て楽しんでいるようだった。
『あんたって、恐ろしいほどに自信家よね。』
私は悔しい心持ちで嫌味を一つ言って見せる。
しかしわふもは、きょとんとした顔でこんなことを言ってきた。
『ペグさんは、俺の顔きらいですか?』
その問いに一秒たりとも答えを考えてはいけない。
私は息をするようにツルツルと言葉を口から吐き捨てる。
『嫌いよ、嫌い。イケメンは私の趣味じゃないの。』
『そう、ですか・・・。』
先程までずっとニコニコしていた姿はどこへやら、わふもは長いまつげを伏せてポツリとつぶやいた。
(何か変なこと言ったかな・・・?)
彼の突然の変わり身が妙に気になりもするが、私はそれ以上何を言っていいのかわからず黙って彼の隣を歩く。
夕食時の住宅街。
いつもは色んな音が気になるものだが、今日はやけに静かな気がする。
隣に並ぶわふもの、吐息が聞こえてくるほどに。
『・・それにしても、この辺りは街灯も多いですね。
夜というのにまだまだ明るく、オレンジ色の光がそこかしこから漏れ出ている。』
『そりゃぁ、まあ、田舎の道とは違うわよ。』
『しばらくはこの雰囲気に慣れそうにありませんね。
・・・ペグさんは、こちらの生活はもう慣れましたか?』
『まあね。こっちきてもう一年も経つし。』
『帰りたい、とは思わない?』
『え・・・、実家にってこと?』
『・・・。』
何も言わないということは、そういうことなのだろう。
『・・・もしかして、おばあちゃんになんか言われた?』
『いいえ。』
私は両手に抱えたお米をぎゅっと抱きしめ、『思わない』とだけ答えた。
なにせ私は、実家を離れたくて都会にやってきたのだ。
幼い頃から一流のバイオリニストになると大口をたたき続け、見事に挫折。
その上、将来の目標もなくダラダラと過ごす姿を周囲に見せ続けるのは嫌だった。
新しい地で、新しい何かを見つけたい。
そう思ってここへ来た。
でも、そう簡単に”何か”など見つかるわけもなく。
この一年間、雨雲の中を潜り続けているような、そんな時間を過ごしている。そんな私を、おばあちゃんは見透かしているのだろうか。
『・・・てか、おばあちゃんさ、なんであんたらなんか送ってきたの?
私が可哀想とでも思ったのかな?
”心の支えになるから”なんてさ、毎日好きなものに囲まれて、
気楽に暮らしているおばあちゃんに私の気持ちなんてわかるわけないのにね。
そんな簡単じゃないつーの!』
人通りのない夜道に私の声だけが響く。
冷たい風がざーっと吹き抜けると、遠くでザワザワと騒ぐ木々の声がする。
4月と言っても、この時期は夜になるとまだ肌寒い。
私は上着の袖口に手をすっぽり隠し、先程から何も言わないでいるわふもの方に目をやる。
彼は変わらずの穏やかな表情をしたまま、何も言わずに歩き続けている。
『ねぇ・・・どうかした? さっきからぼーっとして?』
『あ・・・すみません。少し、考え事を。』
先程から気持ちが行ったり来たりしているようだが、彼が何を考えているのかさっぱり読み取れずにいる私は、彼の顔をじっと見つめ次の言葉を待った。
するとわふももその視線に気が付き、じっとこちらを見返してくる。
『・・・。』『・・・。』
青く澄んだ瞳が、暗がりに浮かぶ白く透き通った肌が、真っすぐにこちらを見つめている。
私は妙な気まずい心持ちで『なによ?』と突っかかると、わふもが目を細めて小さく微笑んだ。
それは少し冷たさを含んだような笑みだが、彼の整った顔立ちのせいか妙に美しく神秘的ものだった。
『っ・・・ほら、早く帰るわよ。』
私はプイと顔を背け、ざわめく心臓の気持ち悪い感覚をかき消したくて、
大股でドシドシと歩みを進める。
(何なのよさっきから。調子狂うわね。)
だが、後ろからついてくるわふもの気配はない。
