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《親の心、子知らず この心、親知らず》

 白地のカーテンを小さく揺らめかせる冷たい風が頬に心地良かった。うっすらと雲を纏う半月が道路向かいの公園に並ぶ街灯の上に浮び、小さな羽虫がぶんぶんと唸りを上げている。

 父親から譲り受けたダークブラウンの重役風机に肘を突いて固まった孝彰は、太い赤マジックでマルペケの書かれたカレンダーを尖った視線で睨み付ける。顎の下に置いた、二時間前から放り出されたままの参考書をちらりと見て、孝彰は小さな欠伸を噛み殺した。三色刷りのそっけない酒屋のカレンダー。平野にずらりと居並ぶペケ印軍は、マル陣営まであと七マスに迫り、戦場を漂う一触即発の緊張が孝彰を苛立たせていた。


 三日前、気分転換を兼ねた散歩の果てに立ち寄った近所のコンビニエンスストアで、胴長で色白のクラスメイトに久しぶりに会った。歩道の植え込みに腰掛け、スナック菓子を齧りつつ彼は云った。

「なんて馬鹿馬鹿しいんだろうって思うけどさ、でも、やるしかないんだよな。将来の為だってみんな云うけど、将来何になりたいかなんてまだ解る訳ないってのに、でもさ、やっぱりやるしかない……なんて酷い話なんだ? ホント」

 ぼりぼり、ばりばり。

「最近さ、夢に出てくるんだ、親とか先生とかが。みんな凄い顔して俺を追いかけてくるんだ。逃げて逃げて、とうとう崖っぷちに追いつめられて……そこでいつも目が醒めるんだ。汗びっしょりでね。俺、逃げ出しちゃうかもなぁ。タクだってそうだろ?」

 放物線を描き屑篭の淵で跳ねた、けばけばのビニール包装を見詰め、同じ苦境を味わう者の言葉には、他には無い真実味がある、孝彰はおぼろげながらそう思った。足りない部分、語られていない部分を自分の側で補うことができ、それこそが連帯感と呼ばれるものかもしれない。

 逆をいえば、大人達の科白をその意味以下にしか捉えられないのは、やはりどこか他人事めいたものを感じるからだろう。誰も彼も昔話でも語るみたいな遠い目で、孝彰にとっての今、この瞬間を切り取ろうとするのだ。だから平気で、

「今は辛くても、将来の為には我慢しなさい」

 などと云えるのだろう。明るい将来? それは結構だが、じゃあ今のこの辛さは一体どうしたらいい? 当然誰もそんな難解な問いに対する答えなど持ち合わせていなかった……現時点では。

 結局、胴長で色白のクラスメイトは逃げ出すことを諦めたらしく、孝彰と別れて塾へと向かったのだった。


 頬を膨らませ息を吐き出し、孝彰は椅子をくるりと半回転させ立ち上がり、そのままベッドにダイビングした。

 と、こつこつと扉を叩く音が聞こえレバーハンドルが静かに下り、パジャマ姿の真理恵がおずおずと顔を覗かせた。トマトのような鮮やかな赤のパジャマと、猫の頭を象ったぬいぐるみスリッパ。黒猫の顔は少しだけ内股方向に歪んで、笑っているようにも困っているようにも見える。

「調子、どお? ジュースでも持ってくる?」

 風呂上がりなのか、下ろした髪が艶やかに光っている。真理恵にしては普段に比べ随分と遅い入浴だった。

「いや、いいよ」

 天井を見上げたまま孝彰は首を振り、そっと体を起こした。

「そう?」

 唇の端を上げ微笑んだ真理恵は、開けた時とおなじくゆっくりと扉を戻す。居間の白熱灯が細い筋となって消える直前、孝彰は「ねぇ」と声を掛けベッドの端に足を下ろし扉に、真理恵に向き直った。消え掛けた明かりが戻り「どうかした?」真理恵が今度は両の目だけを覗かせて云った。

