13 疵の痛みは
襲撃から二日を経ていた。
あのとき、村の入口にリウィアは立っていた。村の代表として、ドレイクの刀自として、そうすべきだと思ったからだ。
「騎士が迫ってきました。燃える鬣の、馬ともつかぬ騎獣に乗った鎧の騎士。その姿を見て私は恐怖を忘れ、思わず呟いたのです。レガートなの、と」
幻魔騎士バイロンの剛刀が振り下ろされれば、老女の肉体など容易く消し飛んだに違いない。しかし幻魔騎士は束の間、明らかに逡巡した。例えば、マーベルが二人の間に割って入ることが出来る程度に。
「……あの者がレガートだと確信出来ても、私を殺さないという確信はありませんでした。マーベルお嬢さんは私を庇うように突き飛ばしました」
祖母は左掌に巻いた包帯を右手でさすった。転倒して傷ついたのだろうとエフェスは察した。
「あの者……レガートとマーベルお嬢さんとの間にどうしようもない力量差が横たわっていることは、すぐにわかりました。お嬢さんが放った矢は全て叩き落され、首筋に苦もなく手刀を入れられました。糸の切れた人形のように崩れ落ちた彼女を見て、私は少し安心しました。すぐに殺される危惧はないだろうと考えたからです」
ともあれバイロンたるレガートは気絶したマーベルを抱え、下山を開始した。後はエフェスも知る通りである。
「あのような鎧を身につけていても、一目でわかりました。尤も、幼い頃に別れたエフェスがわからなかったとしても無理はないでしょう」
エフェスは部屋の窓の外を見た。村長の役を担うこの家は高台にあり、村の様子を一望できるのだ。
侵入してきた覇国兵によって村の家屋はかなりの被害を受けていたが、村人に危害や犠牲はなかったようだ。迅速な避難がよかったらしい。ただホゼの容態は今も安定しない。恐らく今日が峠だろう。ホゼの体力に賭けるしかないのだった。
「これからが大変よね。皆年寄ばかりだから」
祖母が望めば、山には天龍剣の門弟がいくらでも来るはずだ。しかしそれはしたくないようだ。そうも言っていられないのだけど、と祖母は嘆息した。だがエフェスは足りぬはずの人足の中に、樽のような体型の男たちを認めた。
「……ドワーフたちが手伝っているようですが」
「お前のお友達と聞きました」
語弊があると思いながら、祖母の笑顔を見ては否定しきれないエフェスだった。
「……嬉しそうですね、祖母上」
「エフェスには子供の頃から友達が少ないようでしたから」
また窓の外を見やると、イノエとグンライが歩いていた。共に沈鬱な表情で、口を開かない。険悪とも少し異なる空気だが、彼らは人目をはばかるように家屋の裏へ行った。
エフェスは祖母に一言断り、彼らを追った。左の肩口が引きつるように痛むが、気にしていられない。
一触即発と言った空気だ。一定の距離を保ち、成り行きを見守ることにした。
「イノエよ、あれは――あのバイロンという男は、レガートではないのか!?」
「……その通りだ」
「何故だ。何故レガートがホゼを斬った! あまつさえあの男は師父を斬ったではないか! 自分の岳父をだぞ! 仮初にも天龍剣を学んだ者が何故――」
グンライがイノエを睨み、肩を掴んだ。
「イノエ、お前、知っておったな」
「そうだ。お主には言えなかったのでな」
イノエはグンライの背後に視線をやる。エフェスが立っている。グンライもまたエフェスに気づき、掴んでいたイノエの肩を離した。
「お主は隠し事が出来ぬからの。お主から若に漏れるのを危ぶんでの仕儀だ。……相済まぬ、二人共。許してくれ」
「いや、う、うむ……」
イノエが頭を下げると、グンライは理不尽を飲み込むようなしかめ面になった。
「しかし……よもや、その指示を下したのは」
「私です」
エフェスの後から来たリウィアが言った。エフェスは彼女に向き直った。
「祖母上、それは俺の未熟さのためですか」
「……如何に古老たちがお前に過酷を極めた修行を課そうと、修行は不完全でした。――天龍騎士の修行は天龍剣の修行と必ずしも同一ではない、とは生前のファルコも言っていたことです。それにお前のため、天龍剣流派全体のためでもありました」
「俺のため?」
「天龍剣全体の意向として、総帥たるファルコの仇は何としても斬らねばならない。それを為すのは後継者たるエフェスであるべし。なれどファルコの婿が岳父を斬ったという事実は醜聞の種になり得るため伏せねばなりませんでしたし、何より後継者たるお前に親殺しの瑕疵を与えてはならない――古老たちと共にそう結論し、幻魔騎士バイロンがレガートであることは一部の者しか報せぬままにしました。……その決断が正しかったのかは、今となってはわかりません」
