第41話 止めどなく(1)
一行がウスクーブの門をくぐったのは、その日の午後だった。
実のところ、烈士の身分にある者が町を出入りするのは容易い。『星辰戒指』によってあらかじめ身元が保証されているからだ。
一方の天狗たちは、それぞれ手形を持参していた。入手経路は不明ながら、すんなり通行が許されている以上、それが幕府により発行された正規の通行手形であるのは間違いない。
初めに六人は滞在場所として、宿酒場に部屋を取る。その後、澪とカミーユを中心に、食事やショッピングなど思い思いの散策ルートを提案しつつ、ひとまずは全員で市街地へ繰り出して行った。
ウスクーブの人口は、ナコイやキホダトの倍、およそ二十万ほどだ。献慈が今まで訪れた町の中では、最も規模が大きい。近代建築物がそこかしこに建ち並ぶ様に、都会の二文字を思い浮かべるのは難しくない。
通りを行き交う人々も洋風を取り入れたハイカラないでたちだ。詰襟の書生、セーラー服姿の女学生らもちらほらと見かける。彼らのうち半数は地元の生まれだが、首都を含む周辺の町から集まった者も多い。
肥沃な土壌を持つこの一帯には、古くから多くの人々が集まり、農耕を推し進めてきた。増加する人口を賄うべく、農学が発達するのは自然の流れだった。時代が下る中、かつての農学校は大学に移行昇格、教えられる学問も多くの分野へと広がりをみせる。
そして現在――誰が呼び始めたか、学究都市とはここウスクーブの別名として定着していた。
*
若者たちの集う、おしゃれなミルクホール。
窓際の席には、テーブルを挟んで見つめ合うふたりがある。
「…………」
神妙な顔つきのまま、口をもぐもぐさせる澪。咀嚼のリズムに合わせ、大きなリボンがかすかに揺れる。
「……どんな感じ?」
おずおずと献慈は反応を窺う。ふたりの間に置かれた帝国製の色鮮やかな陶磁器には、一口大のチョコレートがいくつも積まれていた。
「……ぅっ……ふえぇ……」
(なっ……泣いてる……っ!!)
「へぐっ……ふ、ふごく……おいひぃ……」
「お、美味しいんだ……よかったね」
ひとまず胸を撫で下ろす献慈に、澪は滂沱の涙を流しつつ、うんうんとしきりにうなずき返していた。
「ずるいぃ……ずるいよぉ、献慈ぃ! こんな美味しいお菓子、むこうじゃしょっちゅう食べてたとかぁっ! こっ……もぐもぐ……こんなにっ、甘くてぇ、外側がパリッとしてて……んぐ、まろやかで、中がトロ~ってしてて……はむっ……ちょっと苦いけど香ばしくてぇ、甘くて……むほぉぃしいのにぃ!」
「うん。わかるよ。すごく美味しいよね」
献慈は自らも遠慮がちにチョコをつまみながら、澪の熱い訴えに共感を示した。隣のテーブルにいる学生たちや、窓の外の道行くモボ・モガが奇異の目を向けてくるが、とりあえずは無視だ。
「献慈も……グスッ、もっと食べて? 一緒に食べようって話だったでしょ?」
多少は落ち着いたのだろうか。澪は涙と鼻水だらけの顔を拭っては、献慈にもチョコを食べるよう促した。
「一緒に……そんな約束したっけ?」
「約束まではいかないけど、でも言った! 私言ったからね? チョコ一緒に食べようって! 献慈はそうやってすぐ忘れるからぁ……」
「ごめん……でもさ」
「あ、話逸らした」
「ち、違うって。その……本当は澪姉、カミーユたちともっと洋服とか見て回りたかったんじゃないかなー、って思って」
目の前の澪は普段どおりの袴姿である。新調したばかりの上衣は、派手めのモダン柄を染め出した、巷で流行りの銘仙だ。
とても良く似合っている。
「……献慈は私といるのイヤなの?」
「そんなことないよ! そういう意味じゃ……なくてさ」
「じゃなくて?」
(俺なんかと一緒で――いや、やめよう)
