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《バナナココア》

 がたぴしのガラス引き戸を苦労してこじ開け、佐原孝彰{さわら・たかあき}は初老の店主に軽く会釈をした。

 駅前アーケードの中ほどにあるその文具店は、孝彰の通う中学校からほど近く、また帰路にあったので、品揃えの悪さにも関わらず頻繁に利用していた。角の尖った消しゴムを白い引っ掻き傷だらけの鞄にしまい、垂らした前髪越しに薄く曇った空を見上げた。乏しい日射量の下だと、学生服の黒さが随分とみすぼらしく感じられる。葬式への列席を許される格好なだけのことはあるな、ふとそんな事を考えた。

「何だか冴えないなぁ」

 孝彰は溜め息交じりで呟く。それは頭上の空模様と共に、ここ半年の彼の心情へ向けられたものだった。もう一度、今度は誇張した呼吸でもある溜め息を吐き、自室で彼を待ち構える参考書の山に目掛けて渋々歩き出した。

「おーい、タクぅ!」

 十歩ほど進んだところで背後から彼を呼ぶ声がした。

 或いは自分ではないかもしれないという幼い躊躇が振り返る動作を若干鈍らせたが、すぐにそれは好奇心により相殺された。誰かが彼目掛けて小走りで近付いて来る。

「久しぶりだなぁ、元気か?」

 荒い息遣いの継ぎ目に無理矢理ねじ込んだ風にその女性は云った。あれ? 誰だったかな? 孝彰の眉間にそんな意味の皺が出来た。

 思い切って刈り込んだ黒髪、赤と白のタータンチェックのボタンダウンシャツ。細い足の突き出た膝丈のショートパンツ。彼と同じくらいの上背のその女性は、周囲の造作とは規格外とも思えるほど大きな、それでいて愛敬のある両目をぱちぱちとやり、薄い唇の両端を上げた。その途端、孝彰の押しやられていた記憶が勢い込んで浮上した。

「……ミコ! ミコだ! うん、元気だよ」

 その女性の名は神和彌子{かんなぎ・みこ}。小学生だった孝彰の親友であり姉代わりであり、ついでに宿敵をも務めた、彼の人格形成の中枢部分を占める重要人物である。彌子は彼より八年ほど長く人生を歩んでいて、彼が中学にあがった年に就職して近郊の市街地へと引っ越していったのだ。

「随分と大人っぽくなったなぁ。こないだ会ったのはいつだったっけ?」

 額にうっすらと浮かんだ汗をシャツの袖で無造作に拭い、彌子は整列した白い歯をむき出して満面の笑みを浮かべる。表情や動作が伴ってみると、孝彰の記憶像と眼前の女性は完全に一致した。最初に気付かなかったのが我ながら不思議なほど、彼女は全く変わっていなかった。最後に会ったのは随分と昔、そう――

「小六の夏休み」

「へぇ、そんなになるっけ」

 彌子は感慨を鼻を鳴らすことで表してみせ、顎をしゃくって左手の喫茶店を指し示し「おごるぜ」と芝居めいた声で云った。二人は、古めかしく見える新建材の塊といった風情の、何処にでもあるような無国籍な喫茶店に入った。

「タクは今、中学生、だっけか?」

 孝彰のミルクティーはすぐに運ばれてきたが、バナナココアという奇怪なものを注文した彌子は、未だに冷えた水を啜っている。バナナココア、孝彰には一体何がやってくるのか想像も出来なかった。

「三年。受験生さ」やや自嘲気味な孝彰に対し彌子は「そっか、そりゃ大変だ」と全然大変そうではない調子で頷く。だがそれとて如何にも奔放な彼女らしく、おざなりな返答には聞こえなかった。孝彰は薄笑いを隠そうともせず「ミコは?」と悪戯っぽく云った。白く濁った氷を派手な音を立てて齧っていた彌子は冷えた唇をへの字に歪め、溶けたばかりの水を飲み込んだ。

「あたし? あたしは立派に勤め人やってるぜ」

「ミコが? 冗談でしょ?」

「……タク、そりゃないぜよ。少なくとも真面目に見える程度には働いてるんだから」

 孝彰が、続いて彌子が表情を崩し、目を見合わせてから二人はくくくと喉を鳴らした。

「成長したんだ」

「そうそう、あたしも随分と……ってオイ!」

 数年のブランクもなんのその、他愛ない会話での二人の息はぴったりだった。からからとドアベルが響き、豚肉や葱の詰まったビニール袋を抱えた三人の主婦が、二人のテーブルをかすめていった。どうやらここは駅前アーケードの井戸端会議場らしく、孝彰達の他は全て主婦や、主婦に見える女性客である。

「ミコ、今、暇?」

 唐突に、声色を秘め事めいたものに変えた孝彰がデコラテーブルに小さく乗り出し、彌子は口元に掌を翳し軍事機密でも語るような調子で囁いた。

「聞いて驚け。あたしはいつでも暇なのさ」

「そうなの?」

 孝彰は思わず裏返った声を上げてしまい、隠密会談は儚い寿命を終えた。

「冗談よ。何? どったの?」

「家に遊びに来ない? 面白いビデオがあるんだ」

 一呼吸だけ悩み、「そうさなぁ……いいぜ」彌子は提案を承諾した。そのミリ秒以下の思案は、単なる会話への飾りに過ぎず、そんな技巧など不要な生活を送る孝彰はそれに気付きもしなかった。奇麗に並んだ白い歯を再び覗かせ、彌子は力強く頷き、先の承諾をさらに強調した。彌子は注文した例のバナナココアを取り消し、二人は早速店を出た。今度来た時に注文してみよう、孝彰は密かにそう思ったのだった。

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