《初陣、いざ行かん戦地へ》
月明かりのもとに舞い下りた精霊達は、夜通し続く踊りと宴に夢中になって、しばしば自分達の世界へ帰り遅れる。
朝、澄み切った手付かずの空気の心地良さは、そんな精霊達の残り香だというが、朝にはからきし弱い孝彰には何の事やらさっぱり解らなかった。
目覚し時計と真理恵のお陰で学校に遅刻したことこそなかったが、特に用事のない休日などに完全朝型の真理恵に引きずられるように起こされても、実際に頭が働き出すのにそれから更に一時間はかかった。しかしその日の孝彰は鶏の如き真理恵よりも、そして前日の夜にセットしておいた目覚し時計よりも早くに目醒めた。精霊達のなごりこそ見掛けなかったが、開け放った窓からそよぐ冷え切った大気は、孝彰の高ぶりを幾らかは押さえてくれた。
午前六時、佐原邸。外は朝日で照らされつつある。たっぷりの睡眠時間からの覚醒は電子回路の如き正確さで執り行われ、すぐさま回転を始めた研ぎ澄まされた意識。孝彰は、彼の人生において幾度と無く続くであろう困難の第一歩を、およそ考え得る最高のコンディションで迎えたのだった。いよいよ、入学試験当日である。
クリーニング屋のビニールに包まれた折り目のついたシャツと、塵一つ無い制服が扉の横に吊ってある。
ベッドから体を起こした孝彰は、それをちらりと見やってから勉強机に腰掛けた。参考書の類は既に本棚にしまってあるので、孝一から譲り受けた机の大きさを久しぶりに実感できた。学校のものの三倍はゆうにある。孝彰はつるつるしたダークブラウンの天板をひと撫でし、これまでの半年間を思い返し「良く頑張ったよ」と机に、そして何より自分に対して声を掛けた。今日こそその集大成を示すべき時なのだが、それでも一言誉めてあげたい気分だった。
そっと扉を開け、足音を立てないよう慎重に階段を降り洗面へ入る。冷たい水で顔を洗うと、冷静さが更に増した気がした。孝彰は鏡に映る自分と向き合いその顔を暫く眺め、良く知った自分の顔はしかし昨日のものとは違うように見えた。目の辺りにそれまでには無かった鋭さが見え隠れしている気がする。自分を睨み付け、微笑み掛け、満足した孝彰は居間へ踵を返す。階段を昇りきったところで大欠伸{おおあくび}を噛み殺そうと必死の真理恵が見えた。真っ赤なパジャマが天窓からの光でぎらぎらと眩しく、両足の黒猫も眩しそうに目を細めている。
「あら、もう起きてたの? 随分と早いのね」
真理恵の片目はまだ開ききっていなかった。
「うん。昨日は早く寝たから」
「朝ご飯、すぐに用意するから着替えてらっしゃい」
再び欠伸を堪{こら}え、真理恵は台所へ向かい背丈を越える冷蔵庫の中身を順に眺める。
うん、と返した孝彰は部屋に戻りパジャマを脱ぎ捨て、壁に掛かった制服をゆっくりと、慎重にまとった。小さな姿見に映る黒い制服、冴えない制服は今日に限って随分と頼もしく感じた。まるでその黒に孝彰の知識や努力が染み込んでいるように思えたのだ。これを着ている限りは何の心配も無い、そう思えたのだった。
居間のテーブルにはきんきんに冷えたフルーツジュースとバターを塗ったトースト、そして真理恵がいた。いつもの午前中だと、朝食をとらない真理恵は台所横の作業テーブルに雑誌共々しがみついていたので、その光景は孝彰にとって随分と奇妙に見えた。「いただきます」ソファに腰掛けフルーツジュースを一口、トーストを齧る。
額だか頭のてっぺんだかに、ゆったりとソファに腰掛けた真理恵からの視線を感じた。
「……何?」
口をもぐもぐさせながら孝彰はそう聞いてみた。柔らかな表情のままの真理恵は首をかすかに傾け「何って?」と云い、相変わらず孝彰を眺める。
「ううん、何でもない」
真理恵が漸く口を開いたのは、孝彰が朝食をすっかり終えた頃だった。
「家を出るの、七時よね?」
真理恵は背後を振り返りテレビ横のデジタル時計を見る。孝彰は口の周りについた食べかすを拭い「うん」と頷いて、フルーツジュースの残りをちびちびと喉に流し込む。
「試験は九時から。会場まで一時間半くらいだけど少し早めの方がいいって先生が云ってたから。余裕を持って行きなさい、って」
真理恵の肩越しに時計を見る。出発まではまだ三十分あった。
「切符と受験票、ちゃんと鞄に入れてる?」相変わらず表情は優しい。
「うん。昨日の夜に入れて、さっきも見たよ」
当然だといった調子で孝彰は答え、ソファに仰け反って伸びをした。天窓から覗いた空には小さな雲がちらほらとだけで、受験日和かどうかはともかく快晴だった。
「鉛筆と消しゴムは?」喉仏に真理恵の声が注ぐ。
「はは、鉛筆じゃなくてシャーペンだよ。うん、シャーペン三本に消しゴムは二つ。定規もコンパスも鞄に入れたよ。そんなの使わないけど」
孝彰は天窓にそう説明した。
「じゃあ……」と云い掛けて真理恵はぴたりと止まり、孝彰の視線は辺りをふらふらと散歩してからそんな真理恵に辿り着いた。
