《第一話「プラス、降臨!」・前半》
漆黒の宇宙に浮かぶ美しき緑の星、地球。
その、白いヴェールを纏った輝く水の星に寄り添うように忙しなく駆ける科学技術庁の地球観測衛星〈いざなぎ〉は、鋭い電波の目で眼下の故郷を飽きもせずに眺めていた。
彼は、時折送られてくる耳障りな電子命令に対し面倒くさそうに「はい」だの「いいえ」だのと応え、静かになるとまたその絶景を楽しんだ。彼は間違いなく幸運だった。厳重に固定された視線の先がこれほど美しく神秘的でなければ、彼は通り過ぎてはまた現われる任務に飽き飽きし、その精密な体をむずがらせたり、うだうだと愚痴をこぼしつづけていたに違いないのだから。
その証拠に、彼の姉である〈いざなみ〉は二人の距離が縮まる度に、黄金色に輝く四枚の太陽電池パネルをきしませて「こっちは岩とクレーターだらけでちっとも面白くないわ」とパルス信号で洩らし、彼を羨ましがっていた。
姉には申し訳ないと思いつつも、彼はその任務を満喫していた……つい昨日までは。
太陽に背を焦がされながら南アメリカ大陸の幾何学的な海岸線を見詰めていた彼に、ぱりぱりとした命令が届いた。だが、それは何時もとは形式も内容もずいぶんと違っていた。
「はい、坊や、ごきげんよう。ねえ、良い子だからそっと後ろを振り向いてごらん」
「そう、それからほんのちょっぴり顎を引いて」
「とっても良く出来ました。じゃあ次、眼鏡を取り返るのよ」
「どお? 何か見えた? 何が見えたか云ってみなさいな」
目盛りの付いた視界の中央に真っ白な太陽、その端に黒い影が現われ、それは植物の成長記録を早送りした映像のようにみるみる大きくなり、そして――
「――久作! 久作ったら! ねえ、聞いてるの?」
「……聞いてないよ」
それを耳にした叶勇{かのう・ゆう}は、顔をしかめてから厚みのあるマニュアルを肩関節の稼動域一杯に振りかぶり、大きく息を吸った。
「そう云えば――」
銀縁の眼鏡を人差し指で押し上げ、速河久作{はやかわ・きゅうさく}が視線を分光モニターに残して向き直ると、彼の矯正された目に『要点観測望遠鏡ほむら・操作技術便覧』と書かれた薄緑の壁が猛速度で迫って来た。ぱん! 乾いた音が制御室の金属天井で反響し、周りにいた職員の手が止まる。
「な! なんだよ! いきなり!」
肘掛け椅子から転げ落ちた久作は、ベージュ色の帯電防止床で仰向けになって叫び、「いきなりじゃない!」と勇、それを聞いた職員達からどっと歓声が湧いた。
「おいおい、挙式前だってのに夫婦喧嘩かい? まったく、先が思いやられるぜ」
「予行演習なんだよ。備えあれば、ってか」
「妬けちゃうなぁ、先輩、見せ付けないで下さいよ」
柔らかな野次が飛び、再び歓声が勇と久作に浴びせられた。湯気でも立ち昇りそうなほど顔を火照らせた勇は、白衣の裾をくるくると丸めたり伸ばしたりしている。一方久作はというと、すっとんだ眼鏡を求め、冷たい床を右往左往していたのだった。
今世紀初頭、大西洋ラコニア島のパルナソス山頂に設置された国立天文台の〈ほむら望遠鏡〉は、狭域ながら世界最高水準の分解能と感度を誇り、要点観測の主力として様々な成果を上げてきた。
その、ほむら天文台でのここ最近の話題は超新星発見でも彗星接近でもなく、叶勇と速河久作、二人の天文台職員の結婚話であった。宇宙などという途方も無いものを相手にしていると、そんなごく身近な出来事が新鮮に思えるのかもしれないし、或いはどこであれ、めでたいものはめでたい、そういうことかもしれない。
ともあれ、空ばかり見上げ、地上どころかお互いの顔すら見ていなかった二人がどうすればそんな仲になるのか、これこそ宇宙の神秘だ、そんな冗談まで飛び出すほど勇と久作は仕事に夢中だった。
「久作君と勇君、いますかね?」
台長の永山{ながやま}教授が制御室の扉を開け入ってくると、凍えた外気が狭い部屋で渦巻いた。微かに覗いた外はすっかり闇夜である。
