10. わたしはヒロインになれない
「っはぁ、っはぁ、はぁあっ」
薄暗い迷宮を駆ける。
無我夢中で走った。
息は切れ、心臓の鼓動が胸を激しく叩き、脚はパンパンだ。
それでもなお足が止まらないのは、後ろから漂ってくる死の恐怖のせいだろうか。
「だ、っだれか…だれかっ、いませんかっ」
肺に残っている空気をありったけ使って、叫ぶ。
無駄だ。
誰もいるわけがない。
学校が所有する迷宮とはいえ、その一階層は広く、迷宮学の実習に来ているチームは互いに被らないよう事前にルートが組まれている。
しかも指導員ではないわたしは地図を持っていない上に、他のチームの動向はわからない。
助けは期待できない。
だからわたしは壁に設置された魔力灯が指し示す出口を目指して走ることしかできないのだ。
頭を巡るのはつい数分前に起こった出来事。恐怖。拒絶。逃避。そして後悔。
――早く行けっ!
――この、役立たずが!早く行けよクソ野郎!早くここから消えろよ‼
突き飛ばされ、七瀬君から放たれた激しい拒絶の言葉に、わたしは頭が真っ白になって、気がつけば迷宮の中を当てもなく走り惑っていた。
いくらか冷静になった今ならわかる。
七瀬君はわたしを庇ってくれたのだ。
あの、理解の及ばない恐怖を体現した存在から。
わたしたちを庇ってくれた指導員さんは――恐らくあの化け物に殺された。
そして、打つ手がなくなったわたしを、七瀬君は庇った。
今頃七瀬君は――
そこまで考えて、喉元に酸っぱいものがこみ上げてきて、思わずわたしは頭を振った。
大丈夫。きっと、大丈夫。七瀬君は大丈夫。
七瀬君は白馬のエレメンタルマスター。
化け物なんかに負けるはずがない。
そんなことを考えていなければ正気を保てなかった。
知っている。彼はただの高校生なんだって。
知っている。敵は学校を襲撃した恐ろしい闇の帝王の配下なんだって。
知っている。わたしは何の力もない、何事も成せない人なんだって。
知っている。知っている。知っている。
だけどわたしは走るのだ。
七瀬君はまだ生きている。そう、信じている。
だから、まだ間に合う。
誰でもいい。彼を救うことができる人。
その誰かを求めて、わたしはひたすら迷宮を走った。
だんだんと迷宮の出口に近づいてきた。
前方に、薄ぼんやりと壁を照らす魔力灯を被せる様に眩い魔法光が見えて、わたしは目を見張った。
「にしても光属性の魔法って本当に便利だよなぁ。薄暗い迷宮でもはっきり見えるし、迷わなくて済むし」
「しかも、擦り傷だって一瞬で治っちゃうなんて、輝聖君ってすごいよねぇ」
この切羽詰まった状況に似つかわしくない談笑とともに、実習の帰りであろう一団が歩いてきた。
――助かった!
「ま、待ってくだっ、さい…。だ、だれかっ、七瀬君が…この先にっ、まだ戦って…たっ、助けてください!」
倒れこむように彼らの前に割り込み、必死に助けを乞う。
「えっと、どうしたの、山田さん。まずは落ち着いて。深呼吸よ」
呆気に取られる生徒たちの間から、艶やかな黒髪をロングに伸ばした女の子――南雷ちゃんが進み出て、息切れして倒れこむわたしを優しく支えた。
「山田さんだっけ。今、『七瀬君』って言った?彼が何か危ない状況にいるのかい?詳しく聞かせてくれ」
もう一人、七瀬君と同じくらい長身の男の子――神楽坂輝聖君も進み出て、わたしを見下ろした。
「じ、実は…」
わたしが状況を話し出すと、皆は顔色を一変させた。
「これは速やかに避難して、迷宮を封鎖するべきだ」
雷ちゃんの指導員はすぐさま携帯を取り出すと、どこかへ向かって連絡を取り始めた。
「七大堕天使だって?早く逃げないとまずい。俺たち皆殺しにされちまう!」
「学校を襲撃した犯人なんでしょ?怖いよぉ。早く逃げようよ!」
雷ちゃんのチームメイトは半狂乱になって浮足立っている。
違う。そうじゃない。七瀬君を助けなきゃ――
「山田さん」
「はっ、はい!」
いきなり声を掛けられ、振り向くと、真剣な表情でこちらを見下ろす神楽坂君がいた。
「七瀬君――いや、彩人はまだ戦っているんだね?君を守るために」
「そ、そうなんです!だから、七瀬君を助けなきゃ」
「待って。それは無茶よ」
冷静な声が真上から響いて、わたしは雷ちゃんを見上げる。
