第29話 闇纏う者(2)
ふたりは幾らか方向を変えながら、それなりの距離を駆け抜けて来ていた。
だいぶ引き離せたに違いない――それは献慈の希望的観測。
(さすがに……そろそろ……)
坂になった地形の、ずっと下の方だった。雨に霞む景色の向こうに、襤褸を纏い、剣を背にした長身の影を見る。
献慈の望みも儚く、そこにはいかなる余裕か、大股でこちらへ向かってにじり寄るヨハネスの姿がはっきりと視認できた。
「ダメだ……まだ追って来てる……!」
横っ風に煽られ、乱れた雨足が草地を薙いで行った。
助けを求めに最寄りの町まで引き返すべきか。キホダトならば烈士組合も、奉行所もある。だが、ここから向かうには距離がありすぎる。とても体力が持つとは思えない。
次善の策はカミーユたちを頼って先ほどの橋まで戻ることだ。ただ、民間人もいる中へ敵を引き連れて行くことはどうあっても避けたい。最低でも、敵の捕捉から逃れるまでは引き離さなければならない。
「……来て」
向こうで澪が呼んでいる。
声に従い、献慈が急いで坂を上り切ると、そこは見事な崖っぷちだった。下を流れるシヒラ川の、こちら側から向こう岸までが一望できる高さだ。
「下に」
ただ一言、澪が口にする。それが意味するところを一瞬で理解してしまいそうになりながら、献慈は頭の隅へ追いやる。
だがそれでも――背後に差し迫る危機を考慮すれば、呑気に迂回して降りる道を探す余裕がないのは明白だ。
(下、って……確かこの辺りは……)
身を屈め、慎重に崖下を覗き見る。
はるか真下に広がる石混じりの地面には、しっとりと濡れそぼつ流木が、転落者の到来を待ちわびるかのように、もの寂しく横たわっていた。
(いっ……いやいやいや! さすがにこれはちょっと……)
以前永定とともに飛び降りた崖とは比べ物にならぬ高さに、献慈は目が眩みそうになる。
「まさかとは思うけど、澪姉――えっ!?」
不意に伸ばされた澪の腕が杖を取り上げ、献慈の帯の間へねじ込むや、その体ごと抱え上げていた。
「しっかり掴まってて」
「えっと……何を……」
「献慈……信じてるからね――――!」
力強く笑いかける澪の瞳が、これから起こる事のすべてを物語っていた。
(マジかあぁァ――――ッ!!)
沈み込んだふたりの体が次の瞬間、頼るもの無き空へ投げ出されたのを、献慈の五感が把握する。
ゆっくりになる雨粒の動き。
体の中で内臓が上へ上へと引っ張られる感覚。
そして、めくれ上がった行灯袴の裾が耳のすぐ横でしばらくの間、ばたばたとはためいた後、
「――づぅ……ッ!!」
「ふがっ……!?」
下方から伝わる激しい衝撃に全身が大きくバウンドする。知らず識らず澪の肩に回していた両腕が振り解かれ、献慈の体は地面へと転がっていた。
「うっ…………み、澪姉……!?」
二人分の体重と装備、そして荷物の重みを一身に受けた負担がどれほどのものか、測り知れない。献慈は急いで身を起こすと、澪の姿を探し出して駆け寄った。
「あぐぅぁ……ぅいぎぃ……」
尻もちをついた体勢で苦しみ喘ぐ澪に、献慈はありったけの気迫を込めた〈ペインキル〉を放つ。
「今っ!! 治すからっ!!」
「うぅっ……あり、がっ……も、もういい。歩けるから……」
「えっ!? でも……!」
治癒の途中で立ち上がろうとする澪に、献慈は反発する。だが直後、彼女が指差す方向へ目を遣り、その考えを取り下げた。
川岸から少し離れた場所に、木造の小屋が建てられていた。
「(身を隠すのが先決か……)わかったよ。先にあそこまで行こう」
献慈は杖を澪の手に握らせると、彼女に肩を貸して、小屋の方へと連れて行く。
「澪姉……頑張って」