気が付いてふと振り返ると、わふもは立ち止まってどこか遠くをを見ていた。
『なにしてんのよ。はやく帰るわよ?』
私が呼びかけると、わふもはわかりやすくニコッと目尻をたらして『はい』と素直に返事をし再び歩き出す。
そうして私の隣までくると、彼は軽い口調でこう言った。
『実は俺、ここに来るまで”あなたを連れて帰りたい”と
考えていたんです。』
やっぱりか。
このキツネが私を実家へ連れて帰りたい理由なんて、思い当たるとしたら一つしかないのだから。しかしわふもは、そんな私の考えを見透かしたように言葉を続けた。
『先に言っておきますが、私の、意志で、そうしたいと思っていたんですよ。』
『・・・なんで、あんたが私を?』
『思ってはいたのですが、それは辞めました。』
『どういうこと?』
私がそう聞くと、また遠くで木々がざわめきだした。
冷たい風に吹かれながら柔らかく細いわふもの髪がフワッと舞う。
その下で彼は、ただただ微笑むだけだった。
買い出しから戻ると、部屋の中は綺麗に整頓されていた。
流し台の前では、もちょこれがカウンターチェアーに立って手早く洗い物を片付けている。
引っ越し当初、インテリアに力を入れようと買った椅子だが、
こんな形で活用される日が来るとは思わなかった。
久しぶりの綺麗な部屋の景色をしみじみと見入っていると、とかぺーが嬉しそうに駆け寄ってきた。
『ペグ、おかえりぃ♪ お買い物ありがとう。』
足元で瞳を輝かせながら見上げてくるとかぺーに、私は『ただいま。』と返す。
そんな台詞を言ったのは久しぶりだ。
『もちょこれくん、買ってきた食材が冷蔵庫に入りきらないようです。』
いつのまにやらキツネ姿に戻っているのわふもは、冷蔵庫の前で買い物袋を広げながらキッチンに向かって声を張る。。
キュッという蛇口の閉まる音と共に、もちょこれはタオルで丁寧に手を拭うとこちらを一瞥し近づいてきた。
『小さい冷蔵庫だからな、仕方ない。常温可能なものと冷蔵保存のものに振り分けておこう。』
と嫌味を言いながら。
『小さくてすみませんでしたね。』
昨日までとは違う賑やかな部屋。
見慣れた蛍光灯は、いつもより明るく、そして暖かく部屋の中を照らしてくれる。なぜだか不思議と懐かしい心持ちだ。
足元でこちらを見上げているとかぺーと目があい、私は何気なく彼の頭を撫でると、とかぺーは気持ちよさそうに目を細め『ん~♪』と嬉しそうな声を上げている。
(ふふ、かわぃ・・・)
そう思いかけた時、現実に引き戻す陰湿な声がした。。
『手は洗ったのか? 汚い手であちこち触るんじゃない。
ついでに風呂も沸いているから入ってくるんだな。』
『・・・あんたは、私のお母さんかっ。』
そう言いながら撫でる手は止めない。
気持ちよさそうなとかぺーを見ていると、不思議と癒される気がした。
そのせいだろうか、無意識にこんな言葉が口をついたのは。
『とかぺーも一緒にお風呂入る?』
言いながら少し驚いた。
自分がこんなことを言うなんて。
『それなら俺も一緒に入りたいですね~。』
すかさずわふもがニコニコとしながら話に入ってくる。
どうやら買い物帰りの時のような様子はなく”軽口のわふも”に戻っているようだった。私は内心ホッとしながらも言葉を返す。
『あんたが入ると、お湯が毛だらけになりそうだから嫌。』
そう言ってとかぺーに向き直ると、とかぺーは『んーん。』と首を横に振った。
その理由は野菜の仕分けをしているもちょこれが”やさしく”説明してくれた。
『悪いが、私達は先にシャワーを使わせてもらった。
この部屋があまりに埃まみれで、少し掃除しただけでも体が真っ黒になったからな。』
『あー、そうですか。』
(黒毛は元からのくせに・・・。)
