第31話 歩き出した足は止まらない(1)
どこか思い違いをしていたのかもしれない。
自分は特別な存在で、特別な力を持っているから――そんな驕りが、無意識にせよ心のどこかにあったのだとしたら。
きっと、あったのだ。
誰かが言ってくれたように、偶然手に入れた能力であるとか、所詮は些細な問題でしかなかったのだ。圧倒的な暴力の前には、無力と少しも違わない。
歪なこの身にも、等しく死は訪れるのだと、献慈はようやく知るに至った。
生への渇望。生きたいと願う気持ちが、これほどまでに深く自分の中に根づいているとは思いもよらなかった。
この期に及んで、自分の手で奪ってきた生命に対する同情と憐憫が湧いてくる。
今さら、今さらどうしようもないと、わかりきっているのに。
――もしアイツのこと裏切ったら、二度と家の敷居跨がせねーかんな。
「裏切った……かもしれないな」
これがその罰であるとして、ふさわしい結末といえるのだろうか。
「澪姉……」
誰よりも大切な――大好きな人。愛しいその名を呼ぶ度に、抱えきれないほどたくさんの想いが、尽きることなくあふれ出てくる。
「ごめん……」
きっと彼女は、自分を死なせてしまった罪の意識に苦しんでいるに違いない。それについてはもう、どうにもならないけれど、
「……でも」
ただ一つだけ。この想いを伝えずにおいて、よかった。これ以上、余計なものを彼女の心に背負わせないで済んだことだけは、幸いだった。
どうか、自分のことはもう忘れて――
「幸せに生きてくれ……」
「本当に、そうお思いでらっしゃるのですか?」
「…………え?」
耳元で問いただすその声に、献慈ははっと目を見開いた。
天も地も、方角すらもわからない広大な空間の真っ只中に、献慈は浮遊していた。
どこからか淡い緑色の光が差し込み、頭の上から――そちらが上方向だと仮定して――降り注いでいる。まるで木漏れ日のように柔らかく、暖かい。
「献慈様」やけに親しげな、女性の声。「わたくしはこちらでございます」
不思議と懐かしさを覚える、心安らぐ匂いが、献慈の背中伝いに尾を引いて正面へと回り込んできた。
「……やっぱり……」
薄絹のドレスを纏った、淡く透き通るペリドットグリーンの体こそは、常にカミーユとともにいた人懐っこい風の精霊にほかならない。
「シルフィードさん……ですよね?」
ラベンダー色の瞳がゆっくりとまばたきを返す。
「ええ。こうして直接言葉を交わすのは初めてでございますね」
「そ、そうだ! 俺だけじゃなくて、シルフィードさんの言葉もちゃんと通じてる……しかもそれ、日本語……!?」
時間差で押し寄せる驚きに献慈の思考は右往左往する。
シルフィードはといえば、いつもながらの自然体を崩さない。
「現在はわたくし、献慈様とは一部結合状態にありますゆえ、日本語での会話が可能となっております」
「なるほど、一部が結合……あっ! その、決してそういう意味ではなくて!」
「結合というのは言葉の綾でございます。しかしながら献慈様がお望みであれば、そちらの意味において速やかに行為へ移行することもわたくし、やぶさかではございません」
「俺は猛烈にやぶさかなんですけど!?」
献慈の反応もお構いなしと、シルフィードは話を進行させる。
「この状況には何かと疑問がおありでしょう。献慈様、ご自分の身に何が起きたのかは憶えておいでですね?」
「……ええ。俺は……死んだんですよね?」
あの凄惨な出来事が夢であったかのように、元通りとなった衣服とペンダント。しかしその下に残る生々しい胸の傷痕は冷酷なまでに物語っていた。
あれがすでに起こってしまった事実であることを。
「嗚呼、献慈様……お労しい……」
シルフィードのたおやかな指先が、傷の上に置いた献慈の手の甲を、優しく撫でるように覆う。
「…………。……澪姉は……みんなは、無事でしょうか」
「……敵が去った後、ライナー様はあなた様の楽器を借り受け、切り札となる治癒の呪楽を奏でることを試みました」
折からの天候と川辺という地勢、立て続けに展開された光属性の術技――当時あの場は水と光の元素で満たされ、その高度な呪楽を実現させる条件が整っていた。
〈救済の慈雨〉――献慈が意識を失う間際に聴いた雨音の調べがそれであった。