朝日の注ぐ優しい母親の顔。だがその瞬間、孝彰はそこに何かを見たのだった。いつもと何ら変わらぬ真理恵の表情、しかしそこに今迄は読み取れなかった何かを、確かに見付けた。孝彰はそのことに心底驚いたが、果たして自分が何を見付けたのか、それを正確に言葉にすることは出来なかった。ただ、今迄は気付かなかった何かに自分は気付いたらしい、それだけが解った。
テレビ映画でスパイの使っていた特殊ゴーグルを付けたような気分だった。何も無いように見える連邦銀行の無愛想な廊下は、特殊ゴーグルを通して見ると警備用のレーザーが張り巡らされているのだ。知らずに進めばブザーが鳴り扉は閉ざされ、あっという間に御用である。
特殊ゴーグルを通して見る真理恵の様子は、いつもとは明らかに違っていた。表情や仕草は変わらないから、どこが、とはっきりと示せないのだが、強いて云うなら雰囲気だろうか。
警備用レーザーを見付けたスパイは様々な小道具を使ってそれに対処する。そして孝彰もまたそうしなければならないと感じた。だが幾ら考えても具体的方策は何も浮かばず、仕方なく孝彰は野生の勘とでもいうべきものに全てを委ねて口を開いたのだった。
「僕ね、宇宙飛行士になるんだ。だから高校に入ったら宇宙飛行士の勉強をするんだ。いいよね?」
長めの間があった。孝彰の発した言葉がふわふわと漂ってから真理恵の耳に届く。空気が粘度を増したようなそんな一拍があった。
真理恵は唐突に立ち上がり「ちょっと……」と云い残し台所の冷蔵庫に半ば駆け出して取り付き、扉を開けて頭を突っ込むようにして中身を探りだした。孝彰はすっかり呆けてしまった。小さくはない照れを押し切って云ったのに、それは真理恵の用事に相殺されて空中分解してしまったようだった。だが孝彰はそれを大したことではない、と何の苦も無く受け入れ、自分が随分と冷静になったと感心したのだった。
子供っぽくても無茶でも良いじゃあないか、そう云い切れる自信を得ていたのだ。
当然それはあの日、神和彌子から授かったものである。真理恵には賛成して応援して欲しかったが、そう焦ることもないだろうと腰を据えられるようにもなっていた。
そんなこんなをひとしきり考えてから孝彰は「ジュース、お代わりね」と未だ冷蔵庫をがさがさとやっている真理恵に向けて云い、再び天窓を見上げた。孝彰の肩幅ほどの小さな天窓では、相変わらずゆっくりと流れる雲の欠片が見え隠れしていた。僅かに覗く太陽は強く、天窓を通して居間を斜めに染め上げている。真っ青な空を声も無く眺めていた孝彰は、ふっと鼻を鳴らして微笑んだ。何故そうしたのか理由などさっぱり解らなかったが、その笑みはごく自然に湧いて出たのだった。
フルーツジュースのプラスチックボトルを抱えた真理恵がソファに戻る。再び満たされたグラスを持ち上げてすぐ、
「どうしたの?」
孝彰は思わず裏返った声を上げた。向かいのソファに座った真理恵の顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていたのだ。真理恵は答えようとするが鳴咽がそれを遮って上手く行かず、タオル地のハンカチで何度も何度も顔を拭う。
「ああ、晩御飯のお魚を探してたんだけどね、なかなか見付からなくって――」
ちん、と洟{はな}をかむ。
「――目と鼻が冷たい空気に当たり過ぎてね、こんなになっちゃったの」
ほら、と赤く腫れ上がった目と鼻を指差して大袈裟に笑った。つられて孝彰も笑い、それが収まってから、
「そろそろ出掛けた方がいいかな?」
デジタル時計は六時五十分の表示、同じくそれを見た真理恵が「そうね」と立ち上がる。真理恵は相変わらず鼻をぐずぐずとやっていた。
「三時半に終わるから五時頃には帰れると思うよ」
傍らにいつものスポーツバッグを置き、孝彰は玄関框に腰掛ける。
「ねぇタク、晩御飯、何がいい?」と真理恵。
孝彰は、
「あれ? 魚じゃあないの?」とスニーカを履きながら云った。
「え? ……ああ、そうね。でも、孝一さん、今日の夕方に帰ってくることだし、せっかくだからちょっとだけ贅沢しちゃいましょ。タクの好きなものにしてあげるわよ。ね、何にする?」
孝彰はうーんと首を傾げてから「じゃあ……焼き肉!」と快活に云い放った。真理恵は「また?」と驚き、しかしすぐに「解ったわ。今夜は焼き肉ね」と孝彰の肩をぽんと叩いた。
スポーツバッグを肩に掛けた孝彰は、スニーカの履き心地を確認するように二度三度と足踏みしてから「じゃあ、行ってきます」と胸を張った。
真理恵は大きく、力強く頷き、
「頑張りなさい、宇宙飛行士さん!」
神和彌子よろしく、びしっと音のするような見事な敬礼をしてみせた。孝彰は踵を打ち鳴らして両足を揃え、同じく敬礼し、
「ラジャ!」
と云い、二人共からからと笑った。
そして孝彰は真理恵と二匹の黒猫スリッパに見送られて家を出た。扉が閉まる直前に電話の呼び出し音と、それに、はいはいと答える真理恵の声が僅かに聞き取れた。