第47話 澪標(2)
執事ハーディの案内で、献慈たちはマシャド家の応接間へと通される。
中庭に臨んだテラスと、涼しげな白い壁とが四方を囲んでいた。磨き立てられた床板の上には、ロココ調の――トゥーラモンドではどう呼ぶのかは知らないが――家具が整然と配置されている。
五歩、六歩と足を踏み入れる、部屋の中ほど。シーズンオフの暖炉を飾る熱帯植物が、エキゾチックな芳香を漂わせ、遠来の客人を歓迎する。
ハーディが退出し、三人が部屋に残る。この人数では持て余す広さだ。
「遠いぃ所からよう来ちゃったねぇ。たちまち座りんさい」
ラリッサ・アルモニア・マシャド嬢。
献慈に紹介状をくれたジオゴの娘であり、今は亡きカヲル・サナダ・マシャド――真田馨の孫娘にあたる人物だ。
「早速なんですが……俺がここに来ること、貴方たちは……」
「ラリッサぁー」
「貴方は、知っ……」
「らぁりっさーぁ」
「…………。ラリッサ……さんは、どうやって知ったんですか?」
質問する側よりも、される側のほうがはるかに堂々としている。
その答えもまた、率直であった。
「んー……知っとったゆうか、信じとった。ばぁばもな、『もし入山くんがトゥーラモンドに来てるなら、私のこと必ず探しに来てくれるはず』言うとったけぇ」
馨は、初めから確信していたというのか。自分と同じように、献慈もこの世界へ流れ着くであろうことを。
「信じて……」
「うん。信じとった。うちも、ばぁばも」
大きな瞳。碧緑の湖面にオレンジ色のオーロラを閉じ込めたかのような、秘密めいた色合いをしている。
(……あんまり似てないな)
そう思う一方で、先ほどから感じていたこともある。
「お祖母さんとは、仲良かったんですね」
「ほうね……うち、こまい頃身体弱かって外にもよう出られんかったけぇ、ばぁばと一緒におること多かったんよ。そん時にようけ話聞かせてもろうてなー――」
孫娘に心細い思いをさせまいとしたのだろう。馨は幼いラリッサに、自らの体験を度々語って聞かせたのだそうだ。
烈士として活動していた頃の冒険譚。
ユードナシアで暮らしていた頃の思い出。
波乱の半生の中、出会った人々との交流――そこには献慈についての話もあった。
「……そんなことがあったんですね」
「思とったんと一緒じゃ、献慈くんのイメージ。じゃけん、さっきたまげてもうたんよ。もしかしたら献慈くん、こっちで長いこと暮らしとったりして、すっかり大人なってもうとってもおかしゅうないわけじゃん?」
献慈の胸がちくりと痛む。
ゆめみかんで澪に背中を押されていなければ、ここを訪れるのが後回しになっていたのは確実だ。それこそ何年後、下手をすれば何十年後になっていたかもしれない。
加えて、献慈の意志とは別の要因もある。
ユードナシアとトゥーラモンド――両世界の時間軸が並行ではないと考えられる以上、マレビトがどの時代に流れ落とされるかは完全な運任せだ。
もし献慈がもう少し後の時代に現れていたら。
あるいは献慈と馨の〝順番〟が逆であったなら。
「そう……かもしれません。俺は――」
献慈は、自分がトゥーラモンドを訪れてから半年足らずであることを告げた。そして澪の理解と協力の下、このパタグレアへとやって来られたことも。
じっと耳を傾けるラリッサの後ろで、ノックとともに部屋の扉が開く。
「お待たせいたしました」
ハーディが、メイドを連れて入室する。
眼鏡をかけたメイドは立派な体格をしたクマびとで、手には細長い袋を携えていた。
「まずはこちらを」ハーディが封筒を手渡す。「馨様から、入山様へ宛てられた書簡にございます」
「真田さんから……」
献慈は慎重にそれを受け取った。
続けてメイドが、袋を両手で捧げ持つ。
「大奥様の形見の品でございます」
「同じく、お渡しするよう仰せつかっております」
ハーディの目配せに応じ、メイドは紐を解き、袋の口からその中身を覗かせた。
白鞘に収められた、一振りの刀。
「馨様はここパタグレアで烈士としての半生を歩まれ、数多の民を、弱者を救うためその身を尽くされました。この刀は馨様とともに戦い抜いた愛刀、その名を――澪標天玲」
(澪標……)
献慈が振り返るよりも早く、橘の香りが鼻を掠める。
一旦袋ごと受け取った刀を、献慈はすぐ横の澪に預けた。
「……私が見ても?」
「刀の扱いは澪姉のほうがずっと慣れてるし。だから、一緒に見てみよう」
「うん」
澪はゆっくりと刀を引き抜いた。
「綺麗……」
ラリッサが感嘆の声を漏らす。
なるほど、見事な業物であった。
巳九尼流の剣勢を表すかのように重ねはやや厚く取られ、刃先に描かれた濤乱の刃文は荒々しくも幽玄な趣を湛えている。
刀身全体に宿した淡く冷涼な水色の光は、仇敵の手中にある〝あの霊剣〟と同系の力であろうか。
「こんなに素晴らしいものを、本当に俺たちが受け取ってしまっていいんでしょうか?」
「いかようにでもお使いくだされば。それが馨様のご遺志にございますゆえ」
ハーディはメイドとともに一礼し、再び退室していった。
霊刀を仕舞う傍ら、献慈の脳裏に浮かんだのは、
(この刀ならば、ヨハネスが持つドナーシュタールにも対抗できるかもしれない)
という一つの打算と、
(真田さんが、俺の……俺たちの運命をつないでくれている……?)
