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《応援してるぜ!》

 鼓動が耳を打ち鳴らす。息が切れ、脚の感覚はとっくの昔に麻痺し、ただ同じ動作をひたすら繰り返していた。

 右左右左右左……走って走って、そしてまた走る。頭髪の根元から際限無く汗が流れ落ち、目といわず口といわずその味を噛み締めていた。ここは何処だろう? 見たことも無い風景が延々と続く。足元は湿った地面。所々に下草が生え、未舗装路の両脇はくすんだ色の巨木が等間隔に並んでいる。生い茂った木々はまるで壁のようにそびえ、道の外側の様子を隔てている。土くれのその道は一直線に地平線へと伸び、端は霞んで見えない。

 急げ! そう本能がまくし立てる。そう、急がなければ、追いつかれてしまう。追いつかれたら最後……。

 気を抜いた為か、ぬかるみに足を取られ、そのまま前進しようとする上半身だけがフライングし、派手な音を立てて地面に倒れ込んだ。泥水が盛大に跳ね散る。受け身も取れずに右肩をまともに打ち付けたが、その痛みは恐怖により瞬間に吹き飛んだ。まずい! 大地を掻き毟るようにして這いずり、少しでも先へ進もうと、少しでも遠ざかろうと爪を突き立てる。体が鉛のように重かった。

「おい、待てよ……なんで逃げるんだ?」

 その声は、頭上から浴びせられた。先回りされた! 頭髪が逆立ち、食い縛った歯がかたかたと鳴り出した。ざっと土をめくり、くすんだスニーカの爪先が視界に飛び込んできた。硬直した筋肉がみしみしと音を立て、顎が少しずつ上がる。意思に反し首がもたげられ、その人物を捉えようとする……極限に達した恐怖がそうさせるのだ。

 ばりばり、ぼりぼり。

 胴長で色白のクラスメイトだ。スナック菓子を頬張り、

「自分だけ逃げようだなんて」灰色の瞳がぎらりと光る。

「でも無駄さ。逃げ切れる訳がないのさ、ほら、見てみな」

 平たい顎をしゃくって後ろを示す。

「残念だったな」

 乾いた高笑いが響き渡り、それが消え入らぬうちに別の、複数の足音が迫り、そしてやんだ。ぎしぎしと振り返ると、そこには――


「タクぅ、電話よ」

 どかどかと扉が震え、真理恵のくぐもった呼び掛けが届いた。カーテンの隙間から顔に強い日差しが当たり、頬が生暖かかった。

 重たい瞼を開け、孝彰の目に飛び込んできたのは、こうこうと照らされる参考書の背表紙だった。汗だくの体を起こそうとして、腰と肩に激しい痛みを感じた。机についたまま寝入ったらしい。痛まぬように慎重に首をもたげると、ぽきりと関節が鳴った。

「タク、寝てるの?」

 再びどかどか。

「今……起きた」

 喉がかさかさで声は低く掠れていた。夢の余韻、残留する感覚、恐怖、それらが舌の上でねっとりとした感触を生む。

「電話? 誰?」

 漸く立ち上がり、全身をゆっくりと揉み解す。扉が開き真理恵が顔を突き出した。既に薄い化粧を済ませており、あちらはすっかり活動時間に入っているようだった。

「ミコちゃんよ、はい」

 そう云って電話の子機を振ってみせた。脚を引きずる様にして戸口に向かい、真理恵から子機を受け取って、天窓から注ぐ直射光で明るすぎる居間へと進んだ。眩しさで目頭が僅かに痛んだ。テーブルを大きく迂回し、亀の歩みでソファに辿り着き、崩れ落ちるように座り込んでから保留ボタンを押し、耳を押しつける。

「もしもし――」

「コッケコッコォォ!」

 子機がいきなりそう叫び、孝彰は反射的に受話器を耳から遠ざけた。

「……お目醒めかい? タク」

「ミコ? ……うん、おはよう」

 テレビ横の置き時計をちらりと見る。十時五分。

「ねぇタク、今日、ちょこっと外出できないか?」

 彌子の弾んだ声が虚ろな意識に容赦無くこだまする。

「あたしさぁ、明日帰るからさ、その前に――」

「え! そうなの?」

「ええ、そうなの。んでさ、その前に昼食でも御馳走してやろうじゃあないかという、心優しきこのあたし。うむ、立派立派! さあ誉めろ、やれ誉めろ、そら来い!」

 ごきりと肩を鳴らし、孝彰は受話器を右耳に置き換えた。

「やった! 何食べるの? ハンバーガーじゃ、やだよ」

 子機からほほほと間抜けな笑いが起こり「働くお姉さんをなめてもらちゃあ、こまるぜ」真理恵が寄ってきてテーブルにフルーツジュースを置き、にこりと微笑んで再び台所へ消える。

「フランス料理? イタリア料理? キャビア? フォアグラ?」

 孝彰は思いついた高級料理を次々と列挙してみせた。ふいに沈黙が訪れる。

「……タク知ってるか? 日本にある外国料理店は輸入規制があって、政治家と歌手以外は入れないんだ。それにキャビアは十八歳未満は食べちゃあいけないって法律が去年出来て、そんでもってフォアグラはね、日本人が食べると痙攣を起こして泡吹いて死んじゃうって、もっぱらの噂だぜ」

