10 獣神変
随分遅れました。腹斬ってお詫び申し上げます。
……少し時間を戻す。
いつ終わるとも知れぬレイディエンとの攻撃の応酬の中、静かな呟きにも似た声がランズロウの耳にも届いた。
「いつまで闘っているつもりだ、お前たちは」
浅黒い顔に、白虎平原の衣服を着た若い男である。奇妙なことにその男は、岸壁に対して垂直に佇んでいた。力みもなくくつろいだ様子すらあるその立ち姿は、物理法則そのものを捻じ曲げたのだからこんなことなど何でもない、とでも言うようでもあった。
しかし――この男はいつここに現れたというのだ。
ランズロウはシェラミスの侍従であり護衛騎士として、周囲への観察は決して怠りなく行なっている。それは殆ど癖に近い。しかしこの男は、幻魔兵の中にはいなかった。獣神騎士の感覚の網の外から忽然と出現した――そうとしか思えなかった。
男の青い眼は茫洋としているようで、貪欲に周囲の状況を探っているようでもあった。その眼がランズロウの方向を確かに見た。
「自己紹介はまだだったな。僕の名はユアン・タオバー。覇国で官僚の末席を預かる者だが、それはまあいい。――装甲」
静かに闇がユアンを取り巻き、凝固し、鎧として形を成す。
鎧は艶のない黒一色であり、甲冑というよりは身体中を覆うように密着した装束のようでもあった。その中で、頭部の大きな一つ目が妖しい赤光を放っている。見たことも聞いたこともないような、異形の甲冑だった。
「幻魔騎士ユアン、参る」
うっそりとそう口にすると、四肢の甲冑の一部がほどけ、帯のように伸びた。それは無数に枝分かれし、稲妻のように空洞のあちこちに迸った。帯の直撃を受けたミノタウロスの石像が、内部から枝を生やしてバラバラに斬り刻まれるのが見えた。一瞬のことである。
ランズロウは槍の穂先を伸ばして弾く。矢のような速度なのに、飛沫のような火花が上がるほどに硬質で、装甲騎獣に乗っているランズロウが大勢を崩しそうなほど重い。
その間にもレイディエンが距離を詰めてくる。
「獣神戦技……〈流水擲槍〉!」
二本の水の槍を生み出し、ユアンとレイディエンへ投射する。その二本とも黒の帯が絡みついて搾り上げ、飛散させた。ランズロウは水の飛刀をすかさず連射するが、長くのたうつ帯がそれらを全て打ち砕いてしまう。
レイディエンが体重を持たぬ者のように、ゆるゆるとさえ見える様子で空洞の底へ降りてゆく。阻もうにも、黒い帯が何本ものたくり邪魔をする。黒絹のようにしなやかで利剣のように鋭利なそれらは、ユアンの意に従って動く攻防一体の剣呑極まりない武器だ。柔軟さでは〈星海鯨〉の甲冑の権能である水は追随を許さないが、威力では帯が上回っている。
闇の中で、骨と肉が爆ぜる音がした。レイディエンがやったのだろう。
× × × × × ×
レガートの身体が倒れ込んだ。
その時のエフェスの顔は、レイディエンには到底忘れられそうにない。
エフェスが絶叫し、殴りかかってきた。常の冷静さが完全に吹き飛び、鎧を帯びていないどころか剣を捨ててしまっていることなどまるで考えていない態だった。
避けるまでもなかった。技も何もあったものではない、闇雲な駄々っ子のような拳。それを胸甲で受け、レイディエンは手刀をエフェスの胴に突き入れた。
その姿勢のまま、エフェスはもがいた。レイディエンが発勁を行なうとエフェスは身体を痙攣させ、白目を剥いた。血まみれの手刀を抜くと、そのまま呻き声ひとつ上げることなく膝から崩れ落ちた。
「愚かな天龍騎士――私闘に眼が眩み、獣神騎士としての大義を忘れたか」
呟くなり、レイディエンは百蛇衆を招いた。エフェスや鎧の回収のためである。出血はおびただしいが、即死はしていないのは確かだ。止血を行なえば命は拾うだろう。命だけは。
それ以外のことは――エフェス自身の矜持や尊厳すら――打ち捨てられることになるだろう。その大半を、恐らくは自分自身で冒涜することになるのだ。幻魔の洗脳によって。一連の流れを想像してレイディエンはいっそ哀れすら催す。
横たわるバイロンを見た――否、これは最早バイロンではなかった。レガートの死体だ。そしてレイディエンは、レガートにも死体にも用はなかった。