「あの場にいた方々はみな一命を取り留めております。ただ……深手を負った献慈様だけは回復が間に合わず……」
「…………」
嘆息する献慈を励ますように、シルフィードはそっとその頬を撫でた。
「ご安心ください。献慈様は現在、わたくしを通じたエーテル合成の自己循環によって命脈を保っておられます。どうかお心を強く持たれますよう」
「そう……だったのか……ありがとう」
「わたくしを献慈様のもとへ差し向けたのは、カミーユの咄嗟の判断です。霊体へ直に接触可能な精霊なればこそ、瀬戸際であなた様をつなぎ留められるのではないか、と。ここまで深々と結びついてしまうとは、わたくしもいささか予想外でしたが」
表情こそ変わらぬものの、シルフィードの口ぶりに、献慈は危うい気配を感じ取る。
「するとその……け、結合、したのは偶然ってことですか?」
「いいえ。わざとです」
「わざと……え、わざとッ!?」
「はい。どちらかといえば、わざとです」
シルフィードは献慈から手を離し、宙にふわりと舞い上がる。
それまで気がつかずにいたが、二人の頭頂部から伸びた髪の毛の一本同士が、継ぎ目なくつながっていた。
「うわっ、えっ……?」
「献慈様の霊体が思いのほか雑な作りをしておりましたので、つい調子に乗っていじくり回しておりましたところ、このような事態に」
「ざ、雑な作りって……地味に傷つくなぁ……」
「申し訳ございません。口が滑りました」
「本音じゃん! あと、『いじくり回し』たって、具体的にどういう……」
「それはさておき」
「さておかないで!」
「献慈様の霊体が尋常の作りと異なる理由ですが、あなた様がマレビトであることと関わりがあるのではございませんでしょうか」
「俺が、マレビトであること……」
心当たりがないでもない。事実、献慈は元の世界にいた時分、今のような霊体を有してはいなかったのだ。
もしこの霊体が――今までにもそう考えたように――トゥーラモンドに適応するため、急ごしらえで作られたものであったとしたら。
「確信は持てないけど……そのおかげでシルフィードが入り込む隙ができて、結果的に生き長らえてるのであれば、幸運といえるのか」
「結果おーらい、でございますね」
「うん、まぁ……いっか。それはそうと、俺たちが今いるこの空間は一体?」
宙を漂っていたシルフィードが、献慈の真向かいへと舞い戻る。
「申し遅れました。ここは時空と因果の交接点、【狭間】。人と精霊が交感可能となる、位相空間でございます」
「居候くうかん……?」
「逆に――こう考えてはいかがでしょう――わたくしとの対話そのものを今、献慈様はこの空間全体として認識していると」
「……そうか、普段シルフィードがカミーユと意思を交わしているのって……」
「ご明察にございます。召喚士と精霊とのつながりこそが、この【狭間】の本質であるといえましょう」
理屈はともかく、今の献慈は、カミーユのような召喚士と同じ状況下にあることだけは把握できた。
「現状はわかりました。ただ、ここでじっとしてても何も解決しない。澪姉やみんなは今どうしてるんでしょうか? それから、現世にある俺の身体も」
「献慈様の肉体は当面仮死状態にあります。五感も閉じられておりますゆえ、周囲の様子を窺い知ることは叶いません。ですが澪様はじめライナー様、カミーユ……皆様、献慈様のご帰還をお望みのはずです。無論、このわたくしもです」
「みんな……」
献慈の心の内にさまざまな感情が去来する。それは初め、自責や悔恨の念といった形を取っていたが、やがて仲間への感謝や親愛の情へ変わり、内省そして奮起を経て、確かな決意へと至る。
「……教えてください。みんなのところへ戻る方法を」
献慈はおもむろに顔を上げた。
シルフィードは表情を輝かせ、再び献慈の手を取る。
「お心を定められたのですね。わたくしも一介の精霊にすぎぬ身、直接あなた様を死の淵から救う力やすべがあるわけではございません。されども因果の領域に住まう者として、少しばかり知見を述べさせていただきたく存じます」
夢見がちな色をした二つの眼が、失意の底から歩き出したばかりの少年の姿を、正面から映し出している。
「因果の……そういえばさっき、この【狭間】のこと――」
