第46話 流れ落つる水簾(3)
黒塗りの馬車は港を後に、街道を進む。
御者を務めるユェンの部下を除いて乗客は三人――献慈と澪は隣り合わせに、そしてもう一人が対面に座っていた。
「何であなたまでついて来るの?」
毒づく澪の視線を、永年が軽く受け流す。
「べつにええやん。ワシも近くに用があんねん」
「現地妻に会いに行くねやろ」――出発前、永和が呆れたようにつぶやいていたのを、献慈は聞かなかったふりをする。余計な波風は立てぬに越したことはない。
だが隠し事というものは得てして人を不自然に饒舌にするものだ。
「そ、それにしてもびっくりしたな~。ユェンさんが急に戦いを仕掛けてきた時は、どうなることかとびっくりしたな~。〈追影剣〉だっけ? あんな技見たことも聞いたこともなかったから、びっくりしたな~」
「自分、何回びっくりすんねん。おちょくっとんか」
永年に限らず、央土の人間は語勢が強めだ。しばしば怒っているかのように受け取られがちだが、この場合の「おちょくっとんか」も、実は親しみを込めた呼びかけなのである。
――と、思いたい献慈であった。
「あっ、いえ、そのォ~……すいません」
「いや、ええけどや。献慈くんが怖がるんもしゃあないわ。正直、老師が本気出したらあの場におった全員で相手しても二秒持たん思うし」
(二秒……)
言葉を失ったまま献慈は澪の方を窺うが、うなずき返されただけで異論も反論もなかったのは、そういうことなのだろう。
「……二十年くらい前や。〝瑶山五星〟ゆうてな、武林にその名を轟かせた五人の剣士がおってん。老師はそのうちの一人やねん」
(ヨウザン……ゴセイ……)
つい最近、ライナーの口からその単語を耳にしていた。献慈は記憶の糸をたどる。同じく考え込んでいた澪が、はたと膝を打った。
「央土出身の極星烈士に〝瑶山派〟の剣士がいたはず」
「さすがに勉強しとるなぁ。当代の極星に名を連ねる〝鉄翅玉女〟こと楊星露――老師の姉弟子にあたるお人や」
今を遡ること四十年前、鄒国不世出の剣聖と謳われた宋超星は、陰陽の理を武に落とし込んだ独自の剣術を生み出した。
これすなわち、天道追影剣。
陰の極み・追影剣。敵の回避動作を先回りし、無限に追撃を行う必中の剣。
陽の極み・天道剣。守勢に入った敵を、その防御ごと打ち砕く必殺の剣。
追影剣で退路を断ち、天道剣でとどめを刺す。この二つの剣技が、対となって用いられるべきものであることは、考えるまでもなく明白だ。
「老師はあないな体や、もはや〈天道剣〉は撃てん。そやさかい、〝瑶山五星〟としての『星心』の名は捨てて、今は本名の申屠媛を名乗っとる」
永年はおそらく、事実を語っている。片時も視線を外さずにいることが、納得を促していたのは間違いない。
だが同時に、本質を語ってもいない。かえってそう感じてしまうのは、献慈の思いすごしであろうか。
「で、結局のところ」澪が口を開く。「〝私たちに〟ユェンさんを会わせたかったの? それとも〝ユェンさんに〟私たちを会わせたかったの?」
「もちろん、両方や」永年は即答した。「ワシの勘違いやったら堪忍な。ふたりとも――とくに澪ちゃん、何かずっと気負いがある感じすんねん」
「私は……」
「あー、無理に言わいでもええ。わざわざ海渡ってパタグレアまで来るぐらいやし、そら事情の一つや二つあるっちゅう話や」
「…………」
永年が澪に感じるという「気負い」が、ヨハネス討伐への意気込みにあるのだとしたら、来訪の理由とは無関係だ。
それでも、気遣いがありがたいことに違いはない。
「少しは気ぃ楽んなればええ思たんや。余計なお世話かもしらんけどな」
「ううん……会ってみてよかったと思ってる。ユェンさん、私のお母さんにちょっと感じが似てたし」
「ほー。あの〝太刀花の君〟になぁ」
「……やっぱり知ってたかぁ」
「悪いな。気になって調べさしてもろたわ。事故で亡くならはったことも」
「事故」とは言ったものの、詳細に関して口にはしなかった。知らないのか、あるいは知っていながら黙っていたにせよ、かえって都合がいい。
「老師もな、旦那さん亡くされてはるんよ。生まれたばっかしの娘も行方知れずで……。今でも生きとったら、澪ちゃんと同い年ちゃうかな」
「……そうだったんだ」
澪が見やるのを、永年はばつが悪そうに顔を逸らす。
「あかんわ……ちぃと喋りすぎた」
「べつに。今さらでしょ?」
「そうかぁ。ほいじゃあ、話しついでにもういっこだけ……キミら、これからも烈士続けていくつもりやんな?」
「もっちろん」
「この先つるむ機会あったら、妹と弟とは仲良うしたってや」
しばらくして馬車が緩やかに停止した。
多少の凹凸はあるが端々までしっかりと舗装された道の両側に、レンガ造りの建物が並んでいる。
ぱっと見、人通りはない。どこかの裏通りのような雰囲気だが、事前の説明によれば、献慈たちの滞在先のホテルとは目と鼻の先のはずだ。
「着きましたよ」と、御者の声。
外からドアが開き、先に永年が馬車を降りる。
次に澪が――刀の柄に手をかけた。
「その必要はあらへん」
永年が言い終えると同時の出来事だった。
通りを挟んだ路地から、男がふらふらと迷い出てきたかと思うと、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
歩み寄って行く永年を、男の目が恨みがましく見据えている。
「ぐ……ユ、ァンの、弟子……か……」
「まだ喋れるんか。永和みたいに上手くはいかんなぁ」
永年は男の手からオペラグラスのようなものを奪い取り、素早く猿ぐつわを噛ませる。
献慈の目は捉えていた――ぐったりとした男の胸に、髪の毛ほどの極細い針が突き刺さって揺れているのを。
「いえ、見事なお手並みですよ」御者はそう言って、男を軽々と担ぎ上げる。「後のことは我々一家にお任せを……フフッ、今日は何かと客人の多い一日ですね」
まるで何事もなかったように、新しい乗客を乗せた馬車は走り去っていった。
呆然と立ち尽くす献慈を残して。
「あの……今連れてかれた人は、一体……?」
「近いうち新聞に載るんとちゃうかな。記事の内容はおおかた――」
「あっ、やっぱ言わなくていいです」
〝知らぬが仏〟が、別の意味での仏にならないことを祈るばかりであった。




