第53話 鬨の声
イツマデの亡骸から素材を回収しようとするカミーユを力ずくで引き剥がし、目的地の手前までたどり着く頃には、心なしか禍々しい気配も薄らいでいた。
「魔法陣の内側に入った。外の魔物はもう手出しできないよ……はぁ」
ふてくされたままのカミーユだったが、その言葉におそらく偽りはない。それはここ、眼前にそびえる大墳墓が、間違いなく災禍の中心部であることを示してもいる。
五人は最後の身支度を終え、入口の前へ集う。
皆の中心にはリーダーの澪がいる。
「カミーユ。私が落ち込んでた時、励ましてくれたこと、一生忘れないから」
「なっ、どしたの? 急に」
「ライナー。あなたが何を抱えてるのか私にはわからないけど、その夢叶うといいね」
「…………」
「お父さん。いろいろあったけど、ここまで一緒に来てくれてありがとう」
「ああ……ずいぶん回り道をしてしまったがな」
「……うん……。それから……献慈。舟小屋でした約束、憶えてる?」
――約束……しよ。ふたりとも生き延びられたら、お互いの言うこと何でも一つずつ聞くの。
交わした言葉だけではない。指切りの感触までもが昨日のことのように思い出せる。
あの時と同じく、ふたりはこれから死地へ向かうのだ。
「もちろん憶えてるよ(あれで俺が『生き延びた』うちに入るとすればだけど)」
「私は、献慈にこの先も『生き延びて』ほしい」
「……お安い御用だよ」
「献慈は? 私に、何かしてほしいことない?」
澪の表情は――自分はあなたの言うことなら何でも受け入れる――という用意を持った女の顔である。
少なくとも献慈の目にはそう映っていた。
だからこそ。
遠慮は要らない。
「澪姉」
「なぁに?」
「俺と結婚してくれ」
「うん………………ん…………え? えぇえええぇ――――っ!?」
「ダメっていうならまた出直すけど……」
「ダメくない! すっ、する! けけけっこん、するぅ!! そそそれで、その、しっ、式の日取りとかいいいっ、つが……」
「まぁ、具体的なことは追い追い決めるとし――ぃでっ!?」
突然の打撃が献慈の後頭部を襲う。
「くぉらァ! 決戦前にリーダーのメンタルかき乱すなぁ!」
案の定、カミーユであった。
「いてて……カミーユこそ余計な物理ダメージを蓄積させないでくれよ」
「うるせぇ! っつーか、おっさん! 娘さんが目の前でたぶらかされてますけど、いいんすかっ!?」
「んー、いいんじゃないかな。わたしも元からそのつもりでいたし」
それは初耳だ――と献慈は発言者の顔色を窺うが、微笑みを返す大曽根はいたって普段どおりだ。
虚を突かれたのはカミーユの側だった。
「何……だとォ……? ぬぉおい! オマエも何か言えぇ!」
苦し紛れにライナーへ意見を要求するも、
「もちろん、僕はおふたりを祝福しますよ」
真っ向返されて、いよいよ立つ瀬がない。
「ぬぅうう……わしの負けじゃあぁ。煮るなり焼くなり好きにせい」
「そうですか。では好きにさせてもらいますね」
「………………。……え? 好きにするって、まさか放置……?」
大の字に寝そべったカミーユをその場に取り残し、話は滞りなく進められた。
献慈は改めて澪を正面に見る。
「驚かせてごめん。でもわかったでしょ? 俺が本気だってこと。だから……何も心配しなくていい。澪姉は自分が思うままに戦ってよ。俺が支えるからさ」
「うん……わかった。ありがと、献慈」
そして恋人は将の面差しを纏う。
「それじゃみんな、征こうか」
*
〈発光する精霊〉が横穴を照らし出す。
その内部は数人が並んで歩くに充分な幅と高さ、そして強度が確保されていた。代々この大墳墓を根城としていた者たちが、それなりの年月を費やして手を加えたのだろう。
開け放たれた鉄扉の向こうから明かりが差している。それ自体は何の変哲もない、メロウキャンドルと同質の魔導光だ。
烈士たちを、まるで誘蛾灯のように招き入れようとしているのは、艶めかしい湿度と粘性とを持って絡みつくこの空気――
「待ちかねたぞ」
地の底から湧き上がる響きが、ぞわぞわと胸腔を震わせた。耳にした瞬間、献慈は今まであったはずの平常心が、ただの思い込みでしかなかったのだと思い知らされる。
だがその時不意に、そっと触れてきた手の温かさが、
(……俺は――――)
大切なことを献慈に思い出させてくれた。
(――――前に進むんだ)
自分がなぜここにいるのか、その理由を。
「野暮な横槍が入らなければ、もっと早く来られたんだけど」
臆面なく言い返す澪の豪胆さが頼もしかった。
五人は、誰からともなく足を踏み出していた。
