9. フューゲル戦
絶望的な戦いを前に、俺は冷静に装備を確認する。
体を包むのは学校の制服である初期装備のローブ。
そして武器は学校から支給された初期装備の杖だ。
公式攻略本によれば、レベルの概念がない七瀬彩人の実質レベルは50。
対して『調教師』フューゲルのレベルも50だが、ボスキャラ特有のステータスの高さに加え、奇数ターンごとに召喚されるシャドーを鑑みると、圧倒的に力負けしている。
そして、本来ならば迷宮挑戦前に購買で装備を整えるのだが、全身を初期装備で覆っている俺に勝ち目はないだろう。
『絶望』の二文字が重くのしかかる。
だが、何故だか悲観はなく、あるのは純粋な殺意のみだった、
奴を倒さなければいけない。
魂が俺に訴えかける。
奴を殺せと。
だから俺は、何の変哲もない黒塗りの杖を構えた。
そして目の前にあるはずのコマンドボタンを幻視する。
――『戦闘開始』
―――――
このゲームにおける戦闘はターン制だ。
『素早さ』のステータスが高いほど先に行動でき、敵味方の両陣営の攻撃が全て終了すると次のターンに移る。
だから、『素早さ』は戦闘において最も重要なステータスの一つだ。
待機している二体のシャドーが動き始めた。
どぎつい紫色の触手を全身に生やした奇怪なモノと、迷宮の天井にも届くほどのゴーレムが迫る。
シャドーたちが血濡れた触手と腕を振り上げるが、ステータスオールAの俺の素早さには勝らない。
「【茨の足枷】」
陸上生物に対して足止め効果のある、土属性下位魔法を重複起動する。
シャドーの足元から茨の蔓がするすると伸びだし、足に絡まって行動を阻害した。
触手のシャドーは蹈鞴を踏み、ゴーレムのシャドーはもんどりうって地に伏せた。
【茨の足枷】などの一部の行動阻害系魔法は、対象が大きければ大きいほど一定確率でスタン状態を誘発する。
これでゴーレムのシャドーは最低でもあと二ターンは行動できない。
「へえぇぇぇぇぇ。やるねぇぇぇ。だがこれはどうかなぁぁぁぁ。冥界の門よ 彼の者の前に姿を現せ、【地獄の門】」
【地獄の門】は闇属性上位魔法の空間移動系魔法だ。
ゲーム中では専ら『調教師』フューゲルが生み出し育てたシャドーたちを遠隔地から召喚するのに使われる。
フューゲルが杖を振り上げると、目の前に闇色の禍々しく重厚な門が顕現し、中から一体のシャドーが出現れた。
そのシャドーは全身をくまなく鈍色の鱗で覆われ、左右に生えた被膜を大きく広げた。
ワイバーンのシャドーだ。
飛行系かつ竜種は得てして手強い。
眼前にポップする四つのステータスウィンドウを見ると、俺は眉を顰めた。
一対四。
到底捌き切れる数字ではない。
それに加え、奇数ターンごとに無限に召喚されるシャドー。
それらを倒さなければ本体を叩くことさえできない。
初手で二体の行動を阻むことに成功したのは不幸中の幸いか。
「【岩石の槍衾】」
俺は土属性中位魔法を重複起動する。
元々範囲攻撃魔法である【岩石の槍衾】は、重複起動によって敵の前列と後列の両方にダメージを与えた。
…というかさっきから何かが引っかかる。
そして無意識に杖を振り上げ、HPを三分の一だけ残しているワイバーンのシャドーに向かって優位魔法を放った。
「【石の矢】」
地面から形成された石の矢は、迷宮の天井すれすれを飛ぶシャドーにまっすぐに飛んで突き刺さり、シャドーは塵になって消えた。
――一体撃破。
だが、先程から感じていた違和感が大きくなり、同時に何故俺はボス相手に善戦できているのか首をかしげる。
「お前ぇぇぇ、まさか重複詠唱と高速詠唱持ちだったとはなあぁぁぁぁ」
フューゲルが眉を顰めて放った言葉にハッとした。
――重複詠唱と高速詠唱はこのゲームに存在するスキルだ。
この二つに無言詠唱を加えて、その強力さから三大詠唱スキルと呼ばれている。
重複詠唱は同じ魔法を二回重ねて同時に打つことができるスキル。
高速詠唱は一ターンにつき二種類の魔法を打つことができるスキル。
そして、無言詠唱は魔法発動に必要な詠唱を省略し、相手に悟られずに魔法を放つことができるスキルだ。
思い返してみると、一年の最後の進級試験では、複数の属性の魔法を組み合わせて上位魔法を演出した。
全ての属性の魔法を使えるからこその荒業かと思ったが、普通の人間は一度に一つの魔法しか打てないし、それは七瀬彩人にも適用される。
三大詠唱スキルを身に着けているとしたら説明がつく。
だが何故だ?