頭部を失い、父子仲良く穴の底に横たわっている。レガートは洗脳(確か魔術師がそう呼んでいた)が解けかかっていたため、レイディエンが独断で処断した。元はと言えば、エフェスとの最初の交戦時から危惧はあったのだ。レガートの自我は極めて強かった。
それでも壊れかけの幻魔騎士が天龍騎士を引き換えにしたのだと思えば、最後まで大したものであったという称賛の思いはなくもない。複数回の調整により、レガートの肉体の内側は既に限界に近かった。
後は神殿に魔蝕樹を植え付け、マーベル・ホリゾントを確保すれば任務完了だ。王虎騎士ヴァリウスと星鯨騎士ランズロウはグラーコルとユアンが押さえ込んでいる。特にユアンの〈闇眼〉の幻魔甲冑の膨大な蓄積魔力量は、凡庸なユアンの戦闘力を補って余りある。何ならこのまま撃破してしまっても構わない。シェラミスも容易く確保出来るだろう。
レイディエンは流れてゆく血を見ながらそんなことを考える。
百蛇衆が地の底まで降りてくる。ろくろく光源のない闇の底でも、彼らの足取りは決して危ういところがない。レイディエンは指示を下しながら、また足元に流れる血を眼で追ってゆく。バラバラになった獣神甲冑と幻魔甲冑の断片が眼に入る。断片は血でべったりと汚れており、どれがどちらのものなのか判別がつきにくい。レイディエンは訝しんだ。幻魔甲冑は一人一領、騎士が死ねば機密保持のために消滅するはずなのだが――いくら怪物的な強さを持っていたとしてもレガートはやはり人の類、よもや頭部を砕かれて生きているはずもない。
二つの血の筋――父と子の血が混じり合ったのは、形を保った龍の兜のところだった。龍頭を模した兜は罅割れた朱色の眼をレイディエンへ向け、睨みつけているようでもあった。
洞穴内に無数の稲光が奔った。
雷轟の荒れ狂う中、翼を広げてレイディエンはその場を離脱する。幻魔兵や百蛇衆が雷光を浴びて即死した。それはまるで雷が龍の形を取り、その顎と牙で兵らを噛み砕いたかのように見えた。
レイディエンは、闇の底になお黒々と巨大なものがわだかまっていた――否、出現していたことに気づいた。表面に絶えず雷華を帯び、朱色の二つの光を爛々と燃やす巨大な質量であった。その正体を、レイディエンは理解した。
「――鉄鱗龍……だとッ!?」
朱色の双眸が漆黒の鎧をまとったレイディエンを睨み据えた。そこに確かに、レイディエンは憤怒と憎悪の意志を見た。龍が口を開けた。口腔に生え並ぶその牙はこの世のあらゆる利剣に勝り鋭いとすら言われる。本能的な衝動に従うまま、レイディエンは黒い靄を前方へ分厚く、十重二十重に折り重ねて展開した。
龍が嘶いた。空間が引き裂けるかと思うほどの大音声。口腔内部が薄っすらと発光し、稲光を棚引かせる蒼白の炎が迸った。それこそ雷の如き轟音と光を伴っていた。
防御の黒と攻撃の白、龍の魔力とレイディエンの防御の魔力が拮抗して飛散する。そう見えていたのもほんの数秒の間であった。黒は白に焼き尽くされ、炎は白から青、青から赤や黄色に変じて岸壁を舐めてゆく。
「空間そのものを灼き焦がす炎……!? 成程、龍とはこういうものかよ!」
炎の届かぬ範囲に離脱しながら、兜の中の顔が引き攣るのをレイディエンは感じた。それは驚愕と恐怖だった。
直撃した岸壁が赤熱して熔け落ちていた。傷一つなかった漆黒の甲冑も龍の炎を浴び、僅かにだが焼け爛れていた。龍の炎がただの炎ではないという証左だった。
彼自身は直撃を防ぎ得たが、炎に呑まれて煤一つ残らなかった者もいれば、消し炭と化した手足で身体を引きずる者、火の粉に身体を貫かれて倒れ伏す者もいた。それでも算を乱し、まるでバラバラに動く者がなかったのは流石と言うべきだろうか。
それにしても、とレイディエンの思考は走った。何故このようなものが突如として出現したのか――血だ、とレイディエンは思った。エフェスとレガート、二人の血が混じり合い、何らかの作用が起き、龍を召喚した――そう考えれば筋が通る。わからないことは無論いくらでもあるが――しかし今は出現の理由について云々している場合ではない。
撤退の合図が出されてもおかしくはなかったが、断続的に巻き起こる雷光と雷轟が邪魔をしていた。