永山教授は温度差により曇った四角いセルフレームの眼鏡を取り細い目をこすり、ふさの付いた分厚いコートを手近の椅子に放ってから、だるまのような巨体をコートと同じく肘掛け椅子にもたせ掛けた。ガススプリングがみしみしと悲鳴を上げる。「ここに」と勇、遅れて、まだ眼鏡を捜している久作が床から「いませんよ」と永山教授のすねの辺り目掛けて云った。
「先週末に提出してもらった例の報告書、太陽活動の赤外・電波観測についてなんですがね――」
傍に腰掛けた勇と、五歩ほど向こうの四つんばいの久作の中間に顔を向けた永山教授は、アルミのアタッシュケースから取り出した分厚いファイルを糸目で追いながら、関取のようにひしゃげた声で続ける。
「――とある方面から、追跡調査の依頼があったんですよ。出来れば二人にお願いしたいんですが、どうでしょう?」
「とある?」
「追跡調査?」
最初が勇、怪訝そうに眉をひそめ、わざとらしくのけぞって見せた。一方久作は「なんでわざわざ」とでも云いたげな表情で立ち上がり、一拍後には実際に口にした。
「なんでわざわざ? 極大期の黒点観測なんて理科の実習みたいなもんでしょ? ほむらの出る幕じゃないですよ。ギャラク・アイにでも押し付けちゃ、どうです?」
嫌みにならないぎりぎりの声色で制御室の壁、国連所属の光学干渉望遠鏡〈ギャラク・アイ〉のある東の丘陵あたりに流し目をくれた。そんな二人の反応は、永山教授が登頂ジープから制御室までの道程で予測していたものとぴたりと一致していたので、彼は可笑しさの余り吹き出しそうになった。
勇の凝り固まった実直さと久作のひねくれた技術者魂は、ほむら以外の、パルナソス山頂にひしめく各国の天文台にまで知れ渡るほど有名なのである。咳払いを一つ、永山教授は居住まいを正し、仏の笑みで説得にかかった。
「……うほん。えー、まず、依頼は日本スペースガード協会からの、科学技術庁から文部省経由の正式なものです。なんでも今回の依頼は一種の国家プロジェクトとして位置付けられているそうで、そんな訳ですからギャラク・アイに、とは行かないんですよ。私には詳しい事情は解りませんが、是非担当者をとのことですので、お願いしますよ。さあ、これで宜しいですか?」
下唇を尖らせた勇が目配せをし、久作は肩を竦めてそれに応えた。二人の沈黙の了解を取り付けた永山教授は、肘掛けに体重を預け苦労して体を持ち上げると、隣接する研究所への扉に手を掛けた。と、彼は、おう、と声を上げてから、
「迎えのジェットが来るそうなので、夜明け前に下山して下さい」そう云い残し、巨体を揺さぶりながら連絡通路に消えた。
「げぇー!」漸く息の合った二人であった。
「土産、期待してるぜ」
「はは、御愁傷様」
「いってらっしゃーい」
野次が飛ぶ。
現代の航空技術を駆使しためまぐるしい帰省を果たした久作と勇は、久方ぶりの日本を味わう暇も無く、重い瞼をこすりながら北海道・室蘭工科大学の苔生した門をくぐった。
休日だったのでキャンパスに人影はなく、二人の目的地である日本スペースガード協会の出張所らしき建物は周囲には見当たらなかった。歩き回ること三十分、学校案内地図のコピーと風景を見比べていた勇から、蓄積した疲労が白く煙る愚痴となって漏れ出し、久作は聞えないふりをするのに苦労した。
また三十分が経ち、敷地の外れを重い足取りで進んでいた二人は不意に立ち止まった。久作と勇はお互いの、汗の浮いた顔を見合わせ無言のやり取りを繰り広げ、ミュージカルの振り付けの如く同じタイミングで振り向く。視線の先、十歩ほど行き過ぎたそこには、くすんだ板張り壁にトタン屋根の乗った平屋の建物が申し訳なさそうにたたずんでいた。それは、建築学だか民俗学だかを専攻する学生達の教材にすら思えるような、掘っ建て小屋のお手本みたいな建物だった。