そもそも七瀬彩人は完全なるお助けキャラで、装備以外ステータスをいじることが全くできないのだ。
つまり、スキルは初期スキル以外、後から覚えさせることができないのである。
そしてもちろんのこと、三大詠唱スキルは七瀬彩人の初期スキルには含まれていない。
普通に考えてあり得ないのだ。
そして、今まで無意識に使っていたこともあり得ない。
こんなのチートじゃないか。
今の状況では非常に喜ばしいが、ゲームバランスが崩れる上に、見つかったらBANの対象になるに違いない。
バグか?
だが何でもいい。
使えるものは何でも使って生き残ってやる。
フューゲルはこのターン無行動だが、茨の足枷から抜け出した触手のシャドーが触手を伸ばして攻撃してきた。
魔法を既に放って動くことのできない俺は、頭上に迫る恐怖に身を固くした。
「――ぐっっああぁぁぁ」
触手に跳ね飛ばされた俺は背中から固い地面に叩きつけられ、遅れて全身を奔る痛みに思わず悲鳴を上げた。
痛い痛い痛い痛い痛い!
右上にポップする自分のHPバーが五分の一ほど削れていくのをかすれた視界で認識する。
俺は冷静になろうと努めながら、痛む身体を無理やり起こした。
フューゲル戦第一回目において、フューゲルのレベルは50、そしてその配下のシャドーのレベルは一律35だ。
無理ゲー臭が漂うこの戦いにおいて、やはり敵の攻撃力を無視できない。
ステータスオールAの俺だからこそかろうじて耐えきれるが、まだ戦いの序盤だということを忘れてはならない。
「――っく、【妖精の光】」
杖の先から柔らかな薄緑の光が俺の身体を包み込み、HPが微量だけ回復した。
光属性中位魔法【妖精の光】は全味方ユニットの体力を毎ターン10パーセントだけ回復する回復魔法だ。
これで数ターンは回復魔法を打たなくて済む。
「ほおおおおおう…。まさかぁぁぁあ、お前は『二属性魔法使い』だったとはなぁぁぁあ。しかもぉおお、複数の『詠唱の秘術』まで習得しているのかぁあああああ」
フューゲルが3ターン目を告げる口上を言う。
俺は主人公でもなんでもないので、本来のフューゲルの台詞とは全く違うのだろう。
七瀬彩人がプレイヤーである場合、どう立ち回るのが正解なんだ?
戦闘中でも、敵キャラの台詞によってルートが分岐することがある。
だから、何気ない台詞でも注意が必要なのだが、俺は本来の主人公ではないのにも関わらずフューゲル戦が勃発してしまっている。
以前プレイしていた記憶は曖昧だが。これだけは言える。
このフューゲルの台詞は恐らく存在していないだろうし、俺は完全初見プレイを強いられている。
クソが、ふざけるな。俺は攻略本片手にゲームをスムーズにクリアしていくタイプなんだぞ。
初見プレイのわくわくなんて知ったことか。むしろ苦痛でしかない。特に今、この状況においては。
「だったらどうする?」
俺は慎重に言葉を選ぶ。
「ふぅぅうむ…。お前を殺してぇぇぇえ、七大堕天使が第三席、『死霊術師』にぃぃ手土産でも持っていくとしようかぁぁぁ」
闇の帝王の手下七大堕天使…言ってみれば中ボスにあたるが、その中でも『死霊術師』は強力な魔法使いや魔法生物の死体を傀儡にして攻撃してくる。
対複数戦ではフューゲルと同系統ではあるが、ボス自体のレベル差と用いる手駒の質、そして悪辣さから、圧倒的に『死霊術師』に軍配が上がる。
だが、この場では徹底抗戦は避けられないのか。
まぁ、そんなことだろうと思っていた。
やれることを全てやって、足掻くだけだ。
―――――
「さぁあてさてさて、もう終わりかぁあああ、全属性魔法使い?」
…これは、何ターン目だ?俺はあいつにどれくらいダメージを負わせた?あと何ターンで終わるんだ?