「いい?疑っているわけじゃないけど、山田さんの話が本当なら相手はあの七大堕天使よ。あの闇の帝王の配下にして、世界中を恐怖の底へ落とした化け物。残酷かもしれないけど――」
わたしの肩を抱く雷ちゃんは口を一文字に結んでいて。
息を吸って、溜息をついて、やっと口を開いた。
「七瀬君はもう生きていないかもしれないわ。第一、私たちのようなただの高校生が闇墜人――しかも七大堕天使に勝てるはずがない。彼はきっと――」
「七瀬君は生きてるっ‼」
たまらず叫んだ。
雷ちゃんは悲しそうな表情でわたしを見つめる。
そんな彼女に無性に腹が立って、睨みつけた。
こんな感情を雷ちゃんに抱くのはお門違いだ。彼女は間違ったことは何も言っていない。
それでも、七瀬君が――
「助けに行こう」
時が止まった。
「…本気で言ってるの?輝聖君…」
雷ちゃんの視線の先には、何か決心した表情を浮かべる神楽坂君がいた。
「七瀬君は必死の決意で足止めをしたのよ。山田さんを守り、そして脅威を私たちに伝えるために。私たちが行けば、そんな七瀬君の決意を無駄にすることになる」
四方から神楽坂君に突き刺さるような視線が集まる。
「それでも僕は、彩人を助ける。彼は僕の幼馴染だ」
びっくりしてまじまじと神楽坂君の顔を見てしまう。
「彩人は昔から、自分の中の正義を貫く奴だった。どんな悪意にも立ち向かい、幼い僕はそんな彼の背中に隠れてばかりだった」
神楽坂君は遠い目をする。
「家の都合で離ればなれになってしまったけど、この第一魔法高校に転入して来て驚いたよ。彼は別人のようだった。人を寄せ付けず、孤独で、僕にも気がつかないようだった。――それでも」
きつく結ばれた神楽坂君の唇が少し緩んで。
「彩人はやっぱり彩人だった。あいつは誰よりも正義に生きて、自分を犠牲にする。でも、今度は僕が助ける番だ。僕は彩人を絶対に見捨てない。どれだけ相手が強大だろうが、冷酷無比であろうが、関係ない。僕は僕の正義を貫く。彼がそうしたように」
神楽坂君は呆気に取られるわたしに向かって手を差し出した。
「そうと決まったらこうしちゃいられない。山田さん、道案内してくれ」
神楽坂君の手を掴んで立ち上がると、隣にいた雷ちゃんも立ち上がった。
「輝聖君が行くなら私も行くわ。一人でなんて行かせられるわけないじゃない」
雷ちゃんは諦めたような、でもどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「ま、こうなることは想像していたけどね。だって輝聖君だもの」
「ちょ、ちょっと待てよ。お前ら、頭おかしいんじゃないのか!闇墜人に楯突くなんて自殺行為だ。お、俺はいかねぇぞ」
雷ちゃんと輝聖君以外は皆口々に七瀬君の救出反対を叫ぶ。
普通に考えれば、当たり前だ。ただの高校生が闇墜人に立ち向かうなんてあまりにも非常識で無謀すぎる。
「…もちろんだ。皆に危険な思いはさせたくないし、できれば君たちにも…」
輝聖君は雷ちゃんとわたしを見る。
「いや、ここはありがとうと言っておこうか。雷と山田さんが来てくれるのは心強い。皆、僕たち三人で彩人を助けに行く。皆は指導員さんに従って、避難してほしい」
そう言ってちらりと指導員さんの方を伺うと、彼はまだ誰かと話していて、こちらの騒動に全く気付いていない様子だった。
「時間がない。行くよ」
わたしは勢いよく頷いて、立ち上がった。
「光よ 彼の者を照らせ【光の道標】」
「薔薇よ 彼の者の行く先を示せ【蔓薔薇ノ追行】」
神楽坂君の魔法が薄暗い迷宮の通路を照らし、わたしの魔法が通って来た道程を示す。
薔薇の蔓が七瀬君のいる方向に延び、時折薔薇の蕾が顔をのぞかせた。
「便利な魔法ね。土属性にこんな魔法があったなんて。魔法については人並み以上に勉強している自負があるけど、知らなかったわ」
先を走る雷ちゃんがわたしの魔法に目を丸くさせている。
「う、うーん…どうなのかな。普通の魔法は全然使えないし…」
薔薇の魔法はわたしのご先祖様が編み出した特別な魔法らしい。しかし、その弊害か、わたしは普通の土属性の魔法を全く扱うことができない。
「雷ちゃんや神楽坂君の方が何倍もすごいよ」
実際、わたしたち三人の身体を包む光の補助魔法は、疾走する体力を補い疲れを全く感じない。