「……ねぇ」
目をぱちくりさせた勇が掠れた声で久作のウィンドブレーカーの裾を引っ張り、もう一方の手で外壁に釘一本で打ち付けられている、かまぼこ板を十倍くらいにしたような柾目看板を指差した。口を半開きにした勇は、その色褪せた縦書き文字を噛み砕くように読み上げる。
「……にほん……すぺーすがーど、きょう、かい……。久作、これ、どう思う?」
泣き笑いのような複雑な表情で訴える勇に対し久作は、唇を尖らせて鼻を鳴らし、細い指で顎をつまんでから斜に構えて看板を睨んだ。
「ああ、これは間違いなく……」
納得したように小さく何度も頷く。
「……達筆だ」
笹川新総理の打ち出した「開かれた軍事、明るい軍事」法案が国会を通り、その先駈けとして航空自衛隊の種子島基地が一般公開されて半年が経っていた。基地を訪れる人々に一般らしからぬ胡散臭い輩が紛れることは当然の成り行きとはいえ、管制室にずらりと並んだモニターを眺める脇田{わきた}少将は、面白くなかった。
極東紛争を生き抜いた叩き上げの軍人である彼は、老若男女さまざまな来客がそろって口にする「平和」という単語に対し極度のアレルギー症状を示していた。
それを口にする彼らにとって兵器や軍隊は許されざる存在であり、その矢面に立たされる脇田少将などは、死神か疫病神かといったところなのだ。揃いも揃って恒久平和を望む来客達の前で彼は、分厚い胸板や重機を思わせる四肢を目一杯縮めては「防衛力なのです」と繰り返して、こわばった笑顔を振り撒いていた。
一昔前の子供たち、男の子なら、夕日をバックに屹立する高射砲群や、流体工学の結晶たるJFⅡジェット戦闘機、通称〈ソニック〉の勇士に色めき起っただろうに、脇田少将は自分が幼かった頃を描いてそう思った。
近頃では小学生あたりでも冷ややかな眼差しで「人殺しの道具だ」とか「ジェット推進なんて時代遅れな」といった始末である。民間団体と文部省の提唱する反戦教育と、すっかり浸透したハイテク学習装置により育まれた子供たちの思想など、脇田少将のような前時代の遺物には想像も出来ないのだった。
午前中最後の見学者団体を引き連れて管制室を訪れた脇田少将は、ざわざわとやかましい団体をひょろながい新米に引き渡し、戸口に立つ同じく古株の新塚{にいづか}軍曹と肩を並べ、見学者の頭越しにモニター群を見詰めた。
「……良い時代じゃあないですか、少将」
丸刈りの頭部をがりがりと掻き毟りながら、新塚軍曹は角張った顎で団体を示した。
「軍隊が政治主権を握っていた前世紀に比べれば、今は文字通り楽園ですな。幾らか退屈ではあっても、身の危険に晒されて夜も眠れないなんてよりは、ずっと、ずっとマシでしょうよ」
「戦争は滅びた……か」
脇田少将は顔を正面に向けたまま、テレビキャスターの吐いていた科白を真似てみた。
「そうかもしれん。なら、我々も滅びるか?」
「平和ってのは寂しいもんですよ、いつでも」
定規のような背筋で新塚軍曹は云い、小さく鼻を鳴らす。
「不要だと指を差されれば、いつでも滅びてやるよ、俺は」
溜め息と共に脇田少将はそう呟いてみせた。
「不要なら、な」
正午を知らせるアナウンスが基地全体に響き(人気の女性声優による録音だ。勿論、来客者を意識したものである)、団体が回れ右をして出口に向かい始めた。
「――正午です。皆さん、ゆっくりと休んでください、ね――」
小鳥の囀りの如きアナウンス、その直後だった。急ごしらえのアナウンス用ではない方の、天井に埋め込まれたスピーカがアナウンスを押しのけて一斉に騒ぎ始めた。
「メーデー! メーデー! こちらテンペスト・ゼロツー、テンペスト・ゼロツー。所属不明機を目視にて確認……当機に急速接近中。約二十秒で接触コース……レーダーはクリア! 繰り返す、レーダーは、クリア! 情報送れ! こちらテンペスト・ゼロ――」
