第25話 おやすみ(2)
献慈の部屋、澪とふたりきりでの夕食だ。
付近ではちょうど猟期に入ったばかりらしく、座卓に並んだ夕食は山菜と肉料理が中心だった。丁寧に拵えられた鹿肉の鍋物は、平時であったなら嬉しいご馳走であったことだろう。
「うわぁ、美味しそうだね~」
「そうだね」
不自然なほど普段どおりの澪を前に、献慈は男子としての強がりを無意識に働かせた。
空っぽになった胃は、戸惑いながらも身体の主の命に従おうとする。
真新しい惨劇の記憶に蓋をして臨む食卓は無味無臭で、生命維持の役割を果たすだけのものでしかない。
その時はただ、澪と交わした他愛のないお喋りだけが、献慈の心を豊かにしてくれた。
「……でさ、ゲーセンで碧郎の奴が――」
「へぇ~、面白いねー」
いつ振りになるだろうか。ユードナシアでの出来事をたくさん語った。
家にいた頃、澪はあちらの文化やファッションについて、よく聞きたがったものだ。
今はもっと個人的な、献慈の生い立ちや家族、友人たちとの話ばかりをしていた。
あの日から四ヵ月、すべてが遠い昔に思える。過ぎ去った時間の隔たり以上に、自分と故郷との距離が遠く離れてしまったせいかもしれない。
すでに献慈はトゥーラモンドで、さまざまな物と、人々と、土地と、多くの縁を結んでしまっている。
入山献慈という存在は今、どこに属しているのだろう。
ひょっとすると、元の世界にとってはもはや異物と成り果てているのではないか。
「……献慈、大丈夫? 疲れちゃった?」
「ん? ううん、べつに……」
「いいよ。お皿、私が持ってく」
献慈が引き止める間もなく、澪は食べ終えた二人分の食器を盆に載せていく。
「あとで私の部屋来てね。お布団……用意しとくから」
そそくさと部屋を後にする後ろ姿を、黙って見送った。その時献慈が抱いていたのは、三分の一の下心と、三分の一の親愛の情と、もう三分の一の気持ち――。
(澪姉……俺は澪姉の心が知りたいよ)
*
澪は髪を両肩の前で緩く二つ結びにしていた。
「じゃ、そろそろ寝よっか」
素朴で可憐な佇まいには少女としての側面を映す一方、さり気なく施された寝化粧には女としての矜持が垣間見える。
「……う、うん」
高鳴る胸を押さえつつ、布団に入る。
「消すね」
障子越しの淡い月明かりが部屋の中を照らす。いまだ上半身を起こしたままの献慈の影が、壁の方まで伸びていた。
畳の上に二つ並べられた布団。一応は寝床こそ分かれてはいる。
(自分で応じておいて何だけど……)
初日の木賃宿での記憶が献慈を悩ませていた。
あの時よりも互いに打ち解けたとはいえ、仮にも婚姻前の男女が同室で寝起きするのだ。やはり澪は内心抵抗を感じているのではないのだろうか、と。
「……寝ないの?」
「何ていうか……俺……一応、男なのに……」
「そんなに気負わなくてもいいんじゃない?」
「……え?」
「男だ、女だって、自分に気合い入れるのはいいと思う。けど、四六時中そんなだと疲れちゃうでしょ」
言葉足らずの招いた誤解であったが、それはかえって献慈の卑屈さを言い当ててもいた。
(……そうだ。無理をしてないと、俺は駄目な自分を認めなくちゃならなくなるんだ)
「周りが強い人ばっかりだと、つい張り切っちゃう気持ちもわかるけどね。私も……お母さんとか、カガ姐さんとか、明子もああ見えて忍……あ、これ言っちゃいけないんだった」
(思いっきり『ニン……』って聞こえましたけど!? 忍んでる職業の人ですよね!?)
献慈は表情筋を一時停止させ、聞かなかったふりをした。
「私も結局はそういう強い人たちに助けられてきたから、ここにいられるわけで。だから献慈も遠慮なんかしないで、私にどんどん頼ってくれて構わないんだからね?」
澪を心配していたはずが、逆に励まされている自分がいる。
(そうじゃないんだ……たしかに澪姉は強いよ。俺の……憧れの人だ。でも……心が傷つかないわけじゃないだろ? 俺が本当に癒してあげたい傷は――)
さまざまな想いが浮かんではくるものの、どれも言葉にする前に臆病な心の淵へと沈んでいく。
無力感に押さえつけられるように、献慈は自然とその体を布団に横たえていた。
「やっぱり……澪姉がためらったのって、俺があんなこと言ったせい?」
自分が不甲斐なかった。肝心なことは言えずじまいのくせに、後ろ向きな言葉ばかり口に出せてしまう。
甘えているのだ、彼女の寛容な心に。
「……違うよ。あれは私の問題。献慈のせいじゃない。私にまだ覚悟が足りなかったの」
(覚悟なら……俺だって……)
「お母さん、言ってた。剣の道を歩む以上、どうあってもその先は命を奪うことに行き着く。それは誰を生かそうとか、守ろうとか言い訳をしても避けられないことだから、肝に銘じておきなさい、って」
「…………」
「相手にとってもそれは同じかもしれない。立場の違う正しさ同士がぶつかり合って、どちらか片方しか生き残れないとしたら、相手に対するせめてもの敬意として己の武を磨くしかない。武術ってのはね、そういう殺し合いの作法なの」
澪の語る言葉の、一つ一つが重くのしかかる。
肯定も否定も、献慈には何一つ返す言葉が浮かばない。立っているステージが違いすぎるのだ。戦いに臨む意識の差を、改めて思い知らされた。
「参ったな……俺……どうして澪姉を守るとか支えるとか、できると思ったんだろ……」
悔しかった。大切な人の力になれない自分が、許せなかった。
布団の外へ放り出された手を、ぐっと握りしめる――
「がんばれー」
よりも早く、しなやかな指先が滑り込んできた。
「わたしも……がんばるから……げんき、だして…………ね」
重なり合った手のひらから、声にした言葉以上の何かが伝わってくるようだった。
「澪姉……」
「…………」
(寝ちゃったのか……)
預けられたその手に、献慈はそっと指を絡ませる。
込み上げる想いの正体を、認めずにはいられない。
――、――、――、――。
声を立てぬよう、天井に向けて吐き出した。
「……おやすみ」
やがて眠りに落ちるまどろみの中で、ふと手を握り返されたような気がした。




