4 山羊と兎と
「――高い高い高い高い!! 待て! 勝手に行くんじゃないよ山羊君!!」
突如として走り出した山羊の背で、シェラミスは悲鳴を上げた。先行していたエフェスのエアレーが賢くも道を開ける。追い抜いたところで山羊は並足に速度を緩めた。
「こんなところで走り出すんじゃないよ! そして誰だ、こんなところを行こうとか言い出した奴は!」
「あんたよね、シェラミス」
「……全くあたしの馬鹿め、いくら最短ルートだからってこんな険路を……いかん、そっちに行くんじゃない!」
アルジェに対して自分を罵りながら、シェラミスは山羊の制御に大忙しである。ちなみにシェラミスは完全な文官肌で、乗馬も不得手なくらいなのだ。曲がりなりにも獣神騎士たちと行動ができているのは、山羊が相当に我慢もしくは譲歩しているのだろうというのが一行の共通認識だった。
山羊の蹄に引っかかった小石が遥か谷底に落ちていく。思わずその行方を眼で追ってしまい、シェラミスはひっと息を呑む。彼女は高所恐怖症でもあった。
岩の断崖に作られた古く狭い道である。一行の右手から下を覗けば、霧に霞む深い谷の底にはうっすらと渓流が見える。飛び降りたら決して五体満足ではいられまい。
「怖いなら尚更下を見るんじゃないぞ」
「どうして崖っぷちから下を覗くと飛び降りたくなるんだろう……」
「見ないよ! 知らないよ! ならないよ!」
ヴァリウスが忠言めかして言い、ダーレルが下を覗きこんで呟く。最後にシェラミスが喚きながら身を震わせる。
この地域は英雄シェンダーが旧ビスステーン帝国の手から逃れてハンシュー王国を築いたという古い伝承が残り、シェンダーが少数の手勢を率いて通ったのもこの道であるらしい。しかし英雄たちの勇気ある行軍の記憶も、今はより現実的な、本能的恐怖が完全に上書きしてしまっているようだった。
本来山羊を操るはずのユーリルは先行して偵察に出ている。不安がったシェラミスへこの山羊は頭がいいから大丈夫だとダーレルが請け合ったが、
「……こいつ、どうもあたしを舐めてるとしか思えないんだけど!」
足を速めたと思ったら一休みして路傍の草を食む山羊の腹へ、背に乗ったままのシェラミスが蹴りを入れた。通常の種より二回りは大きいカザレラ山羊は、少女の一撃をまるで意に介することなく食事を続けている。主の危機を微笑ましげに見守っていたランズロウがエアレーに乗ったまま山羊に近づき、その角を撫でながら言った。
「こいつ、そう言えば獣神騎士の気配にも怯えないんですね」
「鈍感なんだろう。馬みたいな繊細さはこいつらにはないよ」
「そういうこと言ってると振り落とされるよシェラミス師……山一帯の山羊はガレイン叔父さんが世話してたからかな。慣れもあるんだと思う」
山羊が鈍感かどうかはともかく、馬がその繊細さ故に獣神騎士の乗り物には向かないのは事実である。獣神騎士の気配は、例え鎧わずとも通常の獣を怯えさせるのだ。彼らに好んで近づいてくるのは魔力に反応する魔獣や魔蟲くらいのものであろう。
「皆様」
崖の上部から比較的緩やかな個所を選んで、蔦伝いにユーリルが滑り降りてきた。静かに土埃を払いつつ、斥候の結果を報告する。
「彼らは遺跡に辿りついています。そして、やはり周囲には斥候を潜伏させています。攻撃の意図は見えませんでしたが、御用心を」
「御苦労様、ユーリル」
シェラミスがねぎらうと、当然のようにユーリルは山羊に相乗りした。途端に山羊は草を食むのをやめ、小走りに進み始める。シェラミスはむっとした表情を一瞬だけ見せたが何も言わなかった。
エフェスは無口だった。元々冗談を好んだりもしなければ無駄口を叩き続けるような男ではもないが、今は殊更緘黙の傾向が強い。その一方で彼の脳内では出口のない思惟が渦巻いている様子だった。独断専行こそしないが、必要とあればはけ口を求めて噴出する水のように、エフェスは動き出すだろう、というのが大方の予想だった。
来たるべき幻魔騎士バイロンこと父レガートとの闘いのために。
「奴らの目的は、何だ」
そのエフェスが口を開いた。アルジェが同意の言葉を口にする。
「確かに。マーベルの身柄を手に入れたことと、カリギス遺跡まであたしたちを呼び寄せたこと。この二つにつながりが見えないのよね」
「まだ仮説段階だけど」
そう前置きながら、シェラミスが山羊の背で揺られつつ言った。
「カリギス遺跡は現存する唯一のベヘモット大神殿だ。神殿には概ね霊脈が付き物、というか霊脈の通り道を選んで建てられるものなんだ。そして大神殿ともなれば尚更霊脈は太い。魔殖樹を植えるだけではもったいないと思えるくらいにね」
「つまり……どういうこと?」