「そ、そうなの?」

「いや、嘘だけど……」

 そして、孝彰と受話器向こうの彌子は同時に大笑いしたのだった。

 たっぷり一分後、笑いの収まった彌子が息も絶え絶えといった様子で「スパゲティでどお? 喫茶店みたくじゃあない、そこそこいける店知ってるから」と提案した。

「うん、何処に何時?」と孝彰。

 口にしたフルーツジュースはきんきんに冷えており、額の裏がみしりと痛んだ。

「その店、駅前だから、ロータリー前に十一時半。どお? 出れるかい?」

「うん解った、それじゃあ……」

「おう、それじゃあな」

 彌子が受話器を置くのを待ち、孝彰は電話を切った。

 先程の大笑いのなごりを頬に浮かべ、孝彰はグラスの残りを一気に呷った。少し時間があるが身支度を先に済ませておこうと自室へ向かう。台所に据え付けた作業テーブルに座る真理恵が「キャビアって?」と、読みかけの雑誌から目を離さずに云う。

 大人びた顔つきで微笑んだ孝彰は「十八歳になったら食べさせてよ」と云ってから居間を出た。


 一間間口の押し入れに渡されたパイプハンガー。そこに吊るされた数少なのシャツやコートは、どれも余りぱっとしないように思えた。

 背伸びしたクラスメイト達に比べて流行や着飾ることに興味の薄い孝彰は、その時ばかりはそれをちょっとだけ悔やんだ。今の高揚した気分は清潔で落ち着いた、それでいて品のある、そんな服装を求めていたが、孝彰の目に映るどれもこれも安手のファッション雑誌を飾る張りぼてにしか見えなかった。とはいえそれらを選んだのは孝彰自身に他ならないのだが。ぱっと閃き、孝彰は部屋を出る。

 半ば駆け出し台所の真理恵に取り付き、

「ねぇ、あのシャツどこだっけ? ほら、灰色のあれ」

 早口でそうまくし立てた。

「灰色? ああ、孝一さんが誕生日に買ってくれたやつ?」

「うん。どこに入れたの?」

 雑誌を閉じ、真理恵は上目遣いで思案してから、

「えっと、確かクリーニングに出して……タクの部屋にないんだったら多分、孝一さんのスーツと一緒に――」

「父さんの部屋だね? ありがとう!」

 真理恵が云い終わるころには孝彰は姿を消していた。

「……デート、かしら?」


 玄関から一直線に続く薄暗い廊下の突き当たり、納戸の向かいにある孝一の部屋は彼の書斎と仕事場を兼ねており、孝彰は数えるほどしか足を踏み入れたことが無かった。

 別に立ち入り禁止ではないのだが、その重々しい雰囲気は孝彰にとって余り居心地の良いものではなく、辞書でもなんでも遠慮せず使いなさいという孝一の言葉にも関わらず自然に足が遠のいていたのだった。そっとレバーに手を掛け、慎重に扉を開ける。鍵はもともと付いていない。出張により主不在の書斎兼仕事場は閉ざされた雨戸により真っ暗だった。

 廊下の明かりを頼りに壁のスイッチを探り当て照明を灯すと、居間や孝彰の部屋とは違う白々とした蛍光燈がちかちかと瞬いて、書斎を人工色に浮き立たせた。日射量こそ違うが、窓や扉の位置、広さも間取りも自分の部屋と全く同じ筈なのに、書斎はまるで別世界のように見えた。

 壁に沿ってずらりと並んだ背の高い木製本棚、両手を広げて余りある巨大な机と肘掛けの付いた黒皮椅子、仕事で使う半畳ほどもある製図台と用途不明の様々な文具類、仕事兼趣味用の小さなパソコンとその脇の様々な周辺機器。整然としたそれらを引き締める、扉向かいの壁に掛かった額入りの複製絵画は、美術の教科書で見たことのあるものだった。孝彰は暫しその光景に見入っていた。

 いつも唇の端を緩め、ひょうひょうとしている父親の別の面がそこに覗いた気がしたのだった。書斎に入るのは初めてではない。だが、以前はそんなことを思いもしなかった。本棚の半分は仕事以外のものも混じった専門書と様々な種類の辞典が分類毎に整列し、残りの部分にはハードカバー小説と文庫本が詰まっている。書斎の印象はその本棚によるところが大きかった。本棚は部屋の顔である、以前そうテレビが云っていた。孝彰はその陳腐な科白を実感したのだった。

 はっとして、目的を思い出した孝彰は書斎にずんずんと分け入り、同じくパイプハンガーの渡された押し入れに近付き、重い折れ戸をこじ開けた。かすかに防虫剤の匂いのするそこには孝一のスーツとワイシャツがずらりと並んでいた。紺、黒、灰色といった寒色系のスーツがまるで眠っているようだ。先刻、孝彰が無い知識をもって描いた、落ち着いて品のある服がそこにあった。パイプハンガーの端に普段着の、幾らか鮮やかなシャツが数枚下がっており、孝彰の目当てのものはそこにあった。他のものに比べて丈も袖も短い灰色のコットンシャツ、孝彰の服だ。緊張した面持ちでシャツをハンガーごと手にし折れ戸を閉じ、もう一度書斎を見渡してから、孝彰はそこを後にした。


 階段を昇り部屋に向かう途中で、作業テーブルの真理恵が「あったの?」と声を掛けたので、孝彰はシャツを掲げて頷いた。

 ハンガーを放り、ベッドの上に皺が出来ない様に丁寧にシャツを広げる。隙間だらけの押し入れから黒染めのジーンズと、シャツと同じような色の靴下を取り出し、それらをベッドの上のシャツと並べ、服を着たまま寝そべった透明人間を作ってみた。

 孝彰は腕を組み、突っ立った姿勢の透明人間を上から順に眺め「まあいいか」とへの字に曲げた口で呟く。ちらりと見た壁掛け時計の針は十時四十分を示していた。まだ随分と時間がある。暫し悩み、孝彰は部屋を出た。階段の手摺に手を掛けた孝彰に対し、「他にも何か探し物?」と真理恵。

