第4話 今宵は新月(2)
澪が食事の後片づけを引き受ける間、献慈は大曽根に別室へと招かれる。
やって来たのは大曽根の書斎だった。
八畳ほどの広さ、壁の一面を覆う本棚にはさまざまな書物がひしめいている。座椅子の前に文机、その上には本や藁半紙の束、万年筆が整然と置かれていた。
「たくさん本がありますね」
「乱読もいいところさ。だがマレビトやユードナシアに心当たりがついたのはそのおかげもある」
畳に敷かれた座布団が二つ、促されるまま対座するや、大曽根がやおら口を開く。
「献慈君、ずっと言おうと思っていたんだが……」
(まっ、まさか……娘さんに失礼を働いたとか何とかで咎められるのでは……!?)
にわかに緊張が走った。思えば、献慈がこの父親と二人きりになるのは、これが初めてなのだ。
「脚を崩してもらって構わないからね」
「……は、はい」
とんだ杞憂であった。献慈は言われたとおり、控えめにあぐらを組んだ。
「堅苦しい話は無しだよ。それと……先に謝っておかねばならない」
そう前置きして、大曽根は献慈に頭を下げた。
「わたしは――いや、おそらくはこのトゥーラモンドの誰も、君を故郷に帰すすべを知らないんだ。少なくとも、現時点では」
「……そう……ですか」
献慈は――ほかに言うべき言葉が見つからなかったとはいえ――己の発した一言の空虚さに、寒気すら覚えた。事の重大さを、まるで飲み込めていない者が放つ声音そのものであった。
大曽根は言葉を継いだ。
「あるいは村の外まで、手がかりを探しに出るという道もある。ただその前に、この世界について君が知りたいことや、知っておくべきことはあるだろうからね。そのための協力は惜しまないつもりだよ」
「ありがとう……ございます」
礼を返すその心中で献慈は、安直に己が不運を嘆こうとする自分を戒めた。
(こうして助けてくれる人がいるだけ幸運じゃないか。前を……向かないと)
「すまない。いささか性急すぎたようだ」
「いえ、はっきりと言っていただけてよかったです。気持ちの切り替えもつきましたし、こうやって話も――そうだ」
かねてからの疑問が頭をもたげた。
「この現象、お互いの言葉が翻訳される〝これ〟も、何かの魔法の効果だったりするんでしょうか?」
「ああ。魔法には違いないが、術というよりも自然現象に近いかな。最初に確認されたのは、およそ百三十年ほど前になる」
始まりは、遠く西方の、小さな港町からだった。
ある時、一人の貿易商が、異国との取引の場で異変を察知した。
覚えず発した自国の言葉が、相手に通じている。
前触れもなく降って湧いたその現象は、以後町を出入りする人々を媒介するようにして、日に日に世界中へと波及していく。
「この現象を我々は【相案明伝】と呼んでいる」
季節が一巡りする頃には、誰もが異なる言語同士を、たちどころに理解できるようになっていた。
この事態は世界に一時的な混乱をもたらしたものの、やがて人々はこれを神の奇跡、あるいは天恵として肯定的に受け入れる道を選択した。
「仮に何者かが行った魔術の結果だとして、それには大がかりな儀式が必要となるはずだ。だが実際には痕跡すら見つかっていない。一説によれば、これは霊脈を利用した実験だったといわれていてね」
霊脈とは、トゥーラモンドの大地に網の目のごとく張り巡らされた、霊的エネルギーの流れをいう。人体に置き換えると、ちょうど血管のようなものである。
この霊脈は、付近の土地にさまざまな影響をもたらす。
例えば、土壌や水質の変化、あるいは魔物や精霊の活性化など、住民にとって好ましいものもあれば、そうでないものもある。
あるいはそのどちらともいえない、不可思議な事象も稀に確認される。先の【明伝】もそうだが、もう一つ――
「霊脈の働きについては諸説あるし、因果関係もはっきりはしていない。だが事実として、過去この世界に現れたマレビトは皆、霊脈のごく近くで発見されている」
話がマレビトの件に及んだところで、献慈はようやく合点がいった。
「もしかして、先ほどおっしゃっていた、この辺りの土地柄というのは……」
「ああ。このワツリ村は霊脈の上に位置している。村の中心となる神社、とりわけ鎮守の森がある辺りは、流れが最も密集している部分にあたるんだ」
