5 不浄の焔の中
「獣神戦技〈雲龍鬚〉」
雷気によってエフェスは敵の陣容を概ね把握する。百ずつの右翼と左翼によって挟み撃つ肚だろう。その中央後方に、抑えきれぬ禍々しくも巨大な気が在る。これこそ幻魔騎士バイロンに違いない。
そこへ突っ込んでゆくほど頭に血は昇っていなかった。猛る血気を多かれ少なかれ制御する必要があったにせよ、今のエフェスはまだ自制出来ていた。
獣神騎士二人もまた左右に分かれた。エフェスが右に、ヴァリウスが左に。
二人が視野に互いの存在をまだ認識出来ている距離のうち、先行した幻魔兵ゴベリヌスと鉢合わせする。彼らが反応する前に速度を上げて疾走したエフェスが通り過ぎる。――天龍剣〈龍爪截風〉、三度の剣閃が紫電を曳いて六体のゴベリヌスを膾のように輪切りにする。
ヴァリウスもまたその拳で、寄ってたかるゴベリヌスを打ち倒し、蹴りによって薙ぎ倒す。いずれも必殺の重みを持つ一撃だ。肉体の一部となっている幻魔甲冑がひしゃげてゆく。黒と紫の焔が点々と燃え上がる。
木立へ入った。
少し進むと視界いっぱいに幻魔焔が燃えている。暗い色の焔が〈鉄鱗龍〉の甲冑に触れかけたとき、鎧の地肌から雷華が踊って相殺した。獣神甲冑の自己防衛機能である。
同時に、疾走するエフェスの眼に迫りくるゴベリヌスの第二陣が入る。その後方で七丈の巨躯の影――オルクスが吼える。常人ならば気死しかねぬ、悍ましい咆哮だ。
無論虚仮威しに怯むエフェスではない。揺るがぬ魔瞳玉の朱い眼と青い切先を敵に向け、負けじと吼える。
「天龍剣〈飛龍輪〉!」
龍魂剣がその手から投じられ、風車のように回転して飛翔する。青い死の刃車が走るところ、ゴベリヌスの頭部や四肢が宙に舞う。
飛翔する刃車の切先から逃れた者もいる。怒りとも歓喜ともつかぬ甲高い叫びを上げ、間合に踏み込んだゴベリヌスが得物の手斧を振りかざす。エフェスは真っ向からの一撃を難なく躱しながら、その水月に正拳を打ち込む。次のゴベリヌスの側頭へ鉄靴の爪先が遠心力を加えて飛ぶ。撃ち抜かれた急所が陥没し、ゴベリヌスの吐き散らした血反吐が鎧に付着するより早く雷華が焼く。
剣の回転は続く。エフェスの前進もまた止まらない。
三体目のゴベリヌスの死因は戦友の携えていた手斧である。エフェスは一人目か二人目の取り落としたそれを拾い、投げた。錆びてはいるが凶器としては十分に鋭く重いそれがゴベリヌスの頭部に深々と突き刺さる。それを目撃してぎょっとしたように一瞬立ち尽くした四体目の肩口を、天龍騎士の手刀が襲う。甲冑に覆われた手刀は刀剣と変わることなく、深々とゴベリヌスを袈裟に斬り裂く。
オルクスが雄叫びを上げ、ゴベリヌスを半ば掻き分けるように肉迫してくる。得物は長さ四尺、厚み一寸以上の鉄板をただ乱雑に研いで柄をつけただけの肉切り包丁じみた大段平だ。
エフェスの手が、ゴベリヌスの血を散々に吸って戻ってきた龍魂剣の柄を掴む。
身の毛もよだちそうな音を立てて薙ぎつける大段平を、逆手の龍魂剣が受け止める。
エフェスはオルクスの胴へ蹴りを見舞いながら蜻蛉を切るようにして後ろへ翻転跳躍。掬い上げるように龍魂剣を揮う。切先が顎から頭頂へ走り、オルクスの頭部が真二つに斬り裂かれる。
二体目のオルクスが走り来て、エフェスが着地するより早く長柄の大斧を叩きつける。龍魂剣が揮われ火花が散り、エフェスは弾かれたように後退、剣を地に突き立てて敵を睨む。オルクスはゴベリヌスにせわしなく指示を下し、この機に乗じて攻め立てる。
――エフェスは蝶が舞っていることに気づいた。いや、あり得ない。獣神騎士がいる空間はあらゆる獣が怯える――少なくとも蝶も、だ。
前に出たゴベリヌスとエフェスの間を縫うように、一ダースの矢が断続して降り注いだ。ゴベリヌスが警戒して足を止める。オルクスの口から苦痛の呻きが漏れた。左眼に矢が突き立っている。
「天龍剣〈貫光迅雷〉!」
エフェスは一息に間合を詰めた。地を滑るように走った龍魂剣の刃は直線上のゴベリヌスの首を刎ね飛ばし、切先はオルクスの心臓を貫く。幻魔焔が燃え上がるよりなお早くエフェスは走る。
――今のはマーベルの矢だ。浮遊する蝶の如きものは舞う木の葉である。アルジェの使役する精霊がマーベルの眼の代わりをしているのだろう。
木の葉の蝶は焔を器用に避けてエフェスについてきている。
進んでゆくごとに森の幻魔焔が濃くなってゆく。対処する術を持たぬ者がここに脚を踏み入れたならば、即座に不浄の焔に巻かれて悶え死ぬことになるだろう。そしてこの焔が〈雲龍鬚〉を阻害しているために周囲を感じることができなくなっている。
眼の前に大岩が見えた。踏んで跳躍。無意識のうちにそう判断しかけたところで、もう一つの無