雷ちゃんの魔法は、もう圧巻だ。
わたしなんてとてもじゃないが、二人には遠く及ばない。
「あっ、二人とも、もうすぐだよ」
迷宮の通路を奔る蔓に垣間見える薔薇の蕾から紅い花弁が顔をのぞかせるようになり、次第にそれらは満開になり、漂う匂いも甘く、濃くなってきた。
それとともに、通路の奥から漂ってくる錆びた鉄のような臭いも濃くなってきて、わたしは背筋が冷たくなった。
――いる。この先に、七瀬君と、あの化け物がいる。
先を行く二人もただならぬ気配を感じたのか、少し立ち止まり、身を震わせた。
「行こう」
神楽坂君の声に、わたしと雷ちゃんは短く頷き、そして走り始めた。
―――――
濃厚な死の気配が漂う間に足を踏み入れた。
壁に、地面に、えぐれた跡と点々と飛び散る血痕が戦闘の激しさを伝える。
闇の魔法の痕跡が身体に纏わりつき、不快感が拭えない。
死の騒めき。闇の蠢き。細い生の衝動。
「――七瀬君‼」
闇に墜ちた破壊と暴虐の権化、蠢くシャドーたち、そしてそれらに相対する蹲った人物が視界に入り、わたしは全身の血が凍った。
「【紫電の瞬き】」
その場を切り裂いた紫の電光は、わたしも、神楽坂君も、闇墜人さえも置き去りにして迸った。
七瀬君に迫る死の鎌は振り上げられた直前で止まり、後には驚愕に目を見開くフューゲルと感電して身動きの取れなくなった十数体のシャドーが取り残された。
――ここだ。
「光よ 彼の者の闇を切り裂け【聖光斬】」
「薔薇よ 彼の者の盾となれ【薔薇の障壁】」
完全に不意を突かれたフューゲルたちは眩い光の白刃に切り裂かれ、地面から突き出した太い薔薇の蔓が絡み合い簡単には解けぬ壁を成した。
「七瀬君‼」
わたしは一目散に地面に蹲る人影に駆け寄った。
返事はない。
ただ、血と死の濃厚な匂いが鼻腔を通過するだけだ。
七瀬君の身体には無事なところを探すのが難しいほど傷ついていて、流れる血は足元で大きな染みを作っていた。
「――っうぅ」
痛々しい身体を抱きしめると、その奥からは弱いが確かな鼓動が聞こえてきて、わたしの視界は溢れ出た涙で滲んだ。
「…は、なこ…」
掠れた声が耳に入って来て、涙を拭うと虫の息で目を開いた七瀬君がこちらを見ていた。
「七瀬君っ――よかった」
「なん、で、戻って来た…」
絞るように声を出した七瀬君は、虚ろな目を向ける。
「七瀬君を助けたくてっ。それに、雷ちゃんと神楽坂君が!」
「っ――ああ…そうか」
フューゲルと戦う二人をぼんやりと見た七瀬君は、薄く笑った。
「主人公と攻略対象か…」
七瀬君の言葉に思わず目前の二人を見た。
電光と白光が飛び交う二人の姿は、まさしく悪と戦う主人公とヒロインだった。
「――所詮、俺は…役立たずのゴミキャラか…」
「そんなことない!」
自嘲じみた言葉を吐き出した七瀬君はどこか諦めた目をしていて。
わたしはそんな彼を否定した。
「七瀬君はわたしにとって、一番の主人公だよ。この世界で一番の主人公なんだから!」
わたしの言葉に驚いた表情をした七瀬君は、少し笑って目を瞑った。
「な、七瀬君!」
胸に耳を当てると鼓動は続いていて、静かな息遣いが聞こえてくる。
「よ、かったぁ」
わたしは安堵の余り大きな溜息をついた。
傷つきボロボロになりながらも戦い続けた七瀬君は間違いなく主人公だ。
そして――
激しく戦う眼前の二人を見る。
あの中で唯一、神楽坂君だけが七瀬君を助けようとしてくれた。
そして、その神楽坂君に雷ちゃんは真っ先に着いて来た。
うん。七瀬君の言う通りだ。
間違いなくあの二人は、主人公で、ヒロインだ。
――じゃあ、わたしは?
わたしは…ただ逃げた。
目の前の恐怖に足が竦み、七瀬君に庇われ、生を求めて逃げ惑い、醜い後悔から人を頼った。
無謀で死地へ向かうようなものなのに、あの二人は七瀬君を助けようとしてくれ、今まさに死と隣り合わせで戦っている。
「わ、わたしは――」
――最低だ。
最低で卑しいただの無力な一般人。
人を頼ることしかできない醜い人。
眩い光に包まれた神楽坂君と、そして雷ちゃんが視界に映り…思わず七瀬君のような自嘲めいた笑みが出た。
七瀬君は自分を否定したけど、全くそんなことはない。
七瀬君は間違いなくヒーローだ。
そしてわたしは、ヒロインになれない。