第47話 澪標(1)
明けて翌朝。
食堂でチーズ入りのパンとコーヒー、南国フルーツを腹八分目に詰め込んだふたりは、ホテルをあとにした。
地図を頼りに、なるべく人通りの多い表通りをたどっていく。
いかにも観光地らしく、行き交う人々の格好はそれぞれのお国柄を反映している。
布面積を切り詰めた袍。刺繍の施されたサマードレス。極彩色の貫頭衣。装飾を散りばめたカラシリス。この場にあっては澪の着物姿も、さんざめく花園に彩りを添える一輪の花となる。
人種の多様性も、かつて訪れたナコイの港町以上だった。
ヤシに似たまばらな街路樹の木陰で、エルフとヤギびとのカップルが寄り添っている。
カフェのテラス席では、学生とおぼしきグループが談笑していた。ウサギびとに、鬼人に、イヌびとが二人、仲睦まじく。
たった今、自転車に乗って横を通り過ぎて行ったのは水虎ではなかったか。
献慈を取り囲む三六〇度、さながらゆめみかんの拡張版とでもいうべき風景が広がっていた。
ここパタグレアの首都・エイラズーにあっては、それが日常なのだ。
「ちょっと献慈、キョロキョロしすぎ」
口を尖らせ、澪は悪戯っぽく笑う。膨らんだ頬にほんのり赤みが差しているのは、きっと暑さのせいだ。
「ごめん。陽が昇らないうちに急ごう」
薄物の袖を翻す澪を追いかけ、献慈も歩調を速めた。
異国の街並みに不案内な献慈にも、そこが高級住宅街と呼ばれる区画であろうことはすぐに窺い知れた。
淡い色彩の板石がモザイク状に敷き詰められた石畳の路上には、雑草の一本すら見当たらず、ましてやゴミの存在など皆無である。
一軒を通り過ぎるのに数十歩を要する民家の庭先には、ランタナやブーゲンビリアの花が色鮮やかに咲き誇っている。
目にするものすべてに住民たちの細やかな手入れが行き届いている、そんな印象だ。
それでいて、たとえばユェンの邸宅のような、気後れしそうな緊張感とも無縁だった。いかめしい門番や牙を剥く番犬の姿はここにはない。
辺りを包み上げる穏やかな風に乗って、郷愁を呼び覚ますガットギターの音色が遠くから運ばれてくる。
懐中時計の針が逆L字を示そうとする頃、献慈たちは足を止めた。
「一緒に来てよかったでしょ?」と、澪。
「おっしゃるとおりです」
方向音痴で地図もろくに読めない献慈がここまでスムーズに事を進められたのは、紛れもなく彼女の助けがあってこそだ。
門を抜けたマシャド家の玄関先に、ふたりは立っていた。
(これ……でいいんだよな?)