「……うん……」
雨に濡れ密着する体。まだ苦しさの残る表情で喘ぐ澪の吐息が、絶え間なく首筋に掛かり続ける。
澪を救いたい一心に満たされた、献慈の気持ちは揺るがない。
「もう少しだよ……もう……少し」
ようやくたどり着くも、小屋から明かりや物音が漏れてくる様子はない。無人のようではあるが、念のため一声。
「すいません、お邪魔します」
入口の引き戸に手をかける。幸いなことに鍵は掛かっていない。
屋内へ足を踏み入れる。すでに雨は止んでいたものの、いまだ空を灰色の雲が覆っており、薄暗い中を窓から差し込む頼りない光だけが照らし出していた。
板を打ちつけた壁に掛けられているのは、舟を漕ぐのに使われる櫓や櫂だ。奥の角には、釣竿や投網らしき道具も立てかけられている。
どうにも民家といった雰囲気ではない。推測でしかないが、近くの漁民などが共同で利用している場所なのだろう。
「ここで……いいかな」
献慈は小上がりになった板の間の縁へ澪を座らせた。すぐさま入り口を閉めて戻り、治癒を再開させる。
「俺のために……こんな痛い思いして……」
「信じてたから。献慈なら絶対こうしてくれるって」
「それはわかるけど……いや、責めてるわけじゃなくてさ。感謝……してる」
「……うん」
「それと……尊敬も」
怪我の全快を告げるように、苦痛の想念を含む光の粒が澪の身体から散っていく。顔色も上々、表情も落ち着いており、経過に問題はないかと思われた。
「どう? 大丈夫……かな?」
「うーん……」
澪の手が、
「え……え!? ちょ、ちょっと待って! 何で……」
やにわに袴をまくり上げる。股下から覗いたドロワーズのフリルが、昆虫を誘い込む花弁のようにふわりと揺れた。
「何でって……汗拭いたりとかしたいし」
「あー、そうい…………う!」
太もも。
目を逸らそうとしても、献慈の本能がそれを拒んでいた。初めてじっくりと目にする、澪の太もも。げに麗しき、太もも。太いももと書いて、太もも。太ももが太いももであるという純然たる真実に、はたして疑問を差し挟む余地などあろうものか。粛々と眼前に示された光景は、むしろそのことを雄弁に物語っていた。健康的という度合いをわずかに超えて鍛えられた筋肉の上を絶妙な加減で覆う柔らかな肉質が板の間の縁や彼女自身の指先に押されて形を変える様は舌なめずりを催させるまでに艶めかしく、滅多に陽の下へ晒されることのない部分であるだけに本来的な白さを保ちつつある柔肌の表層がかすかに汗ばみ煌めく様子と相まって、さながら極上の水菓子を思わせる。さらに付け加えるならば、暗がりのもと妖しく艶めくロングブーツとの質感の親和性は太ももが太もも然たる太ももとしての自己同一性を再獲得せしめ、それに対して色彩的対比にあっては太ももが太もも未満であるところのものとして在りつつも完全なる太ももとして成る潜在的可能性をも指し示しているかのごとく、その堂々たる威容を幾重にも礼讃してやまないのであった。
「ねえ」
「…………」
「……献慈?」
「…………はっ!」
すっかり見とれていた。
「……面白い? こんなの見て」
軽蔑しているのか、卑下しているのか、はたまた単にからかっているだけなのか。
澪の顔をまともに見られない。
「あ、いや……えっと、き……」
きちんとお手入れされている――などと答えようものなら、たとえ事実でもかえって気味悪がられる危険さえある。
「き?」
「綺麗、だ……から、見とれっ、そうにな、なって……しまって……」
偽らざる本音だ。未遂ではなく、完遂である点を除けば。
すぼめた背中越しに、クスクスと笑い声が漏れ聞こえてきた。
「ふふっ……久しぶりに褒めてくれたと思ったら、それ? おっかしー」
