2 龍の番(つがい)
最初の仕合は少年の負けだった。少年の木剣が彼女を捉えたと思った寸前に空を切り、リュイカの剣は思いも寄らない変化をして、散々に少年を打ち据えた。リュイカの太刀筋は遠くから見たファルコの太刀筋に似て変幻自在で留まることを知らなかった。
同年代の少女への敗北。その夜少年は眠れなかった。少年は寝床で、痛みと熱とそれ以上の悔しさに輾転反側した挙句、更に強くなるしかないと考えた。
当初は一人で、見様見真似の猛特訓を行なった。一月後、一人だけで強くなるには限界があると気づいた。少年はファルコに初めて頭を下げた。
「教えて欲しければ私のことは師父と呼べ。リウィアは師母だ。わかったな、孺子」
ファルコは修行を少年に課した。「師父」ファルコが手を離せぬときには「師母」リウィアが読み書きや日常生活のあれこれを教えた。リウィアは少年へ言うことを聞かせるために直接的な手段を取ることはなかったが、彼女が「ここに直りなさい」と厳しい口調で告げると、少年は逆らうことが出来なかった。
こうして少年は着実に強くなっていった。元々身体能力が優れていたのもあるが、彼には野性的とも言うべき戦闘の勘があった。そこに理論と技術が身についたのだ。
しかもファルコたちが思っていた以上に、彼は強くなることに対して貪欲だった。師兄師姉たちと混じって木剣を揮い、打ちのめされながらもその技術を真綿のように吸収していった。
ファルコが他の弟子と共に少年も伴って下山することも次第に増えた。時には少年一人を連れて山に籠もることすらあった。
少年へ接する態度は極めて厳しいものだったが、彼が師父のお気に入りであることは弟子や村民の眼からも明らかだった。それに気づかなかったのは当の少年だけだったろう。
こうしてリュイカと少年の技倆は次第に拮抗し、ファルコに教えを乞うようになって一年が経つ頃には、リュイカは少年に全く歯が立たなくなっていた。
「嘘よ、こんなの嘘よ!」
少年との最後の仕合が終わった後、乙女は人目をはばかることなく泣き喚いた。どんな惨敗を喫しても屹然たる眼差しのままだったリュイカの涙は、少年を困惑させた。
リュイカが泣いたのは、ただ単に敗北の悔しさのためだけではない。この仕合で少年が勝てば彼を婿と決定する旨を父から言い含められていたからである。少年の脳裏に師父母と交わしたある日の会話が思い出された。
「婿とは何なのですか、師父?」
「孺子、お前がリュイカの番となるのだ」
「子を成せ、ということですか」
「簡単に言えばそうなる。とは言え、人と人が番になるというのは存外面倒が多いのだ」
「手順と言いなさいませ、ファルコ。とは言え坊や、あなたもリュイカのことは嫌じゃないのでしょう?」
嫌いではなかった。しかし野生児には乙女の心がわからない。彼は師母になだめられてもなお泣くのをやめないリュイカを見ながら、果たしてこのまま無事彼女と番うことなど出来るのだろうか、などと極めて人間らしい心配をした。
ところで少年は長い間固有の名前を持たなかった。ファルコは「孺子」と呼び、リウィアは「坊や」と呼んだ。その他門弟からは「坊主」と呼ばれた。
ファルコをはじめ多くの人間が彼に固有の名前を与えようとした。しかしそのいずれにも少年は慣れることが出来ず、名付けを拒否し続けた。
仕合の翌日、リュイカが宣言した。
「名無しのお婿なんて考えられない。わたしが名前を付けてあげます。レガート、それがあなたの名前。いい?」
リウィアはこの名前に呆れた。中継ぎ。それは少年の運命を示すものだったからだ。
天龍剣の正当後継者は男女どちらでも構わないし、何ならドレイクの直系ではない者が選ばれた例もある。しかしどんなに腕が立とうとも、龍脊山脈で産まれた、父祖マルドゥークの血を引く者でなければならないという不文律が存在していた。リュイカとの間にドレイクの血を継ぐ子を為すための中継ぎ。極言すればそれがリュイカの婿の役割なのだった。
リュイカの意地悪でもあるが、同時にこれは照れ隠しなのだとリウィアは気づいた。髪を梳られながら、夜毎リュイカは少年のことを母に話した。その口ぶりからも、娘が彼のことを憎からず思っていることはわかっていた。呆れると同時にリウィアは微笑し、少女と少年に暖かい視線を送った。
夫のファルコはと言えば、謹厳な表情の中に何とも言えぬ感情を秘めているようだった。それがリウィアを更に可笑しくさせた。
こうして少年はレガートになった。
いくつかの季節が過ぎた。
ある歳の冬、役人になるためジャストン・メリヴという少年が山を降りることになっていた。彼は生来虚弱で十度の木剣の素振りも困難だったが、読書を好み、極めて優れた記憶力があった。その明晰な頭脳をある国の上級役人が眼をつけたのだ。龍脊山脈出身の者は骨身を惜しまず働く性質の他、天龍剣総本山との繋ぎのために重宝されていた。
出立の前日、雪の深い木立へジャストンは幼馴染のリュイカを呼び出し、金鎖に繋がれたペンダントを手渡した。二寸ほどのその中には、極めて精緻なリュイカの肖像画が描かれていた。
「わたし、ジャストンは画家になると思ってた」
「僕程度じゃ徒弟にしかなれないさ。僕なんかよりずっと上手い人はいっぱいいる。それに、絵を誰かに認められたい訳じゃない。趣味のままでいいんだ。役人として偉くなれば、好きに絵を描いていられる」
リュイカは笑った。
「ありがとう、ジャストン。大切にするね」
ジャストンははにかむように微笑して、その場から立ち去った。二人の様子を遠くから見守りながら、レガートは何とも言えない思いが胸のあたりに渦巻くのを感じた。
更に時は過ぎ、レガートとリュイカは結婚した。二人の結婚を多くの人々が祝福した。その中にジャストン・メリヴはいないことをリュイカは気に病んだが、しばらくすれば喜びが勝った。
やがてリュイカは懐妊した。