壮大なノイズを残し、スピーカは唐突に沈黙した。来客者団体は足を止め呆けている。
「どうした!」
脇田少将はオペレータの一人に怒鳴り、壁際から飛び跳ねた。
「本土上空を哨戒中のテンペスト・ゼロツーとの交信が……途絶しました」
インカムを手で押さえ、若いオペレータが云い、別のオペレータが「機体識別反応……消失しました」と付け加えた。脇田少将は新塚軍曹を振り返り、団体に一瞥{いちべつ}をくれてから「何が!」と叫んだ。
錆びたブランコ、満杯の屑篭、猫の額と呼ぶにふさわしい雑然とした公園は珍しく人々で溢れていた。
半袖シャツにジーンズ、足元はサンダルといった休日ファッションに身を包んだ係長は、晴れ渡った秋空に向けて手を翳し、小学三年生になった息子の丸刈り頭を二度三度撫でる。
「望遠鏡? はは、そんな大袈裟じゃあなくても大丈夫さ」
尻ポケットから茶色のウォレットを取り出し、そこから一枚のテレホンカードを抜くと、口をだらしなく開いた息子に手渡し「その穴から覗くんだ」と、得意気に云った。
「ちっちゃ過ぎない? お日様は大きいんだよ」
息子は京都、清水寺の風景がプリントされたテレホンカード(先週、出張した際に駅の売店で買ったものだ)をひらひらさせている。係長は「云う通りにやってごらん」と会社や妻には見せたことも無いような柔らかな笑顔で云い、自分もテレホンカードを手にした。
「ほら、こうやるんだ」
ゼロ度数を示すパンチ穴を右目に、空いた左手を腰に当て、係長は空を、太陽を仰いだ。真っ白な円にしか見えない太陽の中央には、それに空いた穴のような影が一つ――皆既日食である。
「わあ!」息子の囁くような歓声が聞えた。
「ね! ね! あれがお月様? 凄く大きいよ」
「お日様が近いから、大きく見えるのさ」
と寛大な教師のような物言い。
「へえ! お父さんって物知り!」
どうやら、頭上で繰り広げられる天体ショーにより息子に対する株が上がったようで、係長はとても満足した。周囲で同じく空を見上げる人々も「わあ」とか「へえ」などと声を上げていた。
天文予測を完全に無視したその皆既日食は学会でさまざまな議論を呼んでいた。だが、地上のこと、住宅ローンのことで精一杯の係長は当然そんなことには縁遠く、暫くすると、動きも音も無いそのショーに飽きてきたのか大きなあくびを洩らした。
「ほら、あんまり長く見ていると目が疲れるから、程々にしなさい」
しかしそれには応えず、間を置いてから息子は「……お父さん、あれはなぁに?」と云い、真っ只中の日食を指差した。
「どれ?」
息子の指し示すまま係長は顔を上げ目を細めた。太陽に穿たれた穴、黒い円の中央で、何かがゆらゆらと動いていた。周囲と同じく影にしか見えず形までは解らないが、小刻みに震えるようなその不可思議な挙動は航空機の類ではなさそうだった。
「……雲? かな?」
係長と彼の息子と、周囲の人々が凝視する中、影は見る見る広がってゆく。その光景に係長は知らず表情を陰らせていた。
翳{かざ}した掌から血の気が引き、喉を唸らせた。虫の知らせ? 生ぬるい汗が脇の下に浮かび、臓腑に苦いものを感じた直後、滑り台の上で同じく空を見上げていた見知らぬ青年が叫び声を上げた。
「落ちてくるぞ!」
係長は無意識のうちに息子を引っ手繰{たく}り駆け出していた。
それからちょうど二秒後、その小さな公園は周囲の住宅街もろとも、突然飛来した莫大な質量により押しつぶされたのだった。
錆びたブランコや満杯の屑篭は数百トンの粉塵に紛れて舞い上がり、音速に達した衝撃波は係長と息子をペーストにしてから隣県のビル壁に叩き付けた。溶解した岩石の発する熱が誕生したばかりのクレーター周囲の大気をかき混ぜ、一帯は粉塵による黒いフードを被せられ、監視衛星の目すら完全に遮断してしまった。大地に穿たれた、あばたの中央では誰知るともなく蠢くものがあり、そして……日食はいまだに続いていた……。