壁掛けの呼び鈴をおそるおそる鳴らしてみる。五秒と待たずにドアが開く。
「はい、どちら様でございましょうか」
カマーベストに蝶ネクタイを身に着けた、リコルヌの老紳士だった。
献慈は持っていた封筒を紳士に手渡す。
「突然すみません。お屋敷がこちらだと、ジオゴさんから伺った者でして」
「旦那様のお知り合いの方でしたか……おぉ、イムガイからお越しで」
その場で手紙に目を通していた老紳士だったが、
「はい。自分は真田馨さんの……旧友で、入山献慈といいます」
献慈の名を耳にした途端、わずかに表情をこわばらせた。
「――失礼。今、何と……?」
「(やばい! めっちゃ警戒されてる!)え、いっ、イリヤマ・ケンジ――」
「お待ち申し上げておりました」
紳士は、これ以上ないほどの深々としたお辞儀を返してきた。
あまりのことにきょとんとする献慈に代わって、澪が対応する。
「もしかして、ユェンさんから連絡がありました?」
「申屠様ではございません。大奥様――馨様が遺された伝言でございます。入山献慈様、貴方様を丁重にお迎えするようにと」
「……俺を……?」
「申し遅れました。わたくしはバークレイ・ジェイムズ・ハーディ――当家の執事にございます。あいにく奥様、お坊ちゃま、ともに留守でいらっしゃいますゆえ――」
執事が献慈たちを招き入れようとした矢先のことだった。
「うちもおるけぇね!」
出し抜けに、屋内から声がかかる。
執事の背後から姿を見せた声の主――サイドに結ったストロベリーブロンドの髪を揺らし駆け寄って来たのは、褐色の肌をした少女であった。
アイラインを強調したきらびやかなメイク、しなやかな体つきに、すらりと伸びた脚を引き立てる洒落たファッションもさることながら、
(こんな所にギャル!? いや、そんなことより……)
刮目すべきは別のところにあった。くりくりとした大きな瞳でこちらを窺う彼女の両手には、どういうわけか一対の斧が握られていたからだ。
「ラリッサお嬢様、ちょうどよいところへ。こちらの方々は馨様のご友人……」
(斧に気をつけてぇ――ッ!!)
献慈の怯えをよそに、執事は手慣れた様子で斧を預り受ける。
詰め寄ってきたラリッサ嬢の声色は興奮に上ずっていた。
「聞こえとったよ! あんたが……あんたが献慈くんなんね!?」
「あ……はい。たしかに俺が入山献慈ですけど……」
「うわぁ~、ほんまに会えたぁ! ぶち嬉しいっ!」
熱烈なハグが献慈を襲う。情熱的なお国柄のせいか、はたまたこの娘自身の性質がなせる業なのか。
(何なんだ……俺はギャルに組み付かれる呪いにでもかかってんのか……!?)
献慈が思わず身をよじったのを拒絶と受け取ったか、ラリッサが抱擁の手を緩める。
「ゴメンなぁ、今トレーニングしよったけぇ。汗臭かって?」
不快であるはずがない。鼻孔をくすぐる甘い芳香に、献慈はついつい惹き寄せられさえしていた。
「いえ、とんでもないです。むしろいい匂……じゃなっ、ばっ、バニラのやうなかほりといひませうか……」
「あ、わかって? うちアロマの勉強しとるんよ。昔ばぁばにポプリの作り方とか教えてもろうたんきっかけでなー……」
ラリッサ嬢は両手で献慈の両手首をがっちりとホールドしたまま、お互いの鼻先が触れ合いそうな距離で語り始めた。
(運動後にしては手がひんやりしてるなぁ。体温低いのかな、澪姉と比――あ!)
「あのー……私もここ、いるんですけど?」
背後から、澪が冷ややかなトーンで自身の存在を主張する。
その行為が直後、自分に何をもたらすのかも知らずに。
「あー、いけんね。ほったらかしにしてもうてゴメンなー」
「べつに謝ら――ぁはっ!?」
雷にでも打たれたかのような澪の表情が、見る間に紅潮してゆく。
まさに電光石火、ラリッサの抱擁は澪を捕獲完了させていた。しかも、左右の頬にキスのおまけ付きだ。
「献慈くんの彼女さん? 髪もお肌も綺麗なし、着物も素敵なわぁ」
「あぅ……あなたも、す、素敵だと……思ぅ」
すっかりしおらしくなった澪に、
「えー、ほんまぁ? ありがとう」
ラリッサは満面の笑みを返すとともに、すかさずハグをおかわりした。
「ほっほっほ……お連れ様はすっかり気に入られたようですな」
柔和なハーディの表情が、ラリッサお嬢様の常態を物語る。
「う~ん、お姉さんもええ匂いしとってじゃ~」
「ひょえ~」
(立場、逆転してるな……)
いつもはカミーユや絵馬を愛で倒している、澪の物珍しい姿に、献慈は我知らず目を細めるのだった。