「勿体つけるなよ、シェラミス師。お前さんには概ね見当がついてるんだろう?」
「……お前さんっていうのはやめてくれないかなぁヴァリウス殿。あんまり好きじゃないんだよその呼称は」
ぼやきながらシェラミスは指先を眉間に当てる。
「獣神騎士、乃至は獣神甲冑の拿捕。恐らく目当てはエフェスだ」
「出来る――のでしょうね」
エアレーをシェラミスらの山羊に並走させながらランズロウが言った。彼自身はシェラミスを手のかかる妹のように扱うことがしばしばだが、その知識や見識を侮ったことは一度もなかった。
「不可能じゃないだろう。大神殿の霊脈からありったけの魔力を引き出せればね。あのエルフの神官長と答え合わせをしてみたところ、幻魔甲冑というやつは獣神甲冑やその媒体となりうるような物品を汚染して仕立て上げたものだ」
「……ここに獣神騎士四領、揃ってしまってますよね。うかうかと罠に嵌まりに来たようなものでは?」
ランズロウが訝しんだ。そんな彼にユーリルがちらと冷淡な視線を向ける。
「ランズロウ、獣神騎士なら罠に飛び込んだ上で食い破る、くらい大言壮語してみたら如何ですか」
「おやおや、ユーリルが手厳しいことを言うものだね、珍しい」
「同僚が弱気になっているのでけしかけてみました」
「もっと言ってやってくれ。最近のランズロウは増長し過ぎなんだ」
「それよりも、ですよ。エフェスとバイロンを何度も交戦させた目的は?」
ランズロウは露骨に話題を変えた。答えたのはヴァリウスだ。
「エフェスの精神を揺さぶるためだろうな。覇国は天龍剣を、そして獣神騎士を長い間好敵手として見てきた。その継承者をまとめて手中に収めるなんて、最高に――その、興奮するだろうな」
ヴァリウスが言い淀んだのは、どうやら少々品性に欠ける形容を言い直したためであるものらしい。それを知ってか知らずかシェラミスが後を引き継ぐ。
「確かに将棋で言えば飛車角総取り、チェスなら女王を取っちまうようなものだね。全く強欲極まれりだよ。その上、業腹だが我々にはこの罠に乗っかる以外の選択肢がない。どこまで覇国の謀臣の計算なのかは知らないけれどさ」
「この計画の大筋を編んだのは覇王バンゲルグ、詳細を詰めたのはレイディエン、といったところかな」
「幻魔騎士レイディエン、か。勝利のためならば何一つ禁忌と見なさない、あたしが好きになれない性格の男なんだろうな」
「奴と俺は兄弟弟子だったが、詳しくは知らん。ただ奴と当時の俺が、互いに義兄弟とかの仲になりたいと思わなかったことは事実だな」
余計な疑いを抱かせないためにも、ヴァリウスは自分が覇王の孫であり、廃嫡された親王であることを皆に明かしている。ヴァリウスしか知らない覇国の情報は新旧織り交ざっているが、精査すれば今後の戦役の推移に利するものもあるだろう。もちろん生きて持ち帰ることが出来れば、の話だが。
やがて遺跡に辿り着いた。荒涼とした大地に雑草に覆われた廃墟が立ち並ぶ。済んだ湖面の湖だけがやけに眩しく、異様ですらある。周囲を見渡しながら、シェラミスは言った。
「カリギス遺跡は地下が本体と聞いてるけど、どこが入口なんだろう? ダーレル、わかる?」
「門は自ずと開かれるって叔父さんは言ってたけど……」
気づくと、ダーレルの胸元で淡い光が灯っていた。ダーレルは急いで護符を取り出す。アミュレット自体が発光しているのだ。外気にさらすとそれは細い針のような光を放っていた。ダーレルが移動すると角度が変わった。
「ダーレル、多分だけど、光の針が指し示すところに」
少し興奮するシェラミスの袖をアルジェが引っ張った
「ねえシェラミス、兎がいるんだけど」
「ウサギ? 今更そんなのどうでもいいよ」
「ほら、そっち」
アルジェが指を差すのと、ヴァリウスが指弾を放つのと、その兎が宙返りのように跳ねるのは殆ど同じタイミングだった。シェラミスは眉根を寄せる。
「……ヴァリウス、動物虐待はいい趣味とは言いかねるな」
「馬鹿を仰るな。ただの兎が俺の指弾を躱せるものかよ」
兎は廃墟の陰に隠れ、一帯に響き渡るほど甲高く鳴いた。すると同種の兎がぞろぞろと出現する。
「そもそも獣神騎士が来たのに、何故奴らは群れで出てきたんだ?」
兎たちが一行めがけて襲い掛かってきた。通常の獣は獣神騎士の気配にも怯える。襲ってくるのは魔獣くらい――ではこの兎は?
「魔獣だ!」
「やっぱり!」
シェラミスとアルジェが殆ど叫ぶように声を上げる。兎の先頭集団はシェラミスが一番近い。相乗りするユーリルが鞭を手にするより早く、エフェスのエアレーが前に出た。速度を加えた鉄鞘の剣が、兎三頭をまとめて血肉の塊に変える。
「ダーレル、急げ! 早く入口を見つけろ!」