玄室の内装に元の墳墓としての名残りは微塵もない。円形に掘り広げられた室内は直径五十メートルほど。背丈のゆうに数倍は高い天井には、無数の小さな魔導灯がプラネタリウム然と張り巡らされていた。
石畳の上を足音が近づいて来る。
「なるほど。外の騒ぎはこの連中の置き土産か」
赤黒い何かで難解な図形が描かれた床のあちこちに、塵灰まみれの引き裂かれた僧服が散らばっている。
それらを踏みしだきながら中央へ進み出た、霊剣背負いし死せる兵。
はるか西の地で、かつて勇者と讃えられたその男の名を、ヨハネス・ローゼンバッハといった。
「これは……あなたがやったの?」
澪の問いに対しヨハネスは、愚問だとでも言いたげに口の端をつり上げる。
「邪神復活の儀式だとか抜かしていたな。目障りなのでぶち壊してやった」
あえて嘘をつく必要がないのはもとより、周りの惨状を見ればそれは自ずと知れた。
「行き場を失った魔力が暴発したってところかな、さっきの魔物――」
「そんな無駄話をしに来たわけではなかろう」
ヨハネスはにべもなくカミーユの口を遮る。
真紅に染まった両眼が見据えるのは、ただ一人の剣士のみ。
大曽根澪。
「最後に一つだけ聞かせて。あなたは、お母さんを――」
「ミノリであれば」またしてもヨハネスが言葉を阻んだ。「この期に及んで問答を続けはしなかっただろうな」
「……そう。よくわかった」
武人たる者、剣にて語るべし――霊剣・ドナーシュタールと霊刀・澪標天玲――互いの利き手が、それぞれの持つ剣の柄に触れようとしていた。
(……カミーユ)
献慈が小さく目配せを送ると、むこうもわずかに唇をすぼめて応える。
(よし、あとは作戦どおりに……)
「だが始める前に」三度、ヨハネスが口を挟む。「まずは面倒を取り除くとしよう」
紫光の閃きが、献慈の――
(――しまっ……)
すぐ横を掠めたかと思うと、後ろに控えていたライナーを瞬く間に刺し貫いていた。
完全に、機先を制された。
「……小癪な真似を」
ヨハネスが吐き捨てる。突き出された霊剣の切っ先には、一枚の呪符が引っかかっていた。
当のライナーは刃から逃れ、瞬時に安全な位置まで後退している――呪符に封じ込められた〈縮地〉の効果によって。
それと同時、抜き打ちざまの澪標天玲がヨハネスの利き腕を両断する。
「澪!」
大曽根の矢が飛んだ。
ヨハネスはそれを難なく躱すや、斬られた腕を剣ごと掴み取り、澪の二の太刀を防ぐと、地面を蹴って間合いから離脱する。
その間、数秒にも満たず。
(……動けなかった……一歩も)
いかに自分が場違いな場所に立っているのかを、献慈は存分に再確認させられた。
*
出発の数日前、献慈たち五人は揃ってゆめみかんの食堂を訪れていた。
呼び集めたのは、料理長の若蘭だ。
「もう何枚かよこせ? アホ言いな。そない一カ所に集まってみい。互いに干渉しくさって効果なくなるっちゅうねん。せやからコイツは一枚こっきりや。ぜったい倒されたらあかんヤツが持っとき」
そう言って渡された切り札は、初手で使い果たされてしまった。
だが、打ちひしがれている余裕などない。
(……そうだ。料理長の厚意はきっちり役に立ってくれたじゃないか。ライナーさんだって無事……)
「ほんのかすり傷です……作戦の続行を!」
楽器を構え直すライナーの胸元には、血が滲んでいた。
ここで信じるべきは彼の言葉ではない。その心意気だ。
「持ちこたえてね。あなたがこの戦いの要なの」
背中越しに発せられたリーダーの励ましに、ライナーは晴れ晴れしく応じた。
「心得ました。いざ――!」
力強きダウンストロークが鬨の声となって戦場に響き渡るや、あらかじめ七本の弦に込められていた呪楽の効果が一挙に発動した。
すなわち、
〈戦歌〉――味方の〈霊物連動〉を効率化。
〈祝歌〉――味方の属性干渉力を増幅。
〈聖者の光鎧〉――味方の〈霊甲〉を補強。
〈白騎士の繻子〉――味方の魔力耐性を増強。
〈武想解除〉――敵の攻撃意志を阻害。
〈太母の鐘鼓〉――敵の防御意志を減退。
〈光過敏促進〉――敵の光耐性を弱体化。
以上、七つ。以後も効果が途切れないよう、戦局を見極めながらそれぞれを継ぎ足していくのがライナーの役割だ。
本来であれば天と地ほどもある敵味方の実力差を、可能な限り埋めることができる唯一の方法だった。
「やはりお前――」
腕の癒合を図った、ヨハネスの動きが止まる。霊刀・澪標の刀傷が再生を阻害していたのだ。
「――クッ、抜かったか」
ヨハネスは利き腕を捨て去り、残った手に剣を持ち替える。この隙を見逃せるはずもない。
「みんな!」
澪の号令が一同を鼓舞する。
(今度こそ……!)