なるほど、とエフェスは思った。理屈はよくわかる。
「では俺は……実の祖父の仇を実の父と知らず闘い続けてきたということですか」
その声音の冷たさに、グンライとホゼがぎくりと肩をそびやかした。古老たちも祖母も、エフェスの将来や立場を十分慮った上で下した結論なのだろう。しかしそれは、バイロンたるレガートとエフェスが闘うことになる蓋然性を完全に無視していた。そして実際に闘ったエフェスの感情をまるで考慮していなかった。祖母や古老たちの方針に対して従順なつもりだったが、恨み言のひとつくらいエフェスにも言う資格はあるはずだ。
リウィアは無表情に言った。
「そうなります」
「……それはないでしょう、祖母上」
毒を飲み下すような表情で口にした。
「これだけは言わせてください。それはないでしょう、祖母上。俺は、血を分けた父と知らぬ間に骨肉の争いを演じ、殺されかけ、殺しかけたということですか。それはないでしょう……」
毒のように苦い唾を飲み下し、やっとのことで思いの丈を吐き出した。人目さえなければ泣いていたかも知れない。しかしそれは出来なかった。例え誰の前でさえ一度膝を折ってしまったら、二度と立ち上がれない気がしていた。
「ごめんなさい、エフェス。お前の辛さを誰も理解してやれなかった」
口の中で唾液が苦さを増す。様々な思いがエフェスの胸に去来した。しかし口に出したのはそれらとは全く別のことだった。
「……何故父は背いたのです?」
「恐らくは覇国の用いる外法に絡め取られているのでしょう。レガートは剣しか知らぬ男です。間違っても個人的な思想や怨恨で天龍剣に敵対する男ではありませんよ。だから私は裏切り者とは呼びません」
それだけは疑うな、という口調だった。祖母の眼がエフェスを見つめてきた。
「エフェス、レガートを斬れますか?」
「わかりません」
「闘えますか?」
「わかりません」
「では、迷いを捨てなさい」
祖母は真っ直ぐにエフェスを見つめてきた。
「あのバイロンが何者であるかという思いは、この際捨てなさい。何者であれ排撃すべき敵、そう思い定めて闘いなさい。それがドレイクの男、ドレイクの剣士というものです」
断固たる口調でそう言って、苦いような淡い笑みを浮かべる。
「……何、捨てたものは後でまた拾えば良いのです。思いもまた同じこと」
祖母はエフェスを抱きしめてきた。思いもよらぬ腕の細さに、エフェスは内心動揺した。
「約束して、エフェス。必ずあなたは行きて帰りなさい。マーベルお嬢さんも一緒に、ね」
「必ずや、共に戻ります」
祖母がレガートの名を言わない意味は、エフェスにもすぐ理解出来た。それをエフェスも口にしなかった。
父への思いや執着は捨てろ。後で拾えばいいのだから――それが存外難しいこともわかっていた。
× × × ×
エフェスは頬の絆創膏を剥がして捨てた。
出発の準備に要した時間は短かった。目的はマーベルの奪還である。それに、幻魔騎士は期限を切らなかった。可及的速やかにカリギス遺跡へ来いということだろうとエフェスは判断した。
「どこへ行くつもりだい、エフェス・ドレイク?」
村の入り口に差し掛かったところで声をかけてきたのはシェラミス・フィファルデだった。側に控えていたユーリルが曳いているのは、大型の山羊の轡である。
「全く君はよくよく独断専行したがる男だよね?」
「あんたには関係ない」
「それが大有りなんだ。君はマーベル・ホリゾントの素性を知ってるの?」
アズレア公国の騎士という以外は知らなかった。その後をついでユーリルが体温を感じさせない口調で言った。
「マーベル・ホリゾント卿はアズレア現大公の異母妹、先代オスカー大公の御落胤です。母はユージェリー・ホリゾント卿。マーベル卿は母上の名跡を継いだようですね」
「そういうことでね。彼女自身は大公位継承権を放棄しているが、やはり身柄に危機が及ぶのをこのまま放置すれば、ヘブリッドとアズレアの国際問題になってしまうんだ」
「そうか」
「……何だ、案外驚かないね?」
その段階はとっくに通り過ぎていた。真に驚くべきものはとっくに見ていた。
「それより、あんたは何でここに来た?」
「質問を質問で返すんじゃないよ。……君がカザレラ村で寝ている間にも、ドワーフたちは戦の準備をしていたのさ。そんな折、エルフの神官長一同がお忍びでやってきてね、君が危地に陥るだろうから、行ってやれと居丈高に言われたよ。――全く、どうしてエルフって奴らはいっつも偉そうなんだ?」
「彼らの技術供与で鉄炮の完成度が上がったのでしょう? ならいいじゃないですか」