献慈は、無意識に肩のサスペンダーをいじくる自分に気づいた。下ろしたての立襟シャツとズボンも合わせて、澪がウッキウキでコーディネートしてくれた洋服だ。
「……もしかして私のお洋服姿、見たかったとか……?」
「ん……あぁ、たしかに。それは見てみたい」
はにかんで見つめる澪の表情が一層輝いた。
「献慈、今言ったね? 言ったよね? 今度はちゃんと憶えといてね?」
「あっ、うん。楽しみにしてるよ」
「わかった。待っててねー、可愛いお洋服着れるよう、また〝だいえっと〟するから……明日から」
再び勢いよくチョコを頬張りだす澪を見て献慈は、
(……これは気長に待ったほうがいいな)
そう確信した。
*
ミルクホールを後にしてしばらく、夕食までの時間を散策に費やす。今し方摂取したカロリーの消費をもくろむ、澪主導の選択である。
「俺は構わないよ。じゃ、こっち回り道して帰ろっか」
「うん……あ」
沿道に停まった大学イモの屋台が、澪の別腹を誘惑していた。
「や、やっぱ逆方向――」
「いい。早く行こ」
甘美な蜜の匂いから逃げるように、ふたりは早足で通り過ぎる。
「……それにしてもカミーユたち、二人だけで大丈夫かな」
「献慈ってば、またカミーユのことばっかり」
「ち、違うって。どちらかといえば絵馬の身が心配というか……」
「それは言えてるかも。何だかんだ約束の時間までには戻って来るでしょうけど」
カタン、コトンと音を立てながら、路面鉄道の車両がふたりの足を追い越していった。案内板によれば、線路の先は学生街へと続いている。
「夕食は四人だけになるのかなぁ。ライナーさんたち、あの調子だと今日は帰って来そうもないし」
「そっちはいいんじゃない? 二人とも大人なんだし、野暮は言いっこなしだよ」
「うん……そうだね」
「……どうかした? やっぱり鉄道乗って帰る?」
「いや……いい。歩こう」
献慈の足は無意識に早まっていた。にもかかわらず、澪はぴったりと寄り添いながら、斜め上から覗き込んでくる。
「そういう態度、余計に気になるんですけど?」
「ちょっと思い出してただけだよ。昔のこと――」
献慈が澪に語って聞かせたのは、中学の修学旅行先での出来事だった。路面電車での、これまたほろ苦い思い出だ。
「――ってな感じ。情けない話だよ。寝不足で乗り物酔いとかさ」
「それは周りがお子様だよー。私だったら献慈の体調心配するけどなぁ……馨さんみたいに」
「うん……え? な、何でわかったの!?」
「だってぇ、わざわざ『友だちの女子』とかぁ! ほとんど言ってるようなものでしょ?」
勝ち誇った笑みが向けられる。不快でなどもちろんない。
「はぁ……澪姉にはホント敵わないよ」
「ふふーん。でも面白いね。学校のみんなで旅行とか行くんだ?」
「ん、まぁ学校っていってもいろいろでさ……」
とりとめのない会話に興じるのも悪くはないものだ。
線路の向こうに大きな西洋風の建物が見える。町のシンボル、ウケハリ大学だ。その名称はウスクーブの氏神である豊穣神・【祈玻璃比売神】からきている。農学のみならず、周辺のあらゆる知が集結する場所だ。
大学には、大都市の図書館にも引けを取らない図書施設もある。あのまま何事もなく旅が続いていたならば、きっと献慈たちもユードナシアへの手がかりを調べに訪れていたことだろう。
「――懐かしいな、何だか」
献慈とそう変わらぬ年格好をした学生たちが、あるいは徒歩、あるいは自転車で、長くなった影を引きずっている。寮や下宿先へ帰る途中だろうか。
「学校、また通いたくなった?」
「まさか。どっちかっていうと勉強嫌いなほうだし。自慢じゃないけど俺、落第までやらかしてるからね?」
自虐がどこか空回りしている感じがした。夕暮れ時で感傷的になっているだけだ、と自分に言い訳をしてみる。
「それ言ったら私だって……」