献慈も果敢に攻め入るが、ヨハネスはこちらに傷を晒したまま見向きもしない。小物ごとき、呪楽の支援を受けてなお脅威に値しないというのか。
いかにも、まったくもって正しい。
(ああ、むしろ好都合だ――)
上段に振りかぶった杖の先に破邪の光が灯る。それが後衛への合図となった。
「おお!」
大曽根から援護の矢が飛んだ。避けられはしたが、隙を生じさせるには充分だった。
「――〈黎明断〉!」
ヨハネスの肩口を打ち据える、献慈渾身の一撃。
「身の程を…………ッ!?」
分厚い〈霊甲〉が打撃を吸収した――にもかかわらず、ヨハネスの身体がわずかに傾いだ。
そうさせたのは、闇に巣食う者が嫌悪する、清浄な光。
(思ったとおりだ。不死者の本能には逆らえない!)
「跪きなさい!」
新月流・〈丹泥勒〉――間髪を入れず、澪の白刃がヨハネスの脚を薙いだ。いかな強者とて、脛を断たれては身構えを崩すよりほかない。
とどめは天井からだ。
「あたしらを忘れんなよ――さぁ、出番だ!」
〈琥珀の大鴉〉にぶら下がったカミーユが、声も高らかに祭印を結ぶ。
「その手は喰――」
体勢を崩しきる直前、ヨハネスは剣を床へ叩きつける。反動を利用し、カミーユの真下から退避したのだ。
実に的確な判断だった――術を放ったのが実際、頭上の召喚士であったならば。
「――ッ……き、貴様……!?」
衝撃によろめくヨハネス。その背に刻まれた傷は、術者の位置する方向を如実に指し示していた。
「〈嘯風牙〉……でいいのかな」
緑風の名残り渦巻く献慈の手へ、
「ええ、お見事です。副召喚主様」
肩越しに腕を伸ばす精霊の貴婦人――髪をまとめ、プロテクター付きの戦闘形態にドレスアップした――シルフィードが指を絡ませる。
その様子を横目にした澪は鼻息も荒く、刀を八相に構え直していた。
「ちょっと、ぐずぐすしてないで! 畳み掛けるよ!」
「え? わ、わかった!」
大将に続けとばかり、献慈も追撃態勢を取った。
その直後。
「……! 深追いしちゃダ――」
頭上から降るカミーユの声が、走り出しそうとしたふたりの足を止める。
「遅い――」
倒れ込む寸前、その体ごと振り回すヨハネスの剣が、
「――〈颶風旋衝〉」
凶猛たる剣圧を巻き起こす。
「うぁっ!」
「しまっ……」
旋風は献慈と澪を大きく吹き飛ばし、さらには上空にいたカミーユまでをも巻き込んでいた。
「むぉああ――っ!」
一撃のもとに〈琥珀の大鴉〉が消し飛ばされる。カミーユは宙へ投げ出されたものの、墜落の前に駆けつけたシルフィードに保護され事なきを得た。
「ごめん……早まっちゃった」
「いいさ。奥の手を引き出せたのは儲けものだ」
澪と献慈は支え合いながら、速やかに態勢を立て直す。思いのほかダメージが浅かったのは、第一にライナーが奏で続ける呪楽の援護によるものだ。
もう一点の要因はさらに明確である。
「死角から射抜くとは……そこの男、戦慣れしているな?」
ヨハネスの肩に、矢が深々と突き立っていた。
「それはどうかな。美法には随分と鍛えられはしたがね」
飄々と答える大曽根の両眼は、怯むことなく仇敵を睨み据えている。
「……そうか。貴殿が……」
うつむいたヨハネスの身体が不気味な蠢動を始めた。肩の矢傷、半ばまでを断たれた向こう脛の傷は塞がり、失った腕も元どおり復元されていた。
こちらが乱れた呼吸を整える、ほんの数秒の間に。
「皆さん、気を落とすのはまだ早いですよ。ヴァンピールといえど再生力は無限ではありません」
ライナーの励ましに、真っ先に答えたのはカミーユだ。
「なら問題ないね。こっちの攻撃は効いてるんだ」
「そうだね。攻め続ければいつかは……届く」
献慈はこの時、いつものように澪が同調してくれるのを期待していたのかもしれない。
すっかり忘れていたのだ。
「ごめんね。あいにく私、せっかちな性分なの」
大曽根澪とは、こういう女であった。
「あの世でゆっくり休ませてあげる。覚悟なさい」
「……よかろう」
そして、改めて知ることともなった。
ヨハネス・ローゼンバッハもまた、こういう男なのだと。
「化け物は休業だ。ここからはオレも一人の剣士に戻らせてもらおう」
抜き去った矢をへし折る音が、第二幕の始まりを告げていた。




