第35話 宿題(1)
明くる日も、また明くる日も、献慈は多くの時を澪と過ごした。
同室で寝起きこそしなかったものの、澪は隣室同士を頻繁に行き来し、しきりに世話を焼いてくれた。
自分は一度は死にかけた身だ。不安になる気持ちもわかる。
だからこそ、献慈は澪に心配をかけぬよう、努めて普段どおりの振る舞いを心がけていた。
心に引っかかるものがないではない。しかし澪といる時間それ自体は、自分にとってかけがえのないものだ。その想いだけは、誓って嘘ではないと断言できる。
献慈は今しかないこの日常を、澪とともに、ただありのままに受け入れていた。
そして、四日目の朝。
ふたりは一階の酒場で朝食を取り、また部屋で一緒の時間を過ごす。
片や読みかけだった本へ目を通し、片や慣れない指編みで組紐をせっせと編みながら、和やかに雑談を交わしていた。
「……でね、あさってお父さん迎えに来るじゃない?」
「うん。ちゃんとお礼言わないとな」
「献慈、目が覚めてから初めてだもんね。……あ、出来上がりそう」
澪の手にあるのは、以前献慈にプレゼントした組紐ペンダントである。激戦の最中、汚れたりほつれてしまった紐部分を付け替えているところだった。
「ちょっと……ううん、かなり不格好だけど許してね。村に帰って落ち着いたら、ちゃんと作り直してあげるから」
「そんなに気を使わなくても。俺は澪姉の手作りってだけで充分嬉しいからさ」
「そうもいかないよ……はいっ、完成」
澪は読書中の献慈へ忍び寄ると、その首に修繕したてのペンダントを素早く装着する。
「ん、ありがとう」
「さーて、献慈は何の本読んでるのかなぁ……やらしい本だったりして」
「そうだね」
「……へっ?」
「…………。……ごめん、何の話だっけ?」
献慈が顔を上げると、ふくれっ面をした澪がじっとこちらを見つめていた。
「……私……邪魔かな……?」
「いや、そんなことないけど……」
とは口にしたものの、献慈はふと本に目を落とし、長らくページが進んでいないことに気がついた。
集中できていない。その理由が、数日前の澪とのやり取りにあったのは明らかだ。
一旦忘れよう、そう思っても、ふとした拍子に考えてしまうのを止めることができずにいる。
「でも……ちょっと元気ない?」
「ううん、むしろ……」
決して澪を嫌いになったわけでも、疎ましく思っているのでもない。
村を旅立つと決めたあの日から今まで、澪の力になりたい、支えたいと、ずっとそう思ってきたのだ。
ただ、思い返せばその選択のどれもが、澪の主導で行われたものだった。自分はそれに従うか、便乗しているだけだったのは否めない。
【リヴァーサイド】を訪れて、献慈は自分が何者であるかを知った。
ユードナシアへ帰還する望みが絶たれたことは、皮肉にも、能動的に問題へ立ち向かう意志を与えてくれた。それはトゥーラモンドへ渡って来て以降得た、最も大きな変化であったかもしれない。
だがそれは、あくまでも内面だけの変化だ。現世でやるべきこと、してこなかったこと、それらはずっと棚上げになったままだったのだ。
「……むしろ? 元気ってこと?」
「あぁ……(俺自身のすべきこと、宿題が)ずいぶん溜まってたみたいだ。気づかないうちに」
「溜まって……ぇ……っ……!?」
「澪姉」
「……ッ! な、なぁに?」
「独りにしてくれないかな? 少しの間だけでいいから」
献慈が言うと、澪はどういうわけか口元をもにょもにょさせながら視線を逸らし、後ずさりしていく。
「そ、それは……そういう、意味だ、よね……?」
「(しまった……強く言いすぎたかな)その、つまり……澪姉のこともさ、じっくり考えながら、俺自身としてもスッキリさせておきたい、っていうか……」
「わっ、私のッ!? だ、だったらこのま……ううん! 一緒にいたんじゃ、き、気まずいもんね……献慈がそう言うなら自重するねっ。いっ……に、二時間ぐらい? お出かけでもして来ようかな? それじゃ、その……またあ、あとでねっ!」
忙しく部屋を出ていく澪の狼狽ぶりに、やはり彼女を傷つけてしまったかと、献慈は気が咎めるのだった。
ベッドに身を投げ出し、献慈は考えをまとめに入る。
(はぁ……とは言ったものの、具体的にどうしたものか……)
枕に顔をうずめ、時おり独り言をぶつぶつとつぶやくも、それを咎め立てる者はこの部屋にはいない。
(前に……進むしかない)
それから十分足らず後――部屋の前には、外出着に着替えた献慈が、意気揚々と階下へ出向く姿があった。




