第30話 戦場に負け犬の居場所はない(1)
小屋の戸が、大きく開け放たれた。
献慈は無意識のうちに、入り口と澪との間にその身を滑り込ませる。
何が何でも澪を守る――ずっと抱いてきた意志が、献慈の身体をそう駆り立てていたのかもしれない。
「うへぇ!?」
戸口から現れた人物が、こちらを見て頓狂な声を上げる。この時点で献慈は、自らの行動がまったくの取り越し苦労であったと知る。
「な~んだべ、オメらぁ。いぎなすぇこっだトコさいだんだ、たまげんでねぇべが」
小屋の管理者なのだろうか、雨合羽を羽織った中年の男性だった。
さて、緊急事態とはいえ、断わりもなく小屋に侵入しているこちら側に否があるのは明らかだ。
「すいません! 何と言いますか、その……先ほどから抜き差しならない状況が続いてまして……」
献慈が弁解を始めた途端、男性は目を丸くする。
「ぬ……抜ぎ差すぇ……!?」
「そうなんです! 私たち、今から一戦交えるかもしれなくて……」
次いで澪も、切迫した現状を真剣に訴えかける。
その気迫が伝わったのであろうか、
「い、一戦交えるあぁ!? まったぐ最近の若ぇもんは、真っ昼間からこっだらトコで……しょうがねぇだなぁ」
男性は幾分たじろぎながらも、徐々に納得する素振りを見せ始めた。
「はい。ですから今すぐに――あっ!」澪が小さく声を上げる。
「気にすんなぁ、ゆっぐりすてげ。オラぁしばらぐ外ほっつぎ歩いて来んべがらよ」
「ん――!?」献慈も遅れて異変に気がつく。「いや、ダメです!」
にこやかに立ち去ろうとする男性の背後に――まだ距離はあるものの――こちらへ忍び寄る仇敵の影を発見する。
「献慈、おじさんから先に!」
「わかった! ……さぁ、こっちです!」
戸口へ向かう澪と入れ違いに、献慈は男性の肩を掴まえ、奥にある裏口まで引っ張って行く。勢い余って壁際に押しつけるような姿勢になってしまったが、気にしている余裕はない。
「後ろから行きますよ!」
「な、なぬ~っ!? オメぇ、まさが両方……」
こちらへ尻を向けた男性の肩越しに、献慈は引き戸の取っ手に手をかける。
「クッ……これは固そうな……」
「ま、待づだ! オラぁまだ心の準備が……」
「ふんっ! ふんっ!」
「はうぅっ!」
力を込めて戸を揺らすも、建てつけの悪さからか、引っ掛かりが邪魔をする。
「クソッ……力ずくでもこじ開けないと!」
「もっと優しぐしてほしいだよ……」
男性が献慈にしなだれかかろうとした、その時だった。
思いがけずも、引き戸が向こう側から力いっぱいに開け放たれる。
「――さぁ! こっちへ急ぎな!」
凄みを持った声の主をよく見ると、それは先ほど橋のたもとで澪と話していた中年女性だった。貫禄ある佇まいはそのままに面立ち鋭く、手には鉄扇を携えている。
「ひえぇっ! 今度はオバサンのおしおきだか!?」
「誰がオバサンだい! 〝鉄火蝶〟の珠実たぁその昔……まあいい。そんなことよりアンタはとっとと向こうまで逃げるんだよ!」
「は、はいぃっ!」
状況が飲み込めない風ではあったが、叱咤を受けた男性は一も二もなく走り去ってしまった。
さて、残された献慈もまた程度の差こそあれ、要領を得ないという点では同じだった。
「貴方は……一体どうして?」
「話は後だよ。お嬢さんのほうは……あっちかい?」
珠実と名乗った女性と、献慈は連れ立って表側の戸口へ回り込む。
早速、澪がこちらを見て驚きの表情を浮かべた。
「珠実さん!? ……そっか。カミーユたちが……」
「あぁ。精霊を使って一人ずつ橋の上から降下させてるところさ。お仲間ともども、すぐに駆けつけて来るはずだよ」
話をしながらも珠実は澪の隣に並び立ち、敵を迎え撃つ態勢に入っている。
「もしかして姪っ子さんも?」
「詳しいことは訊かないでおくれ。ともかく、キホダトにも早馬を遣ってある。救援が来るまでアタシらがやり過ごすから、お嬢さんたちは下がってな」
詳細はぼかされたものの、ふたりの前へ進み出る身のこなしを見るに、珠実がひとかどの実力者であるのは間違いない。もし彼女が烈士でないとすれば、その素性はおのずと絞られてくる。
もっとも、現時点で深く考えを巡らすだけの心理的余裕を献慈は持っていない。
「ここは、任せるべきなのかな……?」
