第30話 戦場に負け犬の居場所はない(3)
澪は跪いたまま二度、嘔吐する。
地面や衣服から立ち昇るすえた匂いが、献慈の鼻をついた。しかし怯んでいる暇も、顔を背ける余裕もなかった。
「澪姉……澪姉……っ!」
うわ言のように話しかけながら、その背中をさすった。これ以上彼女が苦しまないように、痛くなくて済むように、万感の願いを込めて治癒を施す。
やがて苦しげな息の合間から、澪が返事をした。
「も、う……平気、だから」
表情こそ優れないが、顔色は良好だ。内臓の損傷も癒えている。
献慈は澪の無事を確認するとともに、滲んでゆく視界を晴らそうと強めの瞬きを数度繰り返した。
「よっ、よかっ……」
「……!! 献慈――」
澪の叫びに、はっとして振り返る。
はっきりと感じた。再び自分に向けられた明らかな殺意、そしてそれがすでに避けられない距離にまで迫って来ていたことを。
「――贄となれ」
剣を握ったヨハネスの右腕が下ろされる。
実刃に先駆けて、鋭い剣風が献慈の耳の横を掠めていた。肩口から股下までを真っ二つにされた自身の姿が思い起こされた刹那――割って入った刀と剣とが激しくぶつかり合う。
すんでのところで、またしても澪が救ってくれたのだ。
「ふあっ……!」
剣勢に押され後退する澪の方を、献慈は振り向こうとした。
実際、それはそう難しいことではなかったはずなのだ。
彼女の名を呼ぶこともまた――
「…………!?」
澪の名前の代わりに、献慈の口から飛び出したもの。
それは生臭く、粘性を帯びた赤黒い液体だった。
「……? …………!!」
おそるおそる視線を下に向け、献慈はようやく自身が置かれた状況への理解が追いついた。
献慈の胸を貫く、ヨハネスの左手がそこにはあった。絶え間なく流れ出る血に染まったそれは、手首すれすれまで己の体に埋まっている。
鼓動が激しさを増してゆく。
遅れてやってくる痛みに恐怖する。
耐えられるのだろうか。いや、耐えられるはずがない。嫌だ。どうしようもなく怖い。
幼子であった遠い日より、久しく感じたことのなかった、逃げ場のない感情の激流に、見栄も羞恥も、何もかもかなぐり捨てて泣きじゃくりたい気分に陥る。
今すぐ何かにすがりたかった。
だから、大切な人の名を呼んだ。
「――――!」
喉を駆け上がってくるのは、鉄の味をした生温かい塊ばかりだった。
「献慈いぃ――ィ!!」
後ろで自分の名を呼ぶ声がする。
怒っているのか、それとも泣いているのか、とにかく悲しい、とても悲しげな響きの、しかし何よりも聞きたいと願ったその人の声が、献慈を今一度奮い立たせた。
(み……澪……)
絞り出すような思いで〈ペインキル〉を発動させる。傷口、というにはあまりに大きいその孔を、癒しの光が覆っていく。
正直に言って要求に値するとはいえない、頼りない光ではあったが、不死者の本能はそれを嫌ったのだろう。
「ぐ……ッ」
ヨハネスは不快感を滲ませた面持ちで、焼けただれた左手を引き抜く。
「くぉ……ごっ……ぅ……」
献慈の胸の孔から、消えゆこうとする生命のリズムに従って、血潮が噴き出していた。
目を覆いたくなる惨状に気が挫け、治癒の光が止む。痛みが強まるので再度治癒を試みるのだが、気力が安定せず光はさらに弱々しくなる。
急激な寒さが全身を襲う。いよいよ膝も言うことを聞かない。崩れ落ちる体を、献慈はどうにか地面に横たえた。
(嫌だ……俺は、まだ……)
「うおぁあああァァ――――ッ!!」
半狂乱となった澪が、空も震えんばかりの大音声で喚き散らしながら斬り込んで来た。
ヨハネスがこの事態を予測していないはずもない。上段から振り下ろされる刀に合わせ、自らも剣技をもって迎撃する。
「瞬突――ゥ……ッ!?」
真っ向斬り抜けるかに思えた荒々しい太刀筋が、急激な弧を描いて変化し、剣を持ったヨハネスの前腕を両断する。