私は、洗面台へ向かいチャっチャと手を洗うと、浴室の扉を開いた。
じんわりと温かい蒸気が頬を包み、キラキラと浴槽に満ちたお湯が目に留まる。
私は、そっとお湯の中に手を差し込む。
思いのほか体が冷えたのか、湯加減はほんの少し熱い様に感じた。
入浴剤も入っていないただのお湯。
そのはずなのに、差し込んだ手のひらからはじんわりと疲れが解け出る様な感覚がする。
そういえば、最近は、シャワーばかりで済ませていたけど、実家にいたころは、いつもお母さんがお風呂を沸かしてくれていたっけ。
(今度、入浴剤でも買ってこよう)
私は、浮き浮きとした気持ちを抑えながら着替えを取りに部屋へと戻った。
お風呂から上がると、テーブル上が鮮やかな和の定食で彩られていた。白米、豆腐とわかめの味噌汁、ぶりの煮つけ、かぼちゃの煮物、きゅうりのたたき。
『か、完璧だ・・・。』
私は思わず生唾をのみ唖然としてしまった。
『ペグも一緒食べよー♪』
テーブルについたとかぺーはフォークを片手に振り回している。定食は4人分用意されていた。
彼らの目の前にも同様の献立が置かれているが、まだ手は付けていないようだった。
『みんな、ペグさんを待っていたんですよ。』
行儀よく座っているわふもも両手を膝につけたまま、ニコニコとこちらを見ている。
私は、何だかくすぐったい気持ちになって痒くもない首筋をポリポリと掻いた。
『いや、私はご飯食べたし・・・。』
『お腹が空いていないなら仕方がないが、初めて四人で食卓を囲むのだ。
煮物くらいは手をつけたらどうだ。』
視線は一切こちらに向けずもちょこれは無愛想に言う。
私は、目の前の並んだ綺麗な料理の前に抗えることなど出来ず、誘われるがままにテーブルに着席し、両手を合わせた。
『い、いただきます。』
私の声に続いて彼らも手を合わせ『いただきます。』と声をあげる。
私は、そっと味の染みたカボチャを箸でつつくと、それはコックリと綺麗に割れて湯気をはいた。
煮崩れなく、ほど良い柔らかさのカボチャをゆっくり口の中に運ぶ。
『はふぅ・・・・。』
懐かしい味。
おばあちゃんがよく実家におすそ分けしてくれた”かぼちゃの煮物”そのまんまの味だ。
『美味しい・・・。』
お腹は空いていないはずなのに、私の箸は止まらずに次々と料理を口に運ぶ。
お味噌汁をすすりながら、私はふと実家のことを思い出していた。
実家での食卓には、いつもこれだけのおかずが並んでいて、お味噌汁は決まって赤だしだった。
私が塩辛いと文句を言うと
『お父さんがこのくらいじゃないと嫌だってうるさいのよ。』
と母は苦笑いしてたっけ。
煮物に入ってるキヌサヤ。
子供のときは何のために入っているのかわからなかったけど、
大人になった今では、そのちょっとした心配りが嬉しかったりする。
一人暮らしをして初めて知った、毎日の料理や献立を考える大変さ。
当たり前だと思っていたことの影には、母の思いやりと優しさがあったのだと改めて気づかされた。
私は忙しなく動いていた箸を置くと、もごもごとつぶやきながら言う。
『あー、・・・あのさ、
お風呂とか、料理とかさ・・・その、準備してくれて、ありがとね。』
気恥ずかしくて顔が熱くなる。
恐る恐る俯いていた顔を上げると、とかぺーとわふもは嬉しそうな笑顔をこちらに向けていた。
しかし、もちょこれだけは相変わらずこちらを見ようともしない。
手に持っていたフォークを箸置きに置いて、彼は無愛想にこう言った。
『私には礼など必要ない。これが仕事なのだから。』
相変わらずの反応だ。
『ほんっとうに可愛くないやつ・・・。』
その日、私は炊き立ての白米の甘みをゆっくりと噛みしめながら、久々に温かい夕食をお腹一杯楽しんだ。
とかれんぷず、序章 終わり