十余りの黒い帯が上から下へ奔る。ユアンによる攻撃だ。鉄の鱗を貫く帯に龍が咆哮した。同時に無数の稲光が迸り、帯を焼き払った。そればかりか雷撃が帯を伝ってユアンへ奔る。ユアンは帯を切り離してそれを防いだ。
「……硬いな。〈闇刃〉でも臓腑まで届かない」
降りてきたユアンが呟くように言った。
今一度、龍が蒼白の炎を放った。今度は二人とも、防ごうという愚は考えなかった。直撃を受ければ幻魔騎士すら生命に関わりかねない。雷華もまた獰猛に、幻魔騎士を引き裂かんと荒れ狂う。二人は回避に専念した。
炎の消える一瞬の間隙を見計らい、レイディエンは黒い粒子を掌に雲のように収束させた。
「幻魔戦技〈黒蝗風牙咆〉!!」
粒子が突き出された掌から解き放たれる。常ならば耳障りな蝗の羽搏きにも似た衝撃音が、稲妻に掻き消された。龍は雷光を以て応じ、拮抗させたのだ。
黒い粒子を身にまとわせながら、レイディエンが接近を試みる。先の一撃は囮だ。そこかしこで雷華と粒子が食らい合って干渉波が生じる。鎧もまた無傷ではない。それでもレイディエンは蛇のような軌道を描いて後、猛禽の速度――否、風の速度で龍へ向かった。狙うはその朱眼、乃至はその奥の脳髄である。龍を殺す。そう思い定めていた。
揃えた五指がその眼を抉らんとしたとき、龍は僅かに首を傾げた。勢いあまり、レイディエンの手刀が眼下の鱗を削ぎ落とす。しかしそれは決して致命傷にはなりえない。
横手から衝撃が来た。それは長く太く重く強靭な龍の尻尾である。レイディエンの脳裏から一瞬だけ意識が奪われ、壁に叩きつけられて地に落ちる。
気づいても遅かった。龍の巨大な足がレイディエンの身体を踏まえ、その体重をかけた。明らかに敵意を剥き出した攻撃。躱せぬ。闇の底が擂鉢状に陥没する。幻魔甲冑の至る個所に甚大な亀裂が入る。血が噴き出す。
質量が軽くなった。龍の考えがすぐわかった。もう一度、レイディエンを踏みにじろうというのだ。明確な隙。しかしすぐに動けそうにない。彼は死を覚悟した。
「――何をやっているかッ、レイディエンッ!!」
戦友の不甲斐なさに憤激する声はグラーコルのものだった。数度の縮地を以て闇の上部から底部へ滑り落ちるように駆けてくる。先んじて空間を駆け抜ける幾重もの刃風は、幻魔戦技〈弦月牙〉の乱舞である。刃風のいくつかは稲妻に打ち砕かれ、いくつかは稲妻を斬り裂いて龍の鱗にまで届いた。しかしまだ浅い。
龍が視線をグラーコルへ向ける。レイディエンは逃れる。
レイディエンにはわかっていた。刃風はやはり有効打の距離へ近づくための繋ぎに過ぎない。グラーコルにはあらゆる防御を無効化する一撃がある。
龍が光を口腔内部に攻撃的に湛えるのと、グラーコルが本命の一撃を放つのは同時だった。
「幻魔戦技〈饕餮牙〉ッ!!」
戦技を放った衝撃でグラーコルの身体がしばし滞空する。
空間を貪る不可視の獣が顎を開き、放たれた蒼白の炎を食らわんとする。炎が渦巻く光球と化し、渦巻く光球は縮小と膨張を繰り返す。二つの力がぶつかり合い、余剰の魔力が暴風のように空間を席巻し、名状しがたい轟音を伴う乱気流を生じさせた。グラーコルが呻くように叫んだ。
「これはッ……この力は……ッ!?」
――レイディエンにはわかっていた。薄々とではあるが。
結局のところ、魔力総量の差こそが魔力による戦闘の要であることを。属性も能力も相性も、魔力の付随物に過ぎない。そして龍とグラーコルを含む幻魔騎士たちの魔力総量の差は、文字通り天と地ほどの差があった。
拮抗が破れ、渦巻く光球が弾けた。魔力が衝撃を生み、グラーコルは為す術なく壁面に叩きつけられる。それを確かめもしない様子で、龍は再度炎を放った。蒼白い光の柱が洞穴内に屹立し、天井を突き抜け、迷宮を貫いてゆく。亀裂が生じ、大質量の物質が動く音がそこかしこから聞こえてくる。その前に龍は翼を広げていた。最早その場のものに何らの興味を持たないかのように、龍は飛び立った。
身を起こしながらもレイディエンは己の心臓が異常なほど脈打っていることにようやく気付き、呼吸によってそれを自制した。
「化物め……!」
吐き捨てながら、水が刻々と量を増しながら流れ込んでくる音だけがやけに大きく聞こえた。崩壊が近い。