 孝彰は振り返った肩越しに「シャワー浴びてくる」と云ってから、ぱたぱたと駆け下りて行った。ほう、と鼻を鳴らす真理恵。

「あらあら、そんなにはしゃいじゃあ、ねぇ……」

 浴室を出て髪を乾かし、ぱりっとした灰色のシャツに袖を通すと、既に十一時を回っていた。

 駅前ロータリーまでは歩いて二十分といったところ。自転車なら五分だが徒歩の方が動き易いに違いない。少し早いが遅れるよりは良いと判断し、孝彰は台所の真理恵に、これから出掛ける、昼はいらないと云いに行く。

「あんまり遅くなっちゃ駄目よ」

 孝彰を見送ろうと立ち上がる真理恵。

 黒のスポーツバッグを引っ手繰り、階段を降り薄暗い廊下を抜け玄関に辿り着いてから、孝彰は「あ!」と思わず声を上げた。靴のことをすっかり失念していたのだ。

 靴箱には白いロゴマークの縫い付けられた濃紺スニーカが一足、それだけだった。遅れて降りてきた真理恵は、振り返る孝彰の悲壮な顔付きに驚き「何? 忘れ物?」と丸い目で尋ねた。スニーカと真理恵の顔を交互に見詰め「靴が……」とだけ洩らすとがっくりとうなだれた。

 同じくスニーカをちらりと見て、真理恵は「ははぁ、成る程」と聞こえない様に囁いた。

 どうにか色味を統一した服装に対し、その濃紺のスニーカ、特に白いロゴマークは確かにちぐはぐだった。

 孝彰の意を察した真理恵は上目遣いで思案し、すぐに掌を拳でぽんと叩いた。孝彰の心配そうな視線を背中に浴びながら、真理恵は靴箱をがさがさと漁り、奥から埃を被った箱を取り出した。ふっと息を吹きかけ埃を払い、箱から一足の革靴を取り出して、

「これ、どうかしら?」

 と掲げてみせる。

 それは、くたびれて所々白くひび割れた黒のウィングチップだった。

「……父さんのじゃ大きいよ」

「これは大丈夫よ。ほら、履いてみて」

 そう云って革靴を玄関タイルの上に奇麗に並べた。右の靴紐を解き孝彰はおずおずと足を入れ、そして呟いた。

「……ぴったりだ」

 振り向く表情は喜び以前に、驚きで満たされていた。その目が「どうして?」と訴える。えくぼを作った真理恵は屈んで目の高さを孝彰に合わせる。

「それね、孝一さんがタクくらいの頃にご両親から買ってもらったものなんだって」

 下がった目尻に小さな皺が寄る。

「卒業祝い、あれ? 入学祝いだったかしら? 流石に今じゃ小さくて履けないけど、それでも大切なものだからって、ずっと持ってたのよ。ちょっと汚れてるけど磨けばすぐにぴかぴかになるわよ。いくらか大きかったり小さかったりするかと思ったけど、良かったわね。さ、磨いてあげるから脱いで」

「いいの?」

「あら、自分で磨く?」

「じゃなくてさ、大切なんじゃないの? これ」

 瞬きを数回、孝彰は足を抜いた革靴を見る。真理恵はふふふと洩らしてから「タクなら、ね」と優しく云い、ウインクをしてみせた。

 ブラシで埃を払い真っ黒な靴墨で丁寧に磨かれた革靴は、真理恵の云った通りぴかぴかになった。

 柔らかな革は二十数年分の含蓄と風合いを醸しており、孝彰にはその革靴が山深くに篭る仙人のように見えたのだった。翼飾りは細めた目といったところか。革靴に両足を入れ紐を緩めに結び、孝彰は立ち上がってから「どう?」と照れ臭そうに云った。両手を腰に当てた真理恵は「ばっちり、決まってるわよ」と一つ頷いた。

 スポーツバッグを肩に下げ弾んだ声を残し孝彰は駆け出していった。

「行ってきます!」

「頑張ってねぇ」

 がちゃりと両開き扉が閉まった。ポーチを抜けた孝彰は、僅かに聞き取れた真理恵の科白に首を捻っていた。


 慣れないこともあり最初はむず痒かった革靴も、角を折れ駅前ロータリーが見えた頃には足にすっかり馴染んでいた。

 道すがら何度も立ち止まり、浮かせた革靴をしげしげと眺めていたので、既に定刻二分前だった。タクシーが一台だけ止まっている駅前。皆、大きな店舗ビルの立ち並ぶ駅の反対側へ向かうので、ロータリー側はいつも通り閑散としていた。取り残された風に錆びれたアーケードの人通りもやはりまばらで、ちらほら見えるのは老人と親子連ればかりだった。

 辺りを見廻し、行き付けの小さな文具店前の煉瓦の植え込みに腰掛ける彌子を見付けた。孝彰は小走りで駆け出し「ミコ!」呼びかけた。五歩まで迫ったところで彌子が手にした文庫本から顔を上げた。

「ちゃお」

 閉じたピースマークを眉に当て敬礼をする。

「うん」孝彰は腰高に手を挙げそれに応えた。

 今日の彌子の装いは、真っ黒なロゴがプリントされた鮮やかなオレンジ色のフードパーカー、淡いベージュの、腿が全部剥き出しになったショートパンツ、足元はごつごつしたバスケットシューズといったものだった。プリントロゴ(『HTS』とあるが、意味は分からない)と同じく黒いキャップを目深に被り、こちらには『NASA』と赤い刺繍で綴られている。