それを上回る大きな感情だった。
「ラリッサさん」
「何ね?」
「実は俺たち、近いうちに大事な戦いに臨まなければならなくて、心残りがないようにとここまでやって来たんですけど」
「うん」
「その戦いに勝つため、この刀――澪標を使いたいと言ったら、お祖母さんは許してくれると思いますか?」
「ほうじゃねぇ……」
ラリッサの言葉を引き継ぐように、
「それは馨さんに訊いてみないと――でしょ?」
澪はそう言って、献慈に小柄をそっと渡してきた。
「……そうか……そうだよね」
献慈は小柄を借り、先に受け取っていた手紙の封を切る。
(大丈夫だ。俺は、落ち着いてる)
前略
伝えたいことがあふれてきて、なかなかまとまりません。
(日本語だ……)
便箋から目を離し、左右を窺う。
澪はうつむき気味に顔を逸らし、ラリッサは体はこちらを向けているものの、視線は横を見たまま指で髪をいじっている。
(…………)
ここへたどり着くまで、きっと苦労したよね。それともすんなり来れたのかな。
今のあなたはも――
(……あっ)
便箋の間から、滑り落ちようとする何かを咄嗟に手ですくう。
白黒の、古い写真。
(――真田さん)
年の頃は二十代半ば、いや前半ぐらいだろうか。写真の中の彼女は、あの日と同じように微笑んでいた。
「……やっぱ……あとに、する」
写真と一緒に便箋を封筒へ戻そうとするが、なぜだか上手くいかない。
そうだ、畳むのを忘れていたのだ――そんな簡単なことに気づく前に、献慈はそばにあったキャビネットの上へ、半ば放り出すように手紙を置いた。
(俺、何してんだっけ? いや違うだろ、俺は落ち着いてるだろ……何しに来て……読めばいいだけで……だから、もう割り切ってるから大丈夫で……)
よろめく体を引きずって、中庭の方を向いた献慈の背中越しに、
「……『――たどり着くまで、きっと苦労したよね。それともすんなり来れたのかな』」
(……えっ……?)
聞こえるはずのない、あの人にとてもよく似た声が、手紙の文面を語り聞かせる。
今のあなたはもう大人? もしかすると、すっかりおじいちゃんになっていたりして。
私にはもう確かめるすべはないけれど、私の知っている入山くんが、あなたの中から失われていなければいいな。
あなたの気持ちには何となく気づいていました。……もし勘違いだったらごめんね。
想われることの幸せを知れたのは、あなたと、夫のおかげです。
あなたのくれた優しさを支えに、前に進めたからこそ、私は素敵な仲間を、家族を得ることができました。
願わくばあなたにとって私の存在が、あなたを過去に縛りつけるものではなく、未来へと背中を押してあげられる存在でありますように。
私にとっての入山くんがそうであったように。
もう会えないのは残念だけれど、私はいつでもあなたの幸せを祈っています。
かしこ
「(……違うんだよ、真田さん……俺は……)俺は……何も、してない……」
読み手の方をゆっくりと振り返る。
歪みかけた献慈の視界に、手紙を広げ持つラリッサの、ぐしゃぐしゃにそぼ濡れた顔が飛び込んできた。
「いいから……献、慈……」
裏返りそうな声をすすり上げながら、澪が両肩に覆いかぶさってくる。
「…………」
そうだ。
これはただの、もらい泣き。
何も恥ずかしがる必要なんてないのだ。




