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閑話 山田花子とモブ眼鏡Ⅱ

 新学期二日目。

 あれだけ行きたくなかった学校に行くのが待ち遠しく思えた。

 爺はにこにこと満面の笑みで背中を押して送り出してくれ、京香さんは始終何か気持ち悪い物を見るかのような顔をしていた。

 だがしかし…。

 人との接触を極力避けようとしているようにみえる七瀬君は、モーニングホームルームの五分前に登校してきた。

 ほぼすべてのクラスメイトが集まっている教室内で声をかけるのは気恥ずかしく、小声で「お、おはよう」と言ったものの、七瀬君は気づいていないようでいつもの我関せずモードに入ってしまった。

 授業が始まると、頭の良くないわたしは着いていくのでもう精一杯。

 七瀬君ともっと仲良くなりたいけど、そんなことを考える余裕がないほどAクラスの学校生活はとにかくハードだった。

 長いような、短いような三限が終わると、激動の授業の余韻に浸っていたわたしは、隣でもう食べ終わったお弁当箱を鞄にしまって立ち上がる七瀬君に気がついた。


「あっ」

 どうしよう。七瀬君が行っちゃう。なにか話さなきゃ…。



 走る衝撃。そこら中に散らばるガラス片。そして遅れて着いて来る音と漠然とした恐怖の感情。

「きゃぁぁぁぁ」

 喉奥から(はし)る声は、窓ガラスを突き破って目の前に現れた狼に吸い込まれて、さらに数十倍迫力を増した咆哮が返ってきた。

 目の前の獣がなんなのか考える余裕なんてなかった。

 頭を占める感情は恐怖と生存欲求だけ。

 どうしよう。なんとかしなきゃ。逃げなきゃ。死にたくない。


「――ッ」

 黒い影を纏う狼が大口を開けて空気を吸い込んだのを見て、わたしは刹那の先に訪れる自分の運命を悟った。

 あ、わたし、しんだ。




「山田さん!」

 それは誰の声なのか。そんなことを考える余裕もなく、小さな衝撃をともなって、瞬間に自分が冷たく硬い床と、熱く固い誰かの胸に挟まれているのを感じた。

「【風の障壁】」

 無言詠唱(サイレントスペル)で起動された風属性中位魔法のバリアが、その魔法起動の高度さに驚く暇もなくわたしの身体をすっぽりと覆い、降り注ぐ破片の全てから護った。


「――っあ…」

 ありがとうございます、と開きかけた口があんぐりと止まり、あまりの衝撃に自分を庇ってくれた相手をただただ見つめた。

 え、あ、あれ?な、七瀬君…だよね。

 助けてくれた時に外れたのか、いつも着けているあの野暮ったい黒縁眼鏡はどこにもなかった。

 爆風で乱れた長い前髪が持ち上がり、七瀬君の素顔が(あらわ)になる。

 あ、七瀬君、眼鏡が…。

 わたしを庇ってくれた時に落としたのか、ちょうど目の前に転がっている七瀬君の黒縁眼鏡を無意識に掴んだ。


「山田さん、立って!」

 七瀬君の叫び声に我に返ったわたしは、彼に手を引かれるまま立ち上がり教室の外へと走り出した。



「な、七瀬君…」

 いまだに堅く握られた手が熱い。

 前方に強く引っ張られる腕の付け根は痛く、必死に動かす足はすぐにもつれそうになる。

 なんだか恋愛小説みたいだ。

 ヒロインの危機に颯爽と現れ守ってくれるヒーロー。そして強引に手を引き走る道程。

「ぎゃふっ」

 そんな腑抜けたことを場違いにも甚だしい状況で考えていたことが仇となったのか、バランスを崩したわたしは生来のどん臭さを遺憾なく発揮して地べたに転がった。

 立ち上がろうと身を起こす目の端に捉えたのは、廊下の曲がり角から姿を現すあの狼。

 影のような瘴気を身にまとう獣――シャドーだ。

 教科書で読んだことがある。闇の魔法使いに操られた魔法生物だ。

「山田さん、大丈夫か!」

 焦ったように頭上から降ってくる声に身を固くする。

 わたしのせいで、逃げ切るチャンスをふいにしてしまった。

 せめて七瀬君だけでも――

「な、七瀬君、わ、わたしを置いて、逃げて!」

「NPCのくせに、攻略対象(ヒロイン)の台詞取るんじゃねぇよ」

 わたしの叫びに眉を(ひそ)めた七瀬君はなんだかよくわからないことを言った。

 え。わたし怒られたの?なんで?

