2 妖犬狼
全員呆気に取られたように動かなかった。
何故ここに転がり出たのかわからない、という顔の少女はエフェスの方を見、ついで幻魔兵を見て――「わぁッ!」と声を上げた。
先に走ったのは幻魔兵たちである。人質として使えれば良し。使えなければその場で始末。そういう腹積もりなのだろう。
「動くなッ!」
エフェスが叫んだ。少女はすぐその場で亀のようにうずくまった。エフェスの腕に縄めいた筋肉が浮き、手から剣が投じられる。鉄鞘が頭上を通り過ぎ、鐺が少女近くにまで迫ったゴベリヌスの頭を破砕した。
二番手のゴベリヌスを防いだのはエフェスの飛び蹴りである。ゴベリヌスは後退しない。尤もエフェスはそれを承知で蹴った。足場にして跳躍し、柄を掴んで地に突き立った剣を引き抜き、発達した背筋と跳躍の勢いで振り下ろす。天龍剣〈大蛟降瀧〉の崩しである。この一撃がゴベリヌスの頭部を粉砕し、更に折よく飛び込んできた個体の胴を薙ぎ払う。
地に黒紫の焔が上がった。幻魔焔である。死した幻魔兵はこのようになる。不浄の焔が消えれば塵が残り、風に吹かれればそれすら残らない。
「……もう全員やっつけた?」
「別に怪我はなさそうだな」
エフェスはちらと少女の方をみやった。少女は身を起こし、服についた土をはたき落とした。
「擦り傷くらいね。でも大したことはないわ……あら、一体残ってるじゃない」
「口数が多い奴がな」
「なら、さっさとやっつけちゃって」
エフェスは再度少女に視線をやった。秀でた額におさげにまとめた鮮紅の髪。大きな若草色の眼は如何にも勝ち気である。
「お前、あれが何なのかわかっているのか?」
「幻魔兵でしょ? ゴベリヌスっていう」
さらりと言い、少女が若草色の眼でエフェスを見返した。
「あなた、師匠と同じくらい強いわ。だから出来るわよ」
エフェスは追求をやめ、残った敵に視線を向けた。ここは先にゴベリヌスを排除すべきだ。
木々が動いた。
木立の影から出てきたのは灰色の狼である。ただしその体躯は狼というよりは虎に近い。その四肢は極めて逞しく、牙は唇からはみ出るほどに発達している。二つの眼は狼などよりずっと高い獰猛さを秘め、しかし確かな知性も垣間見える。少女が怯えた声を出した。
「な、何ッ!? あれ……」
「〈妖犬狼〉だ。幻魔獣――野良犬や野生の犬を調整して創られた、穢れた生き物だ」
「要するに動物版の幻魔兵って訳ね……」
「理解が早いな」
森の暗がりから、獰猛な二対の視線がこちらを向いていることに気づく。数は確認されているだけで十頭余り。エフェスの眉根が寄った。狡猾にも姿を現しているワーグは一頭のみに留め、注意を散漫にさせようという肚らしい。
狼どもの目論見は、実際に当たっていた。少女とエフェスには縁も利害もない。だが見捨てられぬのも事実である。幼い頃からの教えが彼を縛っていた。
「よ、ようやく来やがったか犬どもッ! とっととガキと野郎を殺っちまえッ!」
残ったゴベリヌスが喚き出すのへ、ワーグは露骨に馬鹿にしたように鼻を鳴らした。声帯は狼のそれよりやや発達した程度で人語は話せぬが、言葉を解し、独自の言語を持つだけの知能はあるのだ。
「……勝てるの?」
少女が呟いた。圧し殺した不安さが言葉に籠もっていた。
エフェスはゆっくりと息を吐いた。少女の言葉が迷いを消したと言っていい。
「少し離れていろ。あの岩の陰だ」
少女が頷き、指し示された場所に行った。
ワーグは十頭揃えば飛竜をも狩るという。自分だけならばともかく護るべき対象を抱えていては、「素肌」で片付けるのはやはり無理がある。
エフェスの左手が鞘を掴んだ。
「抜剣、装甲」
鍔を封じた鉄鎖が砕ける。青い刃の龍魂剣が抜き放たれる。剣の刀身から雷光が眩く輝き、ゴベリヌスやワーグらの視界を奪う。
鞘がエフェスを取り巻き、甲冑となって彼はそれを身に帯びる。
やがて人型の龍とも呼ぶべき黒鉄の戦士が姿を現す。超常の力を持つ獣神騎士が。
「天龍騎士エフェス、参る」
累代の称号を静かに告げるや、騎士は天高く剣の切先を掲げた。上空に黒雲が渦を巻き始めた。
高く吠え声を上げてワーグが跳躍し、襲いかかってきた。口吻からはみ出るほどに発達した乱杭歯は岩をも噛み砕くほどに固く鋭い。体躯の大きさも合わさって、ゴベリヌスよりもずっと恐るべき相手である。
