3 鉄拳
「さっすが、師匠!」
少女が興奮の余り飛び上がり、男の方に駆け寄っていった。抱きつきにかかられる直前、「師匠」の両手が少女の頭をむんずと挟んで掴み、地面から浮き上がらせた。
「痛たたただただだだだだッ!? 頭割れる割れる割れるって!」
「ミルカよ、迷子になった詫びを俺にしろ」
「ごッ、ごめんなざいごめんなざい師匠! もうじまぜんッ!!」
少女――ミルカの声は痛みに罅割れた。ここでミルカは解放され、土の上に尻餅をついた。
「そして迷惑をかけたあの旅人にもだ」
「旅人さん迷惑かけてごめんなさい!!」
ミルカが鮮紅のおさげを地につけ、平伏礼をした。エフェスが眉根を寄せるのへ、「師匠」が唇を笑みの形に浮かべた。
「これで許してくれるか?」
「……別に詫びの必要はない」
「俺とミルカの気が済まない。な?」
「師匠」が振ると、ミルカはどこかの地方の玩具のように何度も小刻みに首肯した。
「弟子か」
「一応な」
「一番弟子よ!」
エフェスが呟き、「師匠」が応じ、少女が立ち上がって痩せた胸を張る。師匠が苦笑を浮かべながら言った。
「しかし、災難だったな。お前さん、名前は?」
「エフェスだ。……どこまで見ていた?」
「俺の名はヴァリウス。ま、立ち話も何だ。森の外に人を待たせてる。歩きながら話そうぜ」
「待て」
エフェスは右二十歩ほど先に、目敏く見つけたもの――黒く捻じくれた樹の如きものを指差した。
「あれを全て倒してからだ」
「あれ?」
ミルカの疑問に対し、エフェスは端的に応えた。
「魔殖樹――大地を毒に変えるものだ」
毒と聞いて、ミルカが青い顔になった。
「毒って……ここにいて大丈夫なの!?」
「今のところは大丈夫だ。この森も汚染されかけているが、まだ度合は浅い。壊せばそのうち元に戻る」
「そっか……」
エフェスの説明に露骨に安堵し、一方で不安な表情をした。
「師匠、そういや父さんと母さんたち、どうしよう?」
次はヴァリウスが尋ねる番だった。
「何本あるんだ? この森に?」
「わからん。推定で二十ほど――そのうち七本を破壊したが」
正直にエフェスは応えた。彼にとって、嘘をつくような意味があることはそれほど多くない。顎に指を当て、ヴァリウスが言った。
「ミルカ、親父さんたちのところに行って来て、もうちょっと待つように伝えてくれ。出口の近くに看板があるから、そこで待ってるはずだ」
「わかったわ!」
ヴァリウスが指差す方向へ、少女が脱兎の如く駆け出した。
少し歩き、男二人が魔殖樹の前に立った。生物の臓器のように絶えず不気味に脈打ち、蠕動しているそれを差して、ヴァリウスが興味深そうな視線を向けた。鉄篭手を嵌めた手で感触を確かめた後、彼はこう言った。
「なぁエフェス、俺が壊してもいいか?」
「出来るならな」
エフェスが言うなり、ヴァリウスは大股に樹の前に立ち、腰を低く落とした。巨体から立ち上る気迫に、エフェスの指がぴくりと反応した。遥か頭上で針葉樹の葉がざわつき、ばらばらと落ちてきたのは風のせいだけだろうか。
「――奮ッ!」
握り固めた拳が樹幹を打った。まるで破城槌が城門を打ち据えたかのような音がした。幹が摺鉢状に陥没している。
拳を引くと、やがてゆっくりと魔殖樹が倒れた。
土煙が立ち込めた。ヴァリウスは得意げに言った。
「どうだ?」
土煙が引いてから、エフェスは魔殖樹を検めた。流体化した魔力が断続して吹き出ている。樹幹の断裂面はただ折れたのではなく、内側から爆ぜたようになっていた。決して力任せだけではない、拳の打突が技になっているのだ。長年の修練の積み重ねによって到達出来る技だった。
「……お前、経験があるな?」
「練習はしてたよ」
確かに中原北部では練習出来るほど魔殖樹は殖えられている。一本や二本倒した程度ではどうにもならない数が。
だがエフェスにはそれはどうでもいいことだった。
「王虎拳法だな?」
「そうだ」
単刀直入のエフェスの問いに、あっさりヴァリウスは肯定した。
王虎拳――北方武門最大の流派「王虎門」に伝わる格闘術である。その武技は洗練を極めなおかつ変幻自在、水のような柔軟さと鉄の如き硬質さを併せ持ち、達人の業は単身で大型魔獣をも屠り得るという。ワーグを仕留めた擒拿術もその一つだ。
発祥の地は白虎平原、即ちガウデリス覇国の御家芸でもある。
「今の技は〈虎手裂震〉――まあ樹の内部の流体に干渉した、と思えばいい」
「内功法――人体を水袋と見立て体内を危害する、という極意か」
「講釈無用だな」
「ヴァリウス、お前の目的は?」
エフェスは考えた。この遭遇は偶然か。王虎拳法使いの北方系人種であるヴァリウスを、覇国の刺客かとエフェスが考えたのも無理からぬことだった。今まで倒した幻魔兵の数は知れぬ。むしろ刺客が来るのが遅いくらいだ。
であれば、ヴァリウスが幻魔として調整を受けていることも考えられる。それ以前に、鎧無しでこの男に勝てるのか。距離は五歩。ヴァリウスの拳が届くより先にエフェスの鉄鞘が頭蓋を砕くか、それとも懐深くに潜り込んだ拳が己の臓腑を破るが先か――
ヴァリウスが無造作に歩み寄り、エフェスの肩を叩いた。何の気負いも、そして敵意も感じられぬ動きだった。
「肩の力を抜けよ、エフェス」
「……」
「俺は今、自由だ。出身はどうあれ覇国とは関係なく動いている。魔殖樹を破壊もした」
「そのように調整されたということも考えられる。俺を信用させるために」
「疑い深いね」
ヴァリウスはそのまま歩き出した。
「どこへ行く気だ」
「腹が減った。ミルカたちと合流して町に向かう。お前はどうする?」
「……魔殖樹を全て破壊する」
更に風が強く吹いた。夕闇の気配も迫りつつある。