「おり? なんか今日のタクってば……」

 植え込みから立ち上がり尻を叩いてから、彌子は孝彰の頭のてっぺんから爪先までを眺める。出掛ける間際のどたばたを思い返し、孝彰はどきどきしながら彌子の次の言葉を待った。ぱりぱりの灰色シャツの袖をそっと窺う。

 彌子は眉を上下に動かし腕を組み、一呼吸置いてから、

「……カッコイイじゃん」ぽつりとそう云った。

 彌子らしいひねりや肩すかしを想定していた孝彰は、その余りにストレートな表現に頬を真っ赤に火照らせ目を泳がせてしまった。あの、と云ったきり言葉が詰まる。

 フードパーカーのポケットに文庫本と両手を突っ込んだ彌子は、一歩前に出て笑顔を作り「良く似合ってるよ、悪くない」と、とどめを刺した。もう、ただひたすら指先をもじもじさせる孝彰であった。

「さ! お腹と背中が融着しちゃう前にランチとしゃれこもうじゃないか、ナイスガイ」

 孝彰の灰色の肩をぽんと叩き、彌子はアーケード方向に向け歩き出す。

「うん」声が裏返り、頬の赤さが更に増した。


 彌子の後に続きアーケードにひしめく古めかしい店々を通り過ぎる。アーケードのちょうど中ほどに狭い階段があり、それを昇ったところにそのスパゲティ店はあった。

 六脚ほどのカウンターと四人掛けのテーブル席が三組、狭い店内にはそれで精一杯だった。孝彰の知るどの店と比べても、その店内は昼だというのに随分と薄暗かった。カウンターとテーブルにそれぞれスポット照明の暖かいオレンジ色が燈っている。

 レジスターの所に立つ、つんと取り澄ました男性店員に「予約しといた神和です」と彌子が押し殺した声色で云うと、後ろで髪を結んだその若い店員は「承っております。ご案内いたします」とやはり押し殺した声で応え、レジスターの前に滑るように歩き出て、そのまま一番奥のテーブル席へと二人を先導した。

 孝彰は定まらない視線を巡らせつつ、おぼつかない足取りで男性店員と彌子の後に続く。右手と右足が同時に出そうになる。二人の椅子を引いて、絶妙のタイミングでまた戻し、店員はメニューを置いていった。

 割肌の石貼りの店内に他の客はなく、微かなBGMがふわふわと漂っている。バイオリンやらチェロ、クラシックとだけどうにか解る。一言でいえば、その店は上品だった。店の雰囲気に対する孝彰のぎこちなさは、午前中に孝一の書斎で味わったものと似ていた。きょろきょろと目だけを動かし辺りを窺う孝彰に、彌子がトーンを落とした声を掛ける。

「あたしはミートスパゲティ、最近食べた覚えが無くてね。タクは何にする?」

「え? うん、えっと……」

 云われて始めてメニューに目を落とすが、そこには余り聞きなれない種類の、恐らくスパゲティであろう品々が並んでいた。解ったのは彌子の云ったミートスパゲティと、ドリンクと括られた部分の半分、それくらいだった。他はゲームに出てくる呪文かなにかにしか見えない。

「ここはね――」

 壁際に据えられた古めかしいステレオセットを眺めながら、

「――カルボナーラがいけるぜ。無難に過ぎる気もするけど、半熟卵と生クリームが苦手じゃなかったら、お勧めだな」

 独り言のように呟く。

「美味しいよ、どお?」

「うん。それにする」

 孝彰の表情に重い木製扉をくぐってからまとわり付いていた陰りが漸く晴れた。レジスター側に背を向けた彌子が左手を肩の高さに挙げると、先程の店員が音も無く擦り寄ってきた。

「あたしはミートスパゲティでこちらはカルボナーラね」

「はい。お飲み物はいかがなさいますか?」

「そうさねぇ……ペプシでいいや。タク?」

「僕もそれがいい」

「じゃあペプシコーラを二つ。構わないからすぐに持ってきてくれます?」

「かしこまりました」

 店員は煙の如く消え去った。それから暫く二人共なんとなく口をつぐみ、壁に並ぶ赤茶の古地図やら真鍮製のランプなどをゆっくりと眺めていた。

 孝彰の目が壁をちょうど一巡した頃、円筒グラスに入ったペプシコーラが銀の盆に乗ってやって来た。

「お腹が膨れちゃうからさ、ちょこっとだけだぜ」

 グラスを翳し悪戯っぽく微笑む。透き通った氷が二つ浮いたごく普通のペプシは、しかし普通より少しだけ美味しい気がした。

「ま、甘めの食前酒ってとこだな」

 目を細め彌子は、一人可笑しそうに表情を崩す。

「そのシャツ、タクが選んだの?」

 グラスを孝彰の胸元辺りに向けた。

「ううん、父さん。誕生日に買ってくれたんだけど、着るのは今日が初めて」

「いや、そうじゃなくてさ」笑顔は崩さず彌子は続ける。

「今日それを選んだのは?」

「ああ、勿論僕だけど、何で?」

 彌子はふうんと小さく唸り、グラスを一口啜る。

「ん? ま、いいや……お、来たぜ」

 曖昧な笑みを浮かべて彌子は話題を唐突に終え、入れ違いに料理が二皿運ばれる。

「いただきまぁす」

 店員が消えるや否や、彌子はすぐさまそう云って皿を胸元に寄せた。

 スプーンとフォークを器用に操りくるくると巻き、ミートスパゲティを次々と口にする。スプーンとフォークを使うスパゲティの食べ方を、以前真理恵が教えてくれたことがあったが、孝彰はとうとうそれを身に付けずじまいだった。口をもがもがさせながら、

