第45話 入れ違い(1)
あの時。
大きな黒水のうねりは、真田馨が去って行った体育館の方から押し寄せて来た。
馨が、あの場所に〝一緒にいた〟のだとすれば、献慈よりも先に彼女が巻き込まれたと考えるのが自然だ。
(どうして……思いつかなかったんだ……?)
先ほどから同じ思いが、心の中で堂々巡りを繰り返している。
馨もトゥーラモンドに来ている――正確には〝写し取られている〟――かもしれないと、その可能性を疑いもしなかった、己の愚かさが何度も悔やまれた。
無論、それがわかっていたとして、献慈も、馨も、どうなるわけでもない。どのみちマレビトは同時に一人だけしか存在を許されないのだから、直接彼女と再会する望みは無きに等しいのだ。
――美名子さんは気性も器量も天下の真田馨譲りですけぇの。
(確かにそう言ってた……気がする)
ジオゴの言葉を、もしくは自分の耳を疑う道もある。彼の奥方――「美名子さん」と言っていた――がマレビトの娘であると認めたうえで、それができればの話だが。
何より、確かめるだけの勇気が、献慈にはなかった。
ベッドに座り込んだまま、何度目とも知れぬため息を吐き出す。
(こんなことしてる場合じゃないのに――)
ドア越しに、ふと近づいてきた足音が、部屋の前で止んだ。聞き慣れたリズムのノック音が、声に先んじてその人物の正体を献慈に告げていた。
「もしもーし」ドア越しに澪が呼んでいる。「開けて大丈夫?」
「……いいよ」
上ずった返事が、どうにも空元気を隠しきれていない。気取られている。入室してきた澪の浮かない表情が物語っている。
「若蘭から」
「……何?」
「心配してたよ。献慈の様子が変だって」
差し出されたアメ玉を突き返すのは、今の気分からすれば最も楽な選択だ。ともあれ、その後に訪れる面倒なやり取りを考えれば、素直に受け取るのがベターだろう。
「……そっか」
つと伸ばした献慈の手を、澪の指が絡め取る。
「話してくれないんだ?」
「大したことじゃないから」
「ウソ」
「今言うことじゃないっていうか」
「ほら。言ってること変わってるし」
面倒からは逃れられなかったようだ。寄り添う尻の重みでベッドがきしむ。
「話してくれないなら、このアメ貰っちゃうから」
「どうぞ」
「う~ん……だったらさぁ」
「俺の話聞いてた?」
「勝負しよ? 私が腕相撲で勝ったら正直に話すってことで」
「俺が勝てるわけないだろ」
「それじゃあ、普通にお相撲で勝負するとか」
「そんなんもっとムリだって」
「めんどくさいなぁ」
(どっちがだよ……)
「じゃあこれ――私と献慈、どっちがお互いのこと好きかで勝負しよ?」
「……何だよそれ」
「んー? 自信ないのかなぁ?」
「そんなわけっ……あー、もう! わかったよ。話すからさ」
お手上げだった。どっちに転んでも、献慈は話さざるをえなかったのだから。
「『真田馨』さんって、言ってたの? ジオゴさんだけ? ほかの人は?」
澪は片時も献慈から目を逸らさずにいた。
「……ううん。だから、俺の聞き間違いかもしれないし」
顔を背けていたのは献慈のほうだ。だからこそ、立ち上がる澪を咄嗟には止められなかった。
「確かめて来る」
「いやっ、ジオゴさん、帰って来るの、夕方だって」
「そう。じゃあ帰って来てから訊く」
「知ったからって、どうなるわけでもないし」
「これは私が勝手にすることだから。献慈が知りたくないなら、私は黙ってるよ」
戸口に立つ澪の背中に、揺るがない意志を感じる。彼女が自分の望むよう振る舞ってくれるなどと考えるのは、ただの思い上がりだ。献慈は心底痛感しながらも、それが決していとわしい気持ちではないことに驚きをも覚えていた。
「どうして……そこまで」
「私ね、お母さん失って、引きこもって、いろいろあったでしょ? あの後しばらく、村のみんなからも腫れ物扱いされてたから……。だから、好きな人にはそういう態度とりたくないなぁって、思っただけ」
「こんな、意気地なしなんかのために?」
「献慈は意気地なしなんかじゃないよ」
まったく、敵わない。
「……俺が行くよ。だから……」
「ついて来るな、なんて言わないよね?」