声の主は、五人連れで歩いてきたランズロウである。大柄な影はヴァリウスとダーレル、小柄な影はアルジェと縮緬問屋の御隠居だ。シェラミスは自分の従僕と、何故か隠居の老人に不機嫌そうな視線を向けた。
「有り難いけどさ、あいつらの態度が気に食わないって話だよ。あの神官長と来たらあんたそっくりですよ、祖父様」
老人――シェラミスの祖父ヒエロニムス・フィファルデは愉快そうに笑った。
「さもありなん。儂も若い頃は神官長アーディル殿の薫陶を大いに受けた。一人の只人の想像も及ばぬほど長寿の方だ、大いに学ぶが良い」
シェラミスは淑女らしくなく舌打ちした。
「……それはそれとしてダーレル、メルチェルは?」
「大工仕事見張るってよ。それに俺は叔父さんの名代だ」
ダーレルは鉄棒と杖の如きものの他、腰のベルトに蓮根めいた鉄塊を帯びていた。
「あたしも同行するわ。見るものを見てこいと神官長に言われてるし」
「……ま、手札は多くて悪いことはないからね」
胸を反らして言うアルジェに対し、シェラミスは何となく皮肉っぽい言葉を呟く。神官長の縁者であることが気に食わないに違いない。
「儂も行きたかったのだが喃。流石にこの歳だ、急行軍で下山後地下遺跡の探索というのはちと堪える」
ヒエロニムスはちらと孫娘を見た。
「頼むぞ、シェラミス」
「わかってますよ祖父様。面白いものがあったら報告書として提出します」
祖父と孫娘が会話をする中、エフェスはダーレルに視線を向けた。
「ダーレル、ガレイン師兄は?」
「体調は心配ない、傷は順調に癒えてるようだった。カザレラで反覇国勢力の取りまとめをやってるはずだよ」
「お前が名代、というのは?」
「これだ」
ダーレルは首に下げた護符を引っ張り出した。二本角の肉食獣とも見える剛角獣を象った護符だ。それを見て、エフェスは流石に目を剥いた。
「俺が後継者だってさ」
ダーレルは名状しがたい表情で言った。これを渡されたことに困惑している表情だ。エフェスは首肯した。
「剛角騎士ガレイン直々の後継者指名だ。俺からは何も言うことはない」
「そこの二人にも言われたけどさ……」
親指でヴァリウスとランズロウを差す。
「諦めろ」とヴァリウスが言い、「運命には逆らえないよ」とランズロウが言う。恐らくこの二人にダーレルが相談した際にも同じことを言われたのだろう。
「受け入れるんだな」
獣神騎士の後継者。ダーレルはその重圧に耐えるような表情をした。その顔を見ながら、エフェスは口が酸っぱくなるような思いがした。
「俺からも言っておくことがある。幻魔騎士バイロンは俺の父レガートだ」
皆の視線がエフェスに向いた。
「俺自身が決着をつけなければならない。そのために、力を貸してくれ」
ヴァリウスがぼそりと呟く。
「……君、『頼む』とか出来たんだな」
「何か、意外と言うか何と言うか……」
「あたし、エフェスが頭を下げるの初めて見たわ」
本当に驚いたと言うか、虚を衝かれた一同の反応。エフェスは続けた。
「それに……あいつには借りが出来た。あいつは自分の命を省みることなく、祖母の命を救ってくれた。俺にとっては命を懸けるに十分過ぎる理由だ」
シェラミスが首を捻った。
「ううん? マーベルも、君の父君も助けるつもり? ちょっと欲張りすぎじゃない?」
「違うぞシェラミス師。エフェスはバイロンを倒すつもりだ。そうだろう?」
ヴァリウスが瀬踏みを迫る視線をエフェスに向けてくる。エフェスは頷いた。
「そうだ。父は覇国の外法に絡め取られた。救う術があるならば教えてほしいが……ないのだろう、フィファルデの魔術師よ?」
「ない」
ヒエロニムスがあっさりと言う。
「少なくとも現時点では覇国の調整を破ることは不可能だ。しかし被調整者が極めて強靭な精神力を持っていて、その支配に今なお内心抗い続けている、という条件ならばあるいは……だが検証も傍証も足りぬ故、仮説でしかない。希望を持て、などとは到底言えぬ」
「十分だ、ヒエロニムス師」
エフェスはここにはいない敵を睨む眼をした。父は助けることは出来ぬ。希望が消え、覚悟は定まった。
「俺は父を倒す。彼女を助け出し、もう一度ここに戻る」
× × × × ×
一同は旅立った。高台の上でそれを見届けながら、リウィアは呟いた。それは祈りの言葉だった。祈らずにはいられなかった。
「……お願い、リュイカ、ファルコ。エフェスを、レガートを護って……」
空は残酷なまでに青く、その青さにリウィアの心は痛んだ。
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「第六章 虚無なる牙」了。「第七章 獣神変」に続く……
 