「結構器用だろ? あたしって。タクもやってみな」

 こくりと一つ頷き、彌子を真似てみる。だが、フォークを幾ら回してもスパゲティはするすると抜けて行くばかりだった。

「ちょっとしたコツがあんのさ。ホントは門外不出の秘伝なんだけど、タクにだったら特別に伝授してもいいぜ。どお?」

「うん、教えて」「ふむ、良かろう……心して聞けい。持ち方はこう――」両手を少しだけ掲げる。

「まず、いきなり神髄なんだけどね、フォークでスパゲティを一口分すくうんだ。その時にこうやって、サラダとかをすくうみたいにスプーンも使って両方から挟むと上手くいくんだよ。最初は一口よりも少な目にしておくといいかな、食べ易いから。すくわずにスプーンに載せるとさ、上手く巻き取れないし、巻き付いてくる量が分からなくって、でっかくて口に入らないってことになるの」

 手元で実演する。

「次にすくったスパゲティをスプーンに乗っけて、あとはひたすら巻くべし巻くべし」

 くるくるとフォークを回し、一口大のスパゲティをぱくり。

「んむんむ……ろおら(どうだ)?」

 孝彰は心底感心して大きく頷き、早速やってみる。

 スパゲティをスプーンとフォークですくい、その束をスプーンに乗せる。ぎこちないながらくるくると巻くと、

「あ、本当だ。ちゃんと巻ける」

 やっとの一口目、苦労の甲斐もあってその味は一際美味しかった。彌子の云うように確かにちょっとしたコツだが、それにより随分と食べ易かった。と、彌子はぴんと人差し指を立て「裏技があと二つあるから、それもついでに教えたげよう」背を反らせる。口を頬張らせたまま孝彰はうんうんと頷いた。

「巻く時に使ったスプーンをね、こうやってフォークと一緒に口元まで添えておくと、滴るスープを気にしなくていい。もう一つ、肘を肩幅くらいに縮めて猫背で食べるんだ。そうするとね……」体を縮める。

「……それっぽく見える」

「それっぽく……って何?」

 きょとんとした孝彰。何の事だが良く解らなかった。

「別の店でね、そこのシェフがカウンターでスパゲティを食べてたんだ。店は空いてたからきっとお昼ご飯だったんだろうね。そのシェフがさ、こうやって小さくなって食べてたの。それがかっこ良かったのよ」

 へえ、と孝彰は何となく感心してみせたが、流石に実感は出来ずにいた。それでも以後はそうやって食べてみた。

 それから暫くは、二人とも無言で食事を続けた。彌子には程々、孝彰には少し多めのスパゲティは二人の胃へと瞬く間に消えて行く。一足早く食事を終えた彌子が、かちゃりと小さな音を立てスプーンとフォークを置き、汗をかいたグラスに半分ほど残ったペプシをちびちびと啜る。遅れて食事を終えた孝彰は紙ナプキンで丁寧に口元を拭い、ベルトを緩めてから笑顔で「美味しいね」と云った。彌子はグラスをゆっくりとテーブルに戻し、その位置を入念に確かめるようにペプシを数度揺らした。

「だろ? 穴場だからあんまり教えて回っちゃあ駄目だぜ」

 口元に人差し指を翳してから、再びペプシを呷る。白い喉が別の生き物のように上下する様子が、グラスの下から僅かに覗いた。


 孝彰はのんびりしたBGMに意外な心地良さを感じていた。そのまま寝入ってしまうほどゆったりとした旋律。いつも聞いている種類の音とは何もかもが違っており、それを楽しんだり理解する域には到底及ばないのだが、柔らかく包む絞られた音量の管楽器は冷たい夜風や日なたの温かさのような優しさに満ち、その感情を孝彰は確かに捉えていた。

 ふと思い付き、孝彰は彌子に云った。

「ミコはこういうの聞いてるの?」

 肘を突いて顎を乗せ変色した古地図を眺めていた彌子は目だけを動かす。

「うん? ああ、クラシック? どうだろう……」

 姿勢を直し孝彰に向き直る。

「……そう云えば良く聞いてるな。あたし、流行り病には縁が無いから、だからかな」

「ベートーベンとか?」

「ん? 聞くけどね、作曲家とか曲名とかは詳しくはないんだ」

「僕、授業以外でちゃんと聞くの、今日が始めてかな。ちょっと眠たいけど、たまにだったらいいかもって思ったよ」

 彌子は、にっと歯を剥いて親指と人差し指でその細い顎をそっと掴み、ほう、と鼻を鳴らした。

「ま、当然といえば当然さ。なにせ作曲でも演奏でも、そこいらで流れてる音とは桁違いに手間を掛けてるからね。それにさ、長い長い時間、多くの人に聞き続けられたっていう品質保証書が付いてるんだから、これが良くない訳が無い」

 ゆっくりと噛み砕くように彌子は云う。孝彰は「ミコ、音楽の先生みたいだよ。でも……そっか」と呟き、先程とは違う角度で耳を傾け、返るやまびこでも聞くように手を耳に翳す。彌子は「でもねぇ」と孝彰の手製集音器目掛けて云い、ふんふんと鼻をひくつかせる。おや? というような呆けた表情で孝彰は手を汗だくのグラスの傍に下ろした。