「あんまり云わないね、勉強しなさい、って。どうして?」

「……やっぱり、云った方がいいのかしら?」

 目尻に皺を寄せ真理恵は表情を大袈裟に崩し、舌をちらりと覗かせた。

「友達とかはいつも云われてるみたいだから、何でだろうって思って」

 つられて孝彰も笑顔を浮かべたが、それは取って付けたようで真理恵ほど自然ではなく、それに気付いて、照れ臭そうにこめかみを掻き鼻をすすった。首を小さく傾げ、孝彰は答えを暗に促す。真理恵は「うーん」と低く唸ってからもう少しだけ扉を開き上半身を覗かせた。

「応援はしてるのよ。でもね、何て云うか、やっぱりタクのことだから、かなぁ」

 二匹の黒猫は部屋に二歩進み、扉脇にある漫画と文庫本と参考書の並んだ本棚に体をもたせ掛ける。本棚の比率は三・二・一といったところで、秒読みのようである。ただ、孝彰の名誉の為に補足しておくと、参考書の大半は机やその傍らにあり、それらを加えるとその比率は、もう少しくらいは変わる。

「でも、そう云えば私が――」

 真理恵は自分のことをいつも「私」と云っていた。

 「――タクくらいの頃、受験生の頃はね、いっつも勉強勉強ってうるさかったわね。だからかしら? とっても嫌だったから。……何も教えてあげられないけど、でもやっぱり応援くらいはするわよ」

 くすっと笑みを洩らし、しかし視線は一直線に孝彰の目に向かい、捉えて離さなかった。その答えは孝彰にとって難解だった。納得したようなしていないような、自分でも良く解らなかったが二度三度頷き「うん」と返した。

「じゃあ、頑張ってね」

 最後に今迄とは質の異なる笑みを残し、真理恵は居間へと戻った。暫くして扉の隙間を照らす明かりが消え、真理恵が一階の寝室に降りる足音が微かに聞き取れた。

 再びベッドに仰向けになり、時間にして数分のそのやり取りを、孝彰は三倍ほどの手間を掛けて反芻した。

 放物線を描くスナック菓子の梱包が脳裏をかすめ、胴長で色白のクラスメイトの科白が反響する。ぴっ、とデジタル時計が鳴り、日付が変わったことを知らせた。孝彰は頭をぶんぶんと振ってから勢いを付けて起き上がり、そのまま床に脚をついて立ち上がった。大きな深呼吸と伸び。

「うん!」

 胸の前で両手に拳を作り、孝彰はカレンダーを一目見てから椅子に掛け、彼を嘲笑う参考書に立ち向かうべくシャープペンシルを握った。こちらを窺う軍勢を、孝彰は不敵な笑みで睨み返す、攻撃開始。

 シャープペンシルは剣よりは弱くとも、孝彰にとっては唯一の武器である。その孤独な闘いは、明るい将来の為ではなく、今、この瞬間の彼にとっての独立戦争なのだった。


 孝彰はそれから数年後に気付くことになる。真理恵や父親の孝一は、彼を自らの息子である前に、個人として、一人の人格として最大限に尊重していたのだと。

 しかし幼い今の孝彰に、理解を求めるのは酷かもしれない。親としての責任や真心と照らし合わせてみて、それが誉められたことがどうかはケースバイケースだが、少なくとも彼ら親子にとっては正しかったことを、同じく数年後の、幼さや未熟さを乗り越えた孝彰が証明してみせた。


 その時の真理恵に僅かながら落ち度があるとするなら、彼女は孝彰が求めていたものを見落とした、そのことだろう。

 何が解らないのか、それすら解らない幼い彼がその時求めていたのは、もっと明確な、形のある道標だったのだ。何故そうするのか、しなければならないのかをもっと優しく示して欲しかったが、それすら自覚できない孝彰からその問い掛けは出ず、しかし漠然とした不安や恐れだけは感じることが出来る。

 その、全てを押しつぶす程の垂れ込める暗闇を脱するには、シャープペンシルは余りに非力だった。憂鬱を払うには援軍による暖かい応援以外に、ちょっとした助けが必要となる。そう、ほんの小さな光が……。

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