触手と握手(ガラシャ→ハポン)
空飛ぶクラゲの群れを指差して、あれはなんだと道ゆく人に尋ねた。
あれは光性の植物のフワンポワンだ、と教えられた。
私はハポンの町へ向かっている途中だった。
「フワンポワン」
軽やかな名前は空飛ぶクラゲにぴったりだった。
私は小さく口笛を吹き、笑みをこぼした。
気まぐれな春風に身を任せた、フワンポワンの蔓が、くるくると悪戯な渦を作る。
ガラシャの町で世話になったマシュ爺さんの髭を思い出した。
毎日毎日ふるまわれたマシュ粥は、私の好物のひとつとなった。
そうそう、クラゲについて補足しておかなければ。
私の知っているクラゲは、白色の半透明が美しい海洋生物だ。
そう、海洋生物なのだ。
人差し指でつつけばプニプニとした弾力が面白く、癒しの効果もあることから観賞用としても人気が高い。
とはいえ実のところ私は、クラゲを実際に触ったこともなければ、飼ったこともない。
クラゲが毒を持っているというのは、故郷では有名な話なのだ。
「食べられますか」
いいかげん読者諸君の笑い声が聞こえてきそうだ。
私の旅の最大の目的は食なのだから仕方ない。
「食べられないこともない」
「どんな味がするのですか」
「どちらかといえば、甘い」
「触っても大丈夫ですか」
「触ってもいいけれど、何のために」
「握手をしようと」
道行く人は首を傾げた。
なるほど、光性植物よりも魔性植物がお好きな御仁なのだろう、と私は得心した。
そういう人は多い。
手近な木に登り、よいっ、と2メートルほど飛んで、フワンポワンの蔓の一本を、右の手で掴む。
一瞬の浮遊感。
吸い付くような触感。
ぬくぬくとした温かさ。
フワンポワンは体内に太陽の光を溜め込む性質なのだろう。
心持ちゆっくりと着地する。楽しい。
フワンポワンをたくさん集めたら、私も空を飛べるだろうか。
自分の顔より大きなフワンポワン。
赤ん坊の腕くらいの太さのぷにゅっとした蔓を、ハジメマシテと言葉を添えて大きく上下に動かす。
されるがままに、ぷるんぽよんと揺れるフワンポワン。
理想通りの感触に、旅の疲れが吹き飛んだ。
私の満足そうな顔を見た道ゆく人は、「ウルル祭りの子供のようだ」と真っ白な歯を見せて笑った。
なるほど。
この日、私が着ていた緋色の衣装は、先日のガラシャのウルル祭りで買ったものたったのだから、彼の目はたいへん正しい。
よくよく見れば彼の腰帯は、鮮やかな黄色と茶色のガラシャ織り。
敬虔なウルルの信徒の証だ。
ガラシャのマシュ爺もウルルの泉の精霊を信仰していた。
すぐに私は腰に下げていたユーリィの実の束を全部渡し、つたない言葉で旅の安全を祈った。
「ウルルの風に旅の祈りを」
このユーリィの実の束は、ガラシャを発つ際に、マシュ爺さんに紹介されたハポンから来たという商人に譲ってもらった品だった。
その商人も同じようにしてガラシャから来た旅人に譲り受けたのだという。
こういった品は多くの人の手を介すほど良いとされている。
これから旅に出ようと思っている人は、覚えておくと良いだろう。
「ありがとう、お嬢さん。ウルルの風に感謝を」
私の言葉は無事に通じたらしい。
【ウルル】の真ん中の【ルゥ】を強く発音するのがコツだ。
返礼にとマルミ芋とヤッシェの乳で作った団子、マルミャッシェを手渡された。
これは嬉しい。
マルミャッシェは、魔素を効率よく吸収できるとして、旅人に人気の菓子だ。
地域によって具が違うのも、食道楽に嬉しい。
私は新しい土地ではまずマルミャッシェを食べることにしている。
はずれはないし、持ち運びに便利だし、日持ちもするし、なんといっても腹持ちがよい。
「パニー肉が入ってるんだ」
「肉とは珍しい」
左手に乗せられた、マルミの葉に包まれたマルミャッシェは、まだ温かい。
ハポンはもう目と鼻の先、ということだろう。
ハポンに着いたら、ウルルの風はハポンの風になるのだろうか。
それとも、他の風と混ざることなく、どこまでも、どこまでも、ウルルの風のままなのだろうか。
私の疑問に応えてくれたのはフワンポワンだ。
ウルルの風に呼ばれるように、頭の上でのんびり揺れていたフワンポワンが、大きくひとつ上下した。
私はフワンポワンの温かな蔓をそっと離した。
さよなら。よい旅を。
右に流され、左に流され、くるくるくると楽しげに蔓を巻きながら、フワンポワンは空高く昇っていった。
「光性の植物は呑気でいいや。魔物に喰われる心配がないもんな」
道行く人はそういって笑った。
フワンポワンを失った右手が冷たく感じた。
ツンと痛む鼻を掠めた春の風は、光性植物特有の甘い匂いを孕んでいた。
仲間のフワンポワンと合流してしまえば、もうどれがさっきのフワンポワンだったのかも分からない。
私は左手のマルミャッシェを右手に持ち替え、乱雑にマルミの葉の包みを剥がすと、大きくかぶりついた。
手のひらにほんのり温かく、ゴロゴロと大きめに切られたパニー肉からは熱い肉汁がじゅうと溢れた。魔素を溜め込むことが出来ない不自由なこの身ではあるが、マルミャッシェの魔性の旨味がぐるりと血管を巡っていくのを感じた。美味しかった。
むしゃり、むしゃりと私は食べた。
食べながらも、道行く人に、私は言った。
「どうぞお先に進んで下さい。私はまだここでフワンポワンを見ていますから」
「いいや、君が食べ終わるまでここにいよう。私も君と握手をしたくなったからね」
名も知らぬウルルの民は、穏やかに目を細めた。
光の温かさも、人の温かさも、生きる糧であると知る。