「久し……? そ……そう、だっけ……」
「そうだよ。ま、どぉ~せ、ご機嫌取りなんでしょうけど」
「ち、違うって! それはただ――」
照れくさかった――そうだ。澪のことを素直に「綺麗だ」と褒めるのが、いつしか照れくさくなっていたのだ。
「(俺……意識してる……)え、遠慮……してた、だけ」
「そうなの? さっきは……あんな力ずくで止めてくれたのに?」
「それは……ごめん。澪姉の気持ちより、俺の気持ちを優先させちゃったのは認める」
澪はすぐには答えず、先に水筒の水で喉を潤す。
つられて献慈も自分の水筒に口を付けたあたりで、ようやく。
「献慈は、私の…………」
言いかけたきり、澪は口をつぐんだ。
「…………」
聞き返そうか、聞き返すまいか。
「…………」
二の足を踏むうち、みるみるタイミングが失われてゆく。
気まずい。
「俺は、澪姉の守部だよ」
「……うん」
これで、よかったのだろうか。
自問することから逃げる理由に事欠かないのは、はたして幸か不幸か。
「それで……あのヨハネスってのが、お母さんの仇なんだよね?」
本音を言えば――今この瞬間も自分たちを付け狙っているであろう――あの恐ろしい存在について話をするのは、はなはだ気が進まなかったのだが。
澪は神妙な面持ちでうなずいた。
「間違いない……と思う。服装とか髪の色は変わってるけど、あの時も同じような剣を背負ってたから。それに……」
そこでうつむき、言い淀んだ澪だったが、献慈が隣に腰を下ろすのを見て言葉を続けた。
「今考えると、戦いの最中お母さんが油断したのって、相手の正体に気づいたからだと思う。私が気を失う直前、ヨハンだかヨハネだか、そんな名前を口にしてたから」
「知り合いだったってこと? ヨハネスと……いや、美法さんは烈士をしていたはずだから……」
「うん。昔の仲間だったのかもしれない。海の向こうで仕事をしていた頃の」
澪の言わんとしていることはわかった。献慈にも、思い当たる人物が一人いたからだ。
「それじゃヨハネスって、ライナーさんが言ってた〝勇者〟……?」
「確信があったわけじゃない。だからこそさっき、カミーユたちに確かめておきたかったの。献慈も話してた、異国の戦士のことも含めて」
「……そうか! そっちはおそらくヨハネスの件とは関係がないんだね?」
澪は肯定を示す代わりに、確固たる意志を宿した眼差しを献慈に向ける。
「急ごう、献慈。このまま橋の下まで行って、カミーユたちに呼びかけるの。もしあいつが私たちを追って来ても、上にいる人たちを巻き込むのは避けられる」
「わかったよ。……行こう」
いつもの頼もしい「澪姉」が戻ってきた――なけなしの勇気が奮い立たされる感覚を、献慈は噛みしめるように、ゆっくりと杖を手に取る。
しかしそんな折、時を同じくして戸外から接近する足音を献慈は耳にした。
「まさか……もう――?」
打ち立てたばかりの決意がわずかに揺らぎだす。
そんな献慈の手を、柔らかな指がそっと包み込む。
「私はここにいるよ」
「……うん」
「約束……しよ。ふたりとも生き延びられたら、お互いの言うこと何でも一つずつ聞くの」
「…………うん」
「よし。じゃ、指切りね」
そう言って澪は、自分の小指を献慈の小指に絡みつかせる。
それは数秒にも満たぬ、ささやかな儀式であった。
脈打つ血管が交差し、ふたつの鼓動が重なる。縒り合う糸が強さを増すように、ふたりをつなぐ縁もまた、より確かなものとなるのだ――そんな希望を、献慈はこの時抱いていた。
互いの汗に貼り付いた肌同士が、名残惜しげに離れゆくのを待たずに――
――足音が、止まった。