エフェスは滑らかそのものの動きで剣を揮った。龍魂剣はワーグの鼻面に潜り込むと、その巨体を二つに割った。
その血の一滴が落ちるよりもなお速く、エフェスは地を蹴った。木々の間から二頭のワーグが飛び出し迎え討つが、すれ違いざまに二頭が首を、あるいは腹を裂かれた。余勢のままに森の闇に飛び込むと、三度紫電が閃き、三頭の狼が悲鳴を上げた。
その速さはまさに迅雷。少女は無論のことゴベリヌスにも何が起きているのか理解が追いつかない。六頭の同類が斬殺の憂き目を見たワーグの反応は流石に早かったが、それでもエフェスの剣の餌食になるばかりである。
「クソッ、何だってンだッ、クソッ!」
ゴベリヌスが悪態をつきながら、一際大きなワーグの背中に乗った。ワーグも拒まない。
ワーグの頭部が、岩陰の少女の前に転がってきた。小さい悲鳴を思わず漏らしながら、それを遠くに蹴った。
「そうだ、あのガキ!」
ゴベリヌスの乗ったワーグが走った。鎧の剣士が何者かは知らないが、ワーグを膾にすることに夢中で守りがお留守になっている。そこを突けば――
紫電がすれ違い、ゴベリヌスとワーグを一度に両断した。
「装甲解除」
残心し、エフェスは装甲を解いた。獣神甲冑〈鉄鱗龍〉がバラバラになり、龍魂剣を取り巻いて鉄鞘の形状になる。黒ずくめの青年は剣を背負った。
「……本当に全部やっつけちゃった」
二体の屍は共に幻魔焔に包まれた。森の中でも黒紫の焔が鬼火めいて揺れている。呆然としたように少女が呟いた。
「焔には触れるなよ。肌が爛れるぞ」
「……美容の天敵ね」
二尺ほど右で燃えるワーグの首の幻魔焔を見ながら、少女が言った。
「ところで、今の鎧は何? 殆ど見えなかったんだけど――」
少女の問にエフェスは応えなかった。一体のワーグが木々の間から出てきたからだ。灰色の体毛は血に塗れ、右の前脚を失っている。喉の奥からひっきりなしに唸り声が聞こえる。
討ち漏らしである。舌打ちしたくなる気分を抑え、エフェスは少女をかばう位置に移動した。
胸のむかつきを自覚した。体内の気脈が乱れているのだ。獣神甲冑は甚大な力を騎士に与えるが、同時に力の反動も凄まじい。加えて立て続けの装甲は疲弊の度合が段違いに跳ね上がる。ここは鉄鞘で殴り殺すに如くはない。
更には前から人影が近づいていた。
身の丈六尺(約百八十センチメートル)のエフェスをも上回る、黒髪黒瞳の巨漢である。四肢は逞しく、両腕はごつい鉄篭手で覆われている。長い髪を項でまとめて編み上げおり、その眉毛は特徴的である。
この男、幻魔兵か。エフェスがそう思ったのも無理からぬことだった。男は明らかに北方民族――白虎平原の民の顔立ちをしていた。背負った剣の柄を強く握る。
同時に、ワーグと巨漢が疾走した。どちらへの攻撃を優先すべきか、エフェスは疲弊のためにか僅かに逡巡した。
結果から言えば、攻撃の必要はなかった。
巨漢はワーグの方へ向かった。間合に踏み込むと共に、鉄篭手に覆われた腕でその鼻面を打つ音が響いた。怯んだワーグの背中に男の巨躯が飛び乗った。幻魔獣が振り落とさんと暴れる。その首に男の太い腕が巻き付いた。
擒拿術か、とエフェスは思った。即ち柔とも関節技とも言われる徒手戦闘術である。
男の狙うところは明らかだ。擒拿、截脈、閉気――頸骨の破断、気管及び頸動脈の圧迫――いずれ一つでも完全に極まれば十分致命的である。
しかしあまりに膂力の違い過ぎる相手に対しては、擒拿術は決して効果的ではない。関節を極める前に振りほどかれたり、あるいは力任せに妨害・殺害されたりして無効化されるからだ。
ましてや幻魔獣は人智の埒外の生物である。男の腕は熊の首をも圧し折りそうな腕ではあるが、果たしてどこまで通用するものか――
逞しい男の腕が更に膨れ上がると見るや、ワーグの首から重い音がした。巨狼の身体が痙攣した。更には腕は口吻にまで絡みつき、
「――奮ッ!」
気合一声、一息にワーグの首を本来回らない角度にまで回す。先程までの暴れぶりが嘘のように、狼は緩慢に崩れた。男は立ち上がった。
流石に、エフェスも唖然として幻魔獣の屍を見つめた。力なく開いた口吻からだらしなく舌と唾液を垂らした死体が、やはり幻魔の焔に燃え上がる。
何たる怪力か、この男はワーグの頸骨を折り砕き、脊髄をねじ切って殺したのだ。
男はエフェスと少女の方に向き直り、笑みを浮かべた。男らしい、太い笑みだった。