「時空と因果の交接点。あなた方人間が時間と空間の内側でのみ生きるように、我々精霊も本来、因果の軸に沿ってのみ生きる存在なのでございます」
因果とは、原因と結果を意味する。
精霊の人生――というのもおかしな言い方だが――たどる道筋には事象の順序のみが記録されるのであり、そこに時間の流れや、空間を占める場所といった概念はない。精霊は元来、それらとは無縁の生き物なのだ。
「〝いつ・どこ〟にも存在しえない精霊が、人の認識を介することによって〝いつ・どこ〟にでも存在しうる――時空と因果が交わる、とはそういった意味にございます」
「ちょっと難しいけど……何となく行き先が見えてきました」
精霊は、人の感情を糸口として、時空間へと顕現するのだ。
ならば、シルフィードと結びついた献慈が取るべき道は一つしかない。
「想いをもって因果を紡ぎ、時空との次なる交接点を探り当てる――つまりは献慈様ご自身を、現世へと召喚なさるのです。わたくしと一体化している現状ならば、それは可能かと愚考いたします」
「召喚……俺自身を……」
「はい。そのための道はすでにあなた様もご存知のはず。トゥーラモンドにあまねく張り巡らされた無数の経路――」
「霊脈、ですね」
現世へ戻るためには、献慈がトゥーラモンドへ渡って来た手順をもう一度再現する必要がある。
たとえ記憶していようがしていまいが、そうしなければならない。
「申し述べさせていただいた意見は、どれもわたくしの仮説にすぎません。しかしながら献慈様がわたくしを信じ、前へ踏み出すとあらば、わたくしも粉骨砕身の覚悟をもって力添えをする所存にございます」
いつになく真剣な語り口だった。すでに献慈の心は決まっていたが、シルフィードの熱意はそれをより確かなものとする。
「……俺は貴方を信じます。貴方を信じる自分自身も」
「大変ありがたく存じます。つきましては出発にあたり一つだけお願いがございます」
「召喚に必要な手順なんですね。俺は何をすればいいですか?」
シルフィードは、変わらず神妙な姿勢で応じた。
「率直に申し上げます。献慈様、わたくしと『契約』くださいませ」
「『契約』……いや、待ってください。シルフィードさんはすでにカミーユと『契約』を結んでいるはずでは……?」
献慈の反応にも、シルフィードは眦一つ動かさない。
「二重契約、ということになりましょう。しかしこのような流れに至るであろうことは、カミーユも想定済みのはずです。お気になさらぬよう」
「でも……俺はともかく、貴方やカミーユに悪い影響が出たりとかはないんですか?」
「まったくない、とは言いきれません。ですが、大精霊と呼ばれる存在をご存知でしょうか? 高い霊格を持つ彼らは、数多くの術士と『契約』を結ぶことも珍しくはありません。わたくしは遥かに若輩ではございますが、二人ほどであれば同時契約は可能かと」
一時も目を逸らすことなく、シルフィードは語りきった。
その言葉に嘘はないだろう。事の真偽以上に、彼女の心そのものに対して、献慈はそう思えたのだ。
「……信じると言った手前、お任せする以外ありません」
シルフィードは晴れやかな面持ちでうなずいた。
「あなた様がお目覚めになるまでの、限定的な『契約』であれば、お互いに影響は最小限で済みましょう。例えるなら……後腐れのない一夜限りの関係、とでも申しましょうか」
一転して本来の調子を取り戻す彼女の口振りが、献慈の緊張をほぐした。
「そ、その言い方はどうかと……それで『契約』って、具体的には何をすれば?」
「至極単純にございます。わたくしに名前をお与えくださいませ。それをわたくしが承認することで『契約』は完了いたします」
「……それだけ……?」
「はい。名前によって、あなた様から見たわたくしという存在を定義するのでございます。カミーユからはすでに『真名』を与えられておりますゆえ、献慈様からは仮の……そう、『仮名』を賜りたく存じます」
実際シンプルな手順に違いないが、名前を付けてくれと言われて、突然思いつくものでないのも本音だ。
「き、急に言われても……ん~、何だろうな、名前……」
「あと十秒でお願いします。十、九、八……」
「えぇっ!? ちょっ、待っ……貴方の、あ、えーとォ……な、汝の名は――――」