「クラシックも良いけどね……今、あたしの中での一番人気は……」

 云うや否や、いきなり彌子は、左肘を後ろに引き右拳をぶんと唸らせ自身の左肩に当てた。少し俯き、鋭い上目遣いの後、

「ハイナイン!」

 孝彰の表情がぱっと弾け、彌子と同じく胸に右腕を当て、視線でタイミングを見計らう。一杯に開いた右手を勢い良く突き出し、

「プラァス!」

 同時に叫び、二人共からからと大声で笑った。

「今週の、見た?」

「あたりきよぉ! さんざん燃えさせてもらったぜ!」

 江戸っ子よろしく大袈裟に鼻をすする。身を乗り出す孝彰。

「今回のオブジェも凄かったけど、僕、スライファーがかっこ良かったよ」

「おう、あの宇宙用戦闘機だな? そうそう、あれは良かった。地球をバックにあんだけ飛び回られちゃあ、もうお手上げ。空軍の、えっと……」

 天井を見上げた彌子。ああ、と孝彰が声を上げる。

「乾{いぬい}と鵬{おおとり}?」

「それそれ! 乾准尉だ! 鵬三佐も良いけど、乾、彼女は渋い! まだ若いけど渋い!」

 彌子はペプシのストローを二本指で挟み煙草に見立てて咥える。ぷはぁ、と口を鳴らし低い声色で、

「地球の空は、鳥とパイロットのものなのさ……」

 科白を真似る。

「んもぅ! 惚れちゃう!」

 口の前で両手を組み、くねくねと上半身を揺らす。それを見て孝彰は、はは、と笑って水浸しのグラスを脇にどけた。

「スライファーの武器が凄かったね。なんとかミサイル。ほら、ばーんっていう」

「量子ミサイルだな? あの無茶っぷりは、すかっとしたな。なんかこう、月が揺れてたもんな」

「うんうん! びっくりした」

「しかし何といっても!」

 彌子と孝彰は目一杯硬く握った拳を顔の前でぷるぷると震わせ、一語一語区切るように「プ、ラ、ズ、マ……」、血管の浮いた拳を半ば飛び跳ねるように真上に突き上げ「ガトリィング!」と合唱した。

「新必殺技、やっと出たね!」

「ああ! 出た出た! オープニングに名前だけ出ててさ、気になって気になってしょうがなかったんだけど、凄すぎるぜ、ありゃあ。オブジェが蒸発しちゃったもんな」

「人工衛星まで一緒に」

 目尻に皺を走らせ孝彰は笑う。彌子の方は終始笑いっぱなしで目尻の涙が零れそうだった。

「ほんと、いいもの教えてもらったぜ。タクに感謝だな」

 親指を突き立てて口の端を釣り上げる。

「木曜五時は是が非でも家にいなきゃならんね。大変だ」

「ああ……僕」

 不意に孝彰の笑顔が薄らいだ。唐突に豹変したその態度に目をぱちくりさせる彌子。

「何? どした?」

「来週、入試があるから、ビデオで見なきゃ……」

 残っていた笑みを使い果たし、孝彰の表情は硬く強張ってしまった。つられるように真顔に戻った彌子は「そっか」と、ぽつりと呟き、溶けた氷で薄められたペプシの残りを一気に呷った。

 他愛ないテレビ番組の話題はいつしか現実のものへと移り、その口火を切ったのは他でもない孝彰自身だった。


「僕、勉強はそんなに嫌いじゃないよ。楽しくはないけど、友達みたいに逃げたいとかは思ったことないんだ。でも、先生は将来の為に絶対に役に立つって云うけど、それはよく解んないんだ。友達も云ってたけど、将来のこと、想像もつかないんだ。受験勉強もしてるし頑張れば合格するかもしれないけど、でも……」

 考えを喋っているのではなく、喋りながら考えている、そんな風だった。

「でも、よく解んないんだ」

 その重々しい口調は、眼前の彌子を介し自身に向けられた自問自答である。彌子はじっと耳を澄まし、一言一言を吟味するように時たま目を閉じる。そういえば、と孝彰は今度は彌子に向けて口を開いた。

「この前の「何にする」って、どういうこと? ほら、家で焼き肉食べた日に云ってた」

「ん? ああ、あれ」口元を緩める。

「タクはさ、まだ決めてなかっただろ。だから」

「将来をってこと?」

「惜しいけど、ちと違う……微妙にね」

 孝彰の表情は疑問で満ちていた。

「目指すものを何にするのか。つまり、これから何をするのか、そういう意味だよ」

 その口調は孝彰の知る誰かに似ていた。誰だろう? その答えを見付けるより先に彌子が続ける。

「魔法のランプでも福の神でもなんでもいいけど、たった一つだけ、なんでも願いが叶うとしたら……タクなら何をお願いする?」

 そよそよと降り注ぐような話し方、声そのものが似ているのではなく、その雰囲気が彌子以外の既に知っている誰かとそっくりなのだ。ともかく、話題が唐突に変わった、そう孝彰は思い、強張った表情を少し崩した。

「何でも?」

「そ、何でも」力強く頷く。

 孝彰は躊躇をほぐすかの如く舌で唇を何度か湿らせ「……笑わない?」と眉間を寄せて囁き、再び彌子が頷く。

「小学校の時からだけど、僕……宇宙船に乗って宇宙に行きたいんだ。スライファーみたいな宇宙船で――」

 ぱん、と大きな音が響き、驚き呆ける孝彰。彌子が目の前で手を打ったのだ。

「何だ、ちゃんとあるんじゃないか」

「……え?」

 たっぷりと間を置いて孝彰はそれだけ云った。

 彌子は眉を大袈裟に上下させ目を細めてから「将来の夢さ」と通る声で云い放つ。

「何の為に勉強してるのか、高校に入るのか解らなかったんだろ? それはね、スライファーみたいな宇宙船で宇宙に行く為さ。タクは将来、宇宙に行く為に勉強してるんだよ、解ったかい?」