 混乱するわたしを尻目に、七瀬君は蹲るわたしと迫る狼の間に立った。


「さて、犬っころ。俺の練習台になってもらおうか」

 え。かっこいい。じゃなくて、でもでも待って。逃げてよ七瀬君!

「【石の杭】」

 またもや無言詠唱(サイレントスペル)で起動された――()()()()下位魔法が狼の四方から突き刺さる。

 え、ちょっと待って。土属性ってわたしの属性だよね。七瀬君は火属性のはず…。なんで七瀬君は土属性も使えるの?それにさっきも風属性の魔法を使っていたし…。しかも詠唱を省略する高等技術である『無言詠唱(サイレントスペル)』も使ってるし…。えええ?


「まあいい。斃れなければもう一度やるだけだ――【石の杭】」

 大混乱するしかないわたしを置き去りにして、七瀬君はあのシャドーをあっさりと倒してしまった。

 その瞬間になにか身体が暖かなもので包まれた気がするが、次々と降りかかってくる混乱にどうでもよくなってしまった。

「な、七瀬君…。あれ?七瀬君の属性って火じゃなかったっけ…?」

 思わず口をついて出た問いに七瀬君は答えず、こちらを見た。

「ほら、怪我見せてみろ」

 はっとすると、じんじんと痛む膝の感覚が蘇ってきた。

 左の膝に軽いかすり傷を負っていた。

 気がつかなかった。

 よく七瀬君は気がついたな。わたしは言われるまで気がつかなかったのに…。

 なんだか頬が赤くなって、七瀬君を直視できない。


「【治癒】」

 突然七瀬君の手がわたしの左膝に置かれ、驚く間もなく柔らかな光が痛みを消した。

「えっ…えっ?あれ?あれれ?ちょっ、七瀬君、これ、光属性魔法だよね?嘘…」

 千人に一人しか存在しない光属性までも使えるなんて…。七瀬君って一体何者なんですか⁉


「いや、ええと…。俺、実は七つ全ての属性を使えるんだ。ただし中位魔法までだけど」

 わたしの視線を避けるように顔を背けると、七瀬君はそう言った。

「え?え、ええええ⁉」

 七つ全ての属性!そんなのって…!

「凄いです、七瀬君!凄過ぎです!」

 誰もが知っている御伽噺。エレメンタルマスター。

 遥か昔、世界が闇に覆われたとき、闇も光も全てを制した全属性の魔法使いが世界の闇を払ったという。

 もしかして彼はその再来なんだろうか。

「止めてくれよ、山田さん。俺はそんな大層な人じゃない。それよりも、ここを脱出しよう。いつまたシャドーに襲われるか分からない」

「は、はいっ」

 気怠そうに(かぶり)を振って立ち上がる七瀬君にわたしも慌てて立ち上がる。


「な、七瀬君…」

 薄く開いた唇から零れるのは、彼に届くことのない小さなため息。

 わたしの心は完全に七瀬君に奪われてしまった。

 ――京香さん、疑ってごめんなさい。京香さんのおまじないは本当でした。かっこいい白馬のエレメンタルマスターがわたしを救ってくれました。




 ―――――




「山田さん、早く走れ!」

 よろめいたわたしの手を七瀬君はしっかりと握りしめてくれる。

 後ろには迫りくるシャドー。

 かなりピンチな状況なのに、痛いほど握りしめられた手首にときめいてしまうのはわたしの頭がポンコツだからだろう。


「クソッ!」

 突然、前方からシャドーが飛び出してきて、わたしたちの足は止まる。

「山田さん、伏せろっ――【炎の盾】」

 咄嗟に放たれた七瀬君の言葉にあわてて伏せるも、頭上からは苦し気な(うめ)き声が聞こえてはっとした。

「な、七瀬君!」

 怪物に向かって突き出された右腕は赤く焼け(ただ)れ、七瀬君は一瞬ふらついた。

 ――どうしよう!