「お前がぁああ『全属性魔法使い』だったとはなぁぁぁ…。だが、がっかりだぁああよ。このぉぉお程度かぁぁぁあ。弱いぃ、弱すぎるぅぞぉぉぉ」
痛い。全身が痛い。攻撃を受けすぎた。
抵抗しきれずに受けたダメージが身を蝕み、身体の至る所から出血し、視界が霞む。
「『全属性魔法使い』はぁぁぁ、ひじょぉぉぉうにぃ珍しぃい。だがぁぁ、お前はぁぁあ、不完全だぁぁぁ」
黙れ。うるさい。そんなことなど、とうに知っている。
「複数の『詠唱の秘術』を習得してぇいるがぁぁぁあ、お前はぁぁ上位魔法がぁぁまったぁああく使えないなぁぁぁ。そうだろぉぉぉ、出来損ないのぉぉ『エレメンタルマスター』?」
相手もただのまぬけじゃない。俺が上位魔法を使えない全属性の魔法使いだと、とうに見破られてしまっている。
しかも、奴はこちらの手札を見るためにある程度手加減して戦っている。
俺は死力を尽くしているというのに。
奴が本気になれば、俺などあっという間に塵と化すだろう。
届かない。どれだけ知恵をひねっても、どれだけ足掻いても、奴には届かない。
知っている。これは序盤の負けイベントなんだって。
知っている。これはもうゲームオーバーに近づいているんだって。
知っている。俺は選択を間違えたんだって。
「さぁぁあて…、お前の手札はぁぁもう見飽きたぁ。もう何もぉぉ打つ手はないだろぉぉぉう?」
奴の――『調教師』フューゲルのHPバーには一つのかすり傷すらついていない。
フューゲルの召喚した回復ユニットが、俺の入れたなけなしのダメージを勤勉にもその都度回復させていくからだ。
俺はぼんやりする視界で相対する奴らを見る。
奴の召喚したユニットは現時点で11、いや12か。
奇数ターンごとに召喚されるシャドーは捌き切れないほど数を増して。
ちらりと自身のステータスを見ると、毒、火傷、病魔、麻痺…といったバッドステータスに加え、レッドゾーンに突入しているHPバーが耳障りな警告音とともにポップしている。
俺はあと一ターンで死ぬ運命にある。
MPは底をついた。デバフがバフを上回っている。
立ち上がれない。前を向けない。ただただ蹲ることしかできない。
「ははっ」
乾いた笑みが半開きになった口から零れた。
そうだ、俺は七瀬彩人だ。
七瀬彩人は主人公のお助けキャラ。全属性を扱えるが、中位魔法までしか行使できない。そして極めつけは、ステータス成長がない、完全なる捨てキャラだ。
俺は、最初からこうなる運命にあったのだ。
そりゃそうだ。
この世界は主人公を起点にして回っている。
俺は主人公ではない。
成長できない俺に未来はないのだ。
思えば、俺は捨てキャラとしての役割を全うした。十分以上に全うした。
時間を五ターン以上稼ぎ、モブキャラを一人救ったのだ。
自嘲の笑みがまた零れる。
俺は花子の顔を思い出していた。
奴はモブで陰キャでストーカーで、本当にどうしようもない奴だったが、クラスに馴染めずに一人だった俺に声をかけてくれた変人だ。
どこまでもお人好しだった。何でそこまで俺に拘る?
何か裏がありそうだと思ったが、奴の能天気な表情を見ていると、どうでもよくなった。
奴は真正のアホだ。俺に着いて来なければこんな思いをせずに済んだのに。
そして、俺は生き延びられたかもしれない。
『かもしれない』などと勝手な想像をするが、不思議と怒りは湧いてこなかった。
ただ、何かをやり遂げた満足な感情がそこにあった。
「さてさぁぁて、そぉろそろ仕舞いにするとぉぉぉしようかぁぁあ」
最期のターンが始まった。
デバフを何重にもかけられている俺は、本来のステータスを発揮できず、先手をフューゲルに取られる。
俺には諦めの感情しかなく、膝をつき、蹲り、目を瞑り、数秒の先に降りかかる死の運命に身体を冷たく硬直させた。
――ゲームオーバーになったら仮想世界から解放されるのかなぁ。
迫る死に向かって、最期に俺は、そう逃避した。