 表情は綻んでいるが、からかっているようには見えず、それが余計に孝彰を混乱させた。

「だって、スライファーは例えばで、でもそっちは将来の夢だよ? 大人になって何になるかだよ? そんなの変さ」

 言葉に冷ややかな笑いを含んでいた。だが彌子は態度を微塵も変えずに「変? どうして?」と優しく云う。

「だって……」

「だって?」

 詰まる言葉に孝彰自身が驚き、それでも云い続けようとする。

「だってミコ、宇宙に……スライファーだよ?」

「おう、スライファーさ。いいじゃん」

 視線がうろうろとさ迷うのが自分でも良く解った。

「ハイナインはテレビなのに、それが高校に入る理由なんて変だよ。将来の夢なんて変だよ」

「タク、宇宙はテレビの中だけじゃないぜ。頭の上、ロケットに乗れば誰でも行ける所にあるし、タクが大人の頃にはスライファーが出来てるかもしれないじゃん」

 頭上の薄暗い天井を指差す。

「違うよミコ!」

 知らず、語尾が荒くなり、汗が僅かに額に滲んでいた。

「誰でもじゃなくて、行けるのは――」

 顎を突き出す。

 「――宇宙飛行士だけ、だ……よ……」

 言葉じりが徐々にしぼみ、孝彰は口を半開きにしたまま息を止めた。一呼吸置き、彌子は、

「だったら宇宙飛行士になればいいじゃん」

 と、テレビのチャンネルを変えるような気楽さで云った。

「宇宙飛行士なんてそんな……」

 弱々しく囁く。

「無理? まさか。宇宙飛行士はテレビじゃないよ。タクと同じ人間だ」

 両手をテーブルに突いて身を乗り出していた孝彰は、何度も瞬きしながら椅子に落ち、溜め息みたいな声で「……うん。テレビじゃない」と洩らした。


 彌子は取り澄ました店員を掲げた左手で呼び寄せ、ペプシのお代わりを二人分注文した。丸い銀の盆に載るペプシをしずしずと運ぶ店員の様子は、繁栄の極みにある国の王様へ貢ぎ物でも献上するような厳粛さだった。

 目を見張る財宝の数々……病を癒す極楽鳥の羽根、未来を予言する樫の杖、黄金で鋳った全身鎧、空駆ける硝子色の敷物……。孝彰の前にペプシのグラスが置かれるのを見計らって、彌子は「騒がしくてすいません」とその男性店員に声を掛けた。

 彼は「他のお客様がいらしたら少しだけ遠慮して下さい。それまでは存分にどうぞ」と低い声で応え、ほんの一瞬だけ口の端を上げてから、やんわりと踵を返しレジスターへと帰って行った。

 一口、喉を潤す彌子に対し孝彰は、複雑な心境をその表情に浮かべ、貢ぎ物を品定めする王のごとく、じっとグラスを睨み付ける。或いは眼前に置かれたペプシにより、新たな公理を今正に産みださんとする、物理学者の閃きの直前の苦悩のように。黙ったままだが、中を渦巻く荒波が皺や瞬きにより時折表面に現れては、認識のせめぎあいを言葉よりも雄弁に語っていた。じっと嵐が過ぎ去るのを待つ彌子がグラスを殆ど飲み干してから孝彰は漸く口を開いた。

「何でだろう。絶対おかしいって思ったのに……全然おかしくない。テレビだけど、でもテレビじゃないし……」

 ずっと俯いたままだった顔を上げた。「ミコ、教えて。どうして?」ごりごりと氷を齧っていた彌子はそれを一際激しく噛み砕いてからこっくりと頷く。

「未来にはね、二種類あるんだ。選ばなくてもやって来る未来と、選ばなきゃ来ない未来。例えば……タクが高校生になって大学生になって、それから会社に入って結婚して、んでもって子供が出来て家を建てて、遂には年を取ってお爺さんになって、そして最後に死ぬ。こっちが何も選ばなくても向こうからやって来る未来さ。確かに些細なことは選んでるよ。どの学校にするかとか、どの人と結婚しようかなんてね。それに途中で色々あるよきっと。楽しいことも苦しいことも、不思議なことも恐いこともね。誰かが持ってくるのかもしれないし、道端に落ちていてそれを拾うのかもしれないけど、でもね、やっぱり何一つ選んじゃいない、全部向こうからやって来るんだ。

 で、もう一つ、選ばなきゃ来ない未来。タクがスライファーに乗って宇宙に行こうと思う。宇宙飛行士になってもいいし、科学者になってスライファーを作ってもいいけど、こっちはね、タクがそうしたいと思って、いろいろ準備をしなきゃ絶対に向こうからはやって来ないんだ。だってそうだろ? ある日突然、昔の友達がタクに「なあタク、俺の会社に入らないか?」とは云っても、「ねえあなた、宇宙飛行士になってくれませんか?」なんて誰も云いやしないよ。タクがさ、なりたいものとして宇宙飛行士を選ばなきゃ、タクは絶対に宇宙飛行士にはなれないんだ。道端に結婚相手は落ちてるけど、どこを探してもスライファーは落っこちちゃいないしね」

 ふう、と溜め息を吐き彌子はグラスを呷った。半ば睨み付けるようだった孝彰も、ごくりと喉を鳴らし冷たいペプシを一気に飲み干し、再び彌子の両目をじっと見詰め言葉を促した。オレンジ色のフードパーカーの襟元を二度三度しごき、彌子は咳払いを一つした。