 瞬間に頭が真っ白くなった。

 わたしはなにもできないポンコツだ。皆が至極簡単に使える護身魔法でさえ、わたしは何一つ扱うことができない。

 どうしよう。誰か助けて。七瀬君が死んじゃう!



「彼の者の業を糧に裁きの炎が下される【業火ノ戦鎚】」

 どこかで聞き覚えのある怜悧な声が、迫りくるシャドーたちを押しつぶす圧倒的な熱量と共に放たれた。

「えっ…」

 振り返ると、そこにいたのは炎を体現するかのような容姿と勝気な赤目を持った美少女――三年生の天海(あまみ)炎華(えんか)先輩だった。

 助かった…。

 全国でもトップクラスの第一魔法高校。その中でも一握りの実力者である天海先輩は在学中にも関わらず、多くの大学、機関からスカウトが来るほどの才媛だ。

 家柄も古くから続く良家だし、容姿端麗だ。しかもその快活でさっぱりした性格から彼女を支持する人は数多い。

 同じ女性として純粋に憧れる。だって全てが全部、私と大違いなんだもん。

 何事も鈍臭いわたし。全てにおいて秀でている天海先輩。

 凡庸でなんの特徴もない見た目のわたし。容姿端麗でプロポーションも兼ね備えた完璧な天海先輩。

 そんな天海先輩が七瀬君に話しかけ、傷の手当てをしている様を見て、思わず心に(くら)い火がちらりと灯るのを感じた。

 天海先輩が七瀬君に話しかけるが、七瀬君は(うつむ)いて黙ったまま何も話さない。

 再び長い前髪で隠された顔をよく見ると、(ほの)かに赤くなっている。

 何か気に入らない。

 そりゃあスタイルもよくて美人な先輩に羞恥心を抱くのは同じ女の子としても理解できるし、男の子だったらなおさらだろう。

 それでも七瀬君が天海先輩に照れるなんて…すーっごく気に入らない。


「あっ、あの…七瀬君はシャドーと戦って疲れているんじゃないかなぁって…」

「まぁ、いっか。ここで立ち話もなんだし、早く皆と合流するか。行くぞ」

 わたしの言葉に頷いた彼女は身を翻して歩き出した。



 先輩たちを先頭にしばらく歩いていると、少し前を黙々と歩く七瀬君にたまらず声をかけた。

「あっ、あの…七瀬君、大丈夫?」

「ああ」

 返ってきたのはいつもと同じそっけない声。

 それでもすこし嬉しくて、でも心配で。

「ええと、な、七瀬君…。た、助けてくれて、あ、ありがとう」

 すると、数歩前を歩いていた七瀬君がこちらを振り返り、わたしの目をまっすぐに見た。

 え、ちょっ、まって…!

 何にも遮られることのない彼の端正な顔がわたしに相対し、その茶色い双眸がわたしに注がれるのを感じて、思わず頬が上気した。

 七瀬君は軽く溜息をつくと、少し立ち止まってわたしの小さな歩調に合わせてすぐ隣を歩き出した。

「俺が花子を庇ったのは咄嗟に身体が動いただけだし、クラスメイトを守るのは当然だろ。それに、先輩が来なければ危なかった。その言葉は俺じゃなくて先輩に言ってくれ」


 七瀬君はいつも自分を卑下するところがある。それでも、そんなことはないよと彼に言いたい。

「ううん、やっぱり七瀬君はすごいよ」

 だって、わたしにとって七瀬君は憧れだし、白馬のエレメンタルマスターだもん!

 んー?…というか、さっき七瀬君、わたしのこと「花子」って名前で呼ばなかった?しかも呼び捨てで。

 ええええええ!

「あっ…」

 一瞬立ち止まっていたら、七瀬君は先に進んでいて、わたしは先程よりも軽い足取りで七瀬君の隣まで駆けた。


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