新月流・〈早叢〉。
「ぐぅおォのおぉォッ!!」
澪は間髪を入れず喉元への突きを繰り出すも、ヨハネスは動きを緩めることなく回避する。そしてすれ違いざま、残った上腕ともう一方の腕で、彼女の両手首をがっちりと挟み込む。
無刀取り――密着した腕を通して、外側から押さえ込むように相手の肩までをも固めている。澪は進むことも退くことも叶わぬ体勢に追いやられていた。
ヨハネスは鋭い犬歯を覗かせ、嗤う。
「フフ……いいぞ、殺意が漲っている……! だが――」
そして、そのまま躊躇なく彼女の手首を極める。
「ぃぐぁっ……!?」
「――まだだ。まだ一歩、及ばない」
「うぼぉ……ッ!!」
ヨハネスの鋭い蹴りが、澪の胸に叩き込まれた。
恐ろしい勢いで河原を転がっていく澪の姿を、献慈はかろうじて目で追うことしかできなかった。
淡々と、ヨハネスは踏みつけた自分の腕――だったもの――から剣をもぎ取り、鞘へと納める。その足の下で肉塊は黒く溶解し、一方で斬られた腕の断面は不気味な蠢動を見せながら再生しつつあった。
「〝太刀花〟が娘よ、オレを滅ぼしに来るがいい。お前にはその資格がある」
ヨハネスは言い残し、いずこへと去って行った。
*
壮絶な戦いがまるで嘘であったかのように、辺りは静まり返っていた。
献慈の耳に聞こえるのは川の水音、自身の途切れ途切れの呼吸、そして地面を引きずって近づいて来る足音だけだった。
霞がかる景色の中で、両腕を垂らした澪の姿だけが、鮮明に浮かんで見える。
治癒はもう使えそうにない。霊力が底を突きかけていた。自身の負った痛手が深すぎたためもあるが、それ以前に重症の澪を二度に渡って治療したツケが回ってきたのだろう。
だが、そのことに後悔など一片たりともない。
覆い被さるように屈み込んできた、澪の顔。汗で髪の毛が貼りつき、血と涙にまみれ、土や砂で汚れている。凄く、物凄く頑張って、力の限り戦い抜いた、誰よりも愛しい人の顔だ。
ああ、この体が無事であったならば――存分にこの人をいたわってあげたい。
「い……っ、ひぃやらぁ……げっ、んじぃ……」
しきりにしゃくり上げる合間から、澪が涙声で語りかけてくる。言葉こそ正確には聞き取れないが、自分を気にかけてくれているのだけは、献慈にもはっきりとわかった。
(ごめん、澪姉……お礼も言えなくて)
「ぐっ……けん、じ、いっ、行かっ、ない……れぇ……」
(……参ったな……これじゃまるっきり、さっきと真逆じゃないか……)
己の境遇に呆れ返りながらも、献慈はどうやって澪の気持ちに答えようか思索した。
身体が異様に寒い。
残された時間はきっと少ない。
(お願いだ……あとちょっと、動いてくれ――)
献慈は力を振り絞り、自分の胸元を探った。目的のものを掴み取り、目の前に掲げる。
拳から流れ落ちる血が腕を伝うに従い、見慣れた赤い色から黒く変色してゆく。それに対する疑問も興味も、もはや湧いてさえこない。
「……献慈……?」
音叉のペンダント――広げた手の中に、献慈は想いとともに差し出す。
「…………」
まぶたが異様に重い。少しだけ、少しだけ、閉じてもいいだろうか。
「…………」
頬に、胸元に、四肢に、天から無数の雫が降り注ぐ感触。心地よい雨音の隙間から、なじみのある弦の音色が聞こえてくる。
ワツリ村から持って来たギター。初めて手に取った日の、一連の出来事が妙に懐かしい。思えばあの時も、今と似た灰色の空模様だった。
何もかもが、夢であったような気がしないでもない。
沈んでゆく、身体が、意識が。
落ちてゆく、どこまでも。
そして。
誰かが、その手を掴んだ。
お読みいただきありがとうございます。
次章より物語は後半へと移ります。
よろしければ引き続きお付き合いください。