「……献慈は下がってたほうがいいよ」
澪は、献慈を置いて敵の方へ足を進めていく。
「澪姉は!?」
献慈の声に、澪が答えるよりも先に、言葉を発した者があった。
「『救援が来る』――と言ったか?」
互いの顔を確認できる距離にまで、ヨハネスは迫って来ていた。
「ああ。だけど逃がしゃしないよ。『眷属』――とは少し違うようだが、アンタのようなヤツを野に放つのは危険すぎるからね」
真っ向応じる珠実だったが、その額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「私も同じ気持ちです」
澪はきっぱりとそう告げ、静かに居合腰を取る。
前方に珠実、斜め後ろに澪――位置取りだけを見れば、不利なのはヨハネスの側だ。
しかしそのような戦の定石など、圧倒的な実力差の前にはさしたる意味を成さないことを、献慈は早々に思い知る。
「……そうか。降りかかる火の粉は払わねばなるまい――」
先に動いたのはヨハネスだった。無構えから一気に間合いを詰めつつ、順突きを繰り出す。
迎える珠実は、閉じた鉄扇を手の内でくるりと翻し、後の先で突きを絡め取る――つもりだったのだろう。
「う――っ」
急激に加速したヨハネスの拳は防御をすり抜け、珠実の喉元を打ち抜いていた。並外れた威力を一身に受けた、その体の上半分があっけなく爆ぜる。
乾いた音とともに破片が飛び散る中を、背後から神速の抜刀に乗せた澪の斬撃が襲う。この一撃に「反応」するのは、たとえ達人であっても不可能だったはずだ。
だが「予測」であればどうだろうか。事実、ヨハネスは一瞬早く踵を蹴り上げ、宙へ逃れていた。
無常にも空を切った横一文字の真上を、ヨハネスの体が逆さまに躍っている。白刃の上で仇敵同士の視線が上下互い違いに交差する、一刹那の奇景。
そこへ――
「――〈疾風追奏〉ッ!!」
彼方より、怒涛のごとく迫る鮮緑の突風。
瞬間、ヨハネスは澪の袖口を掴み取るや、空中に放り投げる。その勢いを利用し入れ替わりに着地をすると、襲い来る猛風の刃を紙一重で躱し切っていた。
駆け抜けるラベンダーの香りに混じり、湿った木屑の薄ら甘い匂いが鼻をつく。
献慈が風上へ目を向けると、そこにはカミーユ、呪楽を奏でるライナー、そして今まさに術を展開しようとする若い女性の姿があった。
橋のたもとで珠実と一緒にいた、彼女の姪である。
「Ena riguit: kawquiing-reno fymeny-ing――」
詠唱に合わせて後光が差し、櫛の歯のように伸びた頂点が放射状に広がっていく。光を受けて胸の上に輝くのは――円と三角形を組み合わせたデザインの――サルウィスムス教式ロザリオだ。
「〈荒鴉〉!!」
宙返りを打ちながら、澪が霊刃を投射する。
それを素手で難なく弾き返すヨハネス。見開かれた眼は着地寸前の澪を完全に捕捉している。
「……足掻くか」
ヨハネスの手が剣の柄に掛かり、その足もまた踏み出す寸前にあった。
そこへ不意に――小屋の屋根の上から、何かが風を切って飛来し、敵の行く手を遮る。
地面に突き刺さった、鈍色に艶めく鉄扇。
「今だよ――安珠!」
屋上から珠実が姪に呼びかける。それに呼応した安珠が術を発動させた。
「――endu-'i sunega!」
光属性魔法〈聖浄光〉――後光を束ねた十数本もの光の筋が、一気に撃ち出される。それらは横殴りの雨となり、余すところなく正確に、目標まで到達したかに見えた。
「〈屠光迅剣〉」
ヨハネスの周囲を、恐るべき迅さで薄紫の光芒が閃く。直後、雨霰と浴びせられた光束はことごとく打ち払われ、湿った空気の中へ立ちどころに霧散してしまっていた。
珠実の身代わりに半壊した流木の残骸を、ヨハネスはまるで意に介さぬといった素振りで踏み敷く。その手に握られていたのは、淡い雷光を宿した抜き身の長剣だった。
「ドナーシュタール……」
つぶやくカミーユの隣で、ライナーも静かにうなずく。〈聖者の光鎧〉――味方の防御力を底上げする呪楽――で全員を守りつつ。
「それと、あの剣筋は――オクタヴァリウス剣術」
十秒にも満たぬ短い時間の中で繰り広げられた、目まぐるしい攻防が一段落し、場は一時的に膠着状態となったかに思えた。