「……あぁ、ごめん」
「ううん、多分そっちの話じゃなくて……やっぱり少し関係あるかも。実は私ね、一年ぐらい家に引きこもってた時期があるんだ」
あっけらかんとした口ぶりながら、澪の目はこちらを向いていない。それがいつ頃の出来事なのかは、献慈にも見当はついた。
「……そっか」
「驚かないんだ。もしかして誰かから聞いてた?」
「いや、初耳」
「そ。私さ、お母さん失ってから、ずっとふて腐れて部屋に閉じこもってたの。誰にも会いたくない、話したくないって……それでもあの三人――千里たちだけは毎日必要なものいろいろ買って来てくれたり、みんなの近況とかお手紙くれたりして……」
「親友なんだね」
「うん。それからお父さんにも、いっぱい迷惑かけちゃった。お父さんだって、私以上につらかったはずなのに……あー、ダメ。また後ろ向きになっちゃう」
うなだれかかる澪の前へ、献慈は回り込む。
「いいって。今さら遠慮なんか要らないよ。澪姉が話してくれるんだったら俺、愚痴でも文句でも全部受け止めるからさ」
「……あ~っ! もうっ! 結局こうなるからぁ!」
澪は顔を両手で覆うと、そのまましゃがみ込んでしまった。
「え!? だ、大丈夫?」
「私のほうが年上なのにぃ……いっつも私のほうが献慈に甘えてる気がするぅ……」
「そ、そうかな? 俺、けっこう澪姉に頼りっきりな気がするけど」
「……へ、へー。そっかなーぁ」
口元は隠したまま、澪はゆっくりと体を起こす。その正面に立ちながら、献慈は己の内に燻っていた思いをまざまざと自覚する。
いま口にするべきか、否か。
「澪姉は……」言い淀むも、止めようがない。「俺のために、無理してるとかじゃないんだよね……?」
「……どういう意味?」眉尻を下げて見つめる、澪。
「俺が、帰る場所がないから、かわいそうだから、とか……同情の気持ちで付き合ってるんだとしたら、申し訳ないかなぁとか……」
ほんの数日前、あれほど大胆に告白をした入山献慈の姿は、もうここにはなかった。あの時のテンションと勢いは、とうに失われている。
「……はぁー。ずいぶん見くびられたもんだなぁー」澪はついと視線を外し、「って、私も悪いんだけどさ。ちゃんと……伝えてなかったから」また正面へと戻す。
「澪――」
気がつくと、献慈の体を温もりが包み込んでいた。睫毛が触れるほど間近に、澪の首筋がある。柔らかい後れ毛が頬を撫で、ほのかに漂うミルクにも似た安らぎの匂いが鼻孔をくすぐる。
背中を、肩を這う、たおやかな指先の力加減が、紡がれる言葉を追い越して、克明にその想いを告げていた。
「好き」
囁く声が、耳の裏側でびりりと反響する。
「…………」
「好きだよ、献慈」
揺れている。自分なのか、相手なのか、高鳴る鼓動のせいか、ままならない息づかいのせいなのか、あるいは――疑うまでもなく、その全部だ。
身体じゅうを、もの凄い速さで駆け巡っている血液が、通過するたびに、胸が甘く疼いた。それは己を肯定されることへの、痛みにも近しい愉悦であった。
「……みおねえ――っ」
震える声で、舌足らずに口走る。愛しい人をその腕でかき抱く。大きく、頼もしく見えた身体。それが今は、こんなにも細く、柔らかい。止めどなくあふれ出る愛おしさに、息もできない。まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。
「…………」
「……好き」
「うん……」
「献慈……大好き」
「……うん」
幸せが身を包む、永遠とも、一瞬とも思える時間だった。
頭上でちかちかと、街灯が明滅する。夕闇を照らす淡い光の中で、献慈はふっと夢から醒めるような心地がした。
「帰ろっか」
遠慮がちに伸ばされた澪の指先が、献慈の手の甲をしっとりと潤した。