「夢は? って聞かれた時と、将来の夢は? って聞かれた時はね、殆どみんな答えが変わるんだ。何故だか解るかい?」

 孝彰は首を振る。

「夢は? って時の答えはね、思うだけで叶えようとしない、想像するだけのもの。将来の、って付くと叶えられそうなものをみんな云うんだ。夢を叶えようとしないのはね、夢ってのはとっても大切で、もしそれが叶わなかった時に辛いからなんだって。でも、あたしはこう考えてる。夢ってのはそれが叶うかどうかは問題じゃないんだ。夢は、それを持つことに意味と価値があるんじゃないかな。叶えようっていろいろ頑張るだろ? そうやってる時が一番大事なんだよ。もう少し、あとちょっとで夢が叶いそうって時が一番楽しいんじゃないかな」

 グラスの底の角が丸まった氷をストローでからからと回し、彌子は、どお? と首を傾げた。照明をきらきらと跳ね返す氷を目で追っていた孝彰は、ゆっくりと姿勢を戻し「うん」と頷いた。

「ねえミコ、僕、宇宙に行く為に受験勉強してたの?」

「はは。多分そうじゃないの? でもそれはタクが決めることさ。タクのことはさ、あたしよりもタクの方が詳しいよ、きっと」

 ぎい、と木の軋む音が聞こえ、孝彰は入り口の方に目を向けた。レジスターの中からあの店員が滑り出て、柔和な面持ちの初老の夫婦を衝立て向こうのテーブルに案内していた。

「さて」

 と彌子が伸びをしながら云った。

「腹も膨れたし、そろそろ撤退しよっか?」

 上半身を捻り右手で背もたれを掴む。と、孝彰が「もう一つだけ!」と彌子の動きを制した。捻った上半身を椅子の上で更に後ろに曲げ、腰骨がぼきぼきとくぐもった音を立てた。

「まだ食べるの?」

「そっちじゃなくて。もし夢が無かったらどうしたらいいの? 僕にはあるみたいだけど、友達にいるんだ。俺は夢なんてないって友達が。それにもし僕が今の夢に飽きたりしたら?」

 彌子は椅子の上で肩をぐるぐる回し首を左右に折る。柔軟体操でも始めるつもりらしい。

「そんなの簡単」

 仰け反り、気管が圧迫されているのかひしゃげた声だった。

「夢を見付けたい、って夢を持てばいいのさ」


 アーケードをくぐり、再び駅前ロータリーに出て花時計を見ると二時過ぎだった。

 まばらな雲の間から強い日差しが照り付け、午前中は閑散としていた辺りにちらほらと人通りが出来ていた。それでも駅向こうの商業区に比べればゴーストタウンにも等しいのだが。ロータリーに一台のタクシーが停車していたが、それが午前中のものかどうかまでは解らなかった。

「身支度やら野暮用やらがあるから、あたしはもう帰るよ」

 煉瓦積みの植え込みでバランスを取りながら、孝彰のつむじ目掛けて云う。

「うん。今度はいつ頃会えるの?」

 孝彰は日差しを手で遮って、ふらふらと揺れる彌子を仰ぎ見る。

「どうかな。来年? それくらいか、もっと先か、もしかしたら……」

 ぴょんと跳ね、スニーカをぎゅうと鳴らして着地、両手を左右に伸ばし胸を張って「うっし、十点!」と得意そうに云った。

 のんびり歩き、佐原邸へ続くYの字の分かれ道に差し掛かった。低いブロック塀の右側の一方通行が佐原邸、彌子の実家は左の細い方だった。孝彰は右手を胸元に挙げ「御馳走様。それじゃ……」と云い、喉の奥に続く言葉がありそうだったので暫く待ってみたが、結局何も出てこなかった。フードパーカーのポケットから右手を抜き出した彌子は、その腕をそのまま孝彰に向けて突き出し、不敵、そんな笑みを浮かべた。

「ああ。じゃあな」

 僅かな躊躇をその言葉の透明さが消し去り、孝彰は差し出された白い右手をそっと握った。彌子が力を込めて孝彰の汗ばんだ手を握り返し、

「不合格だったら電話してきな。幾らでも慰めてやるぜ」と云って鼻を鳴らした。

「うん。でも、頑張るよ」

 そう云って握る手を強める。二人共、一分近くそのまま動かなかった。孝彰の脳裏では、スパゲティ店での彌子の言葉が、からからという氷の音と共に反響していた。握られていた手が緩んだ。彌子は再びフードパーカーを何やらごそごそと探ってから、

「ほれ、餞別だよ」

 と、しおりの挟まったままの文庫本を放り投げ、孝彰がおたおたしている隙に歩き出した。

「ありがとう、じゃあね」

 背中に向けて孝彰が云い、彌子は振り返らずに後ろ手で右手を挙げた。小さな溜め息をその場に残し、孝彰は一方通行へ体を向ける。

 自宅への一方通行を二歩進み、孝彰は不意に目頭が熱くなるのを感じ驚いた。もやもやとしたものが晴れ、喜ぶべきなのにどうして? 立ち止まり、瞼を押さえる。

 もう何も悩まなくてもいい、後は試験を頑張ればいいだけな筈、どうして……泣くんだ? 嬉しさの余り? 違う、これはきっと……。

「タクぅ!」

 その間延びした声に孝彰は弾けるように振り返り、とうとう堪えていた涙が零れた。

 一方通行の入り口にオレンジ色に輝く彌子の姿があった。五歩くらいしか離れていない。彌子からでも情けない顔が見えるだろうが、気にしなかった。「何?」声がうわずっている。彌子は両手をポケットに入れたまま顎を上げ、すぅと深呼吸をしてから、憚ること無く鼻をすする孝彰に目掛けて云った。


「応援してるぜ!」

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