鎮守の森から霊脈に沿って造られた人工林、その中ほどに湧いた泉のほとりこそ、献慈が澪と出会ったあの場所であった。
ワツリ村の氏神【大水櫛比売神】は水神であり、氏子たちには自然の水場を神聖視する者も多い。
かといって、さすがに別の世界から人間が湧いて来ようとは夢にも思うまい。
「俺のこと、もう村の人たちには話してあるんでしょうか?」
「さっき村長たちには伝えたよ。『行き倒れの若者をうちで預かることになった』とだけね」
マレビトであることを伏せたのは、無用な混乱を招かぬための配慮だろう。理由はどうあれ、献慈にとってもそのほうが都合はいい。
「素性を明かすかどうかは様子を見つつ考えればいいさ。前にも似たようなことがあったし、わたしも村のみんなもこういうのには慣れっこだ」
「(前にも……?)そ、そうですか」
「ほかに聞いておきたいことがあれば答えようじゃないか。ちょうど文献も揃っていることだ」
そう言って、大曽根は本棚から一冊の本を手に取った。
「それは何の本ですか?」
「この国の歴史や文化に関する本だ。著者が外国人だから、よそから来た君とも近い視点で書かれているかもしれない」
ハードカバーの背表紙に目を向けると、タイトルらしきものが記されている。
「えっと……『フォズ・イムガイ~三つの島における対立と融和~』」
献慈が何となしに口に出すや、
「うん――ん? 何だって?」
大曽根は目を丸くした。
「あれ、違ってました?」
「そうじゃない。君は……央土の文字を読めるのか?」
大曽根は献慈に向けて本を広げてみせる。
その文面はざっと見た限り、意味不明な文字の羅列にしか映らない。せいぜいその書体が漢字――こちらでは「干字」と呼ぶらしい――に似ているとの印象を抱く程度だ。
しかしよく目を凝らして観察すると、一つ一つの文字が語を成し、語は文を形作り、確かな意味を持って献慈の脳へと訴えかけてくるのがわかる。
「この時期、ミカド……ナカツ島の領有権を主張……これに賛同した武家、こぞって東へ侵出開始、やがて……それぞれの領地を巡る争いへ発展――ええ、ちゃんと翻訳されてますよ。【相案明伝】でしたっけ? 便利な魔法ですよね」
「とんでもない。それはおそらく君自身の能力だよ」
大曽根に指摘されるに至って初めて、献慈は自分の半解を悟った。
思い返せば、今までに理解できた言葉は、すべて聴覚を介してのものに限られていた。すなわち――
「俺の……いや、マレビトの……?」
「どうだろう。少なくとも【明伝】が翻訳するのは耳で聞いた言葉だけだ。学んだ経験のない文字まで理解できるとなると、明らかに異質の現象だな」
大曽根には、ほかにもいくつか本を見せてもらった。
結果はやはり同様である。献慈にとってはいずれも――例えるなら、初見の楽譜を読む程度の労力で――理解が可能だった。
日本語に構造の近いイムガイ語は比較的読みやすく、それ以外の言語は若干の集中を要するという差はあるが、せいぜいTAB譜と五線譜ほどの違いにすぎない。
「献慈くん、すごいじゃない! ねぇねぇ、これは? 読んでみせてよぅ」
いつしか部屋を訪れていた澪が洋書を手に、瞳をキラキラさせながら献慈にせがんでくる。
「えっ、えぇと、それは……」
「澪。あまり面白がったりしては献慈君に失礼だろう」
父親の苦言に、澪はしゅんとなる。
「あ……ご、ごめんね。急にいろいろできるようになったら、かえって不安になっちゃうよね」
ばつが悪そうにうつむく澪を前に、かえって献慈のほうが申し訳なくなる。
「俺はべつに……(というか、めっちゃ距離近いな……)たしかに少し気持ちを整理する時間は必要かもですけど」
「うん……あ、そうだ。お風呂沸かしておいたから、お先にどうぞ」
「いいんですか?」
聞き返す献慈に、家主が返答する。
「もちろんだ。君はお客さんだろう」
「それでは、お言葉に甘えて」
「澪、せっかくだから案内してあげるといい」
「はぁい」
成り行き任せではあったが、献慈に異存はない。日もとっぷり暮れている。のんびりしていては迷惑だろうと、素直に父娘の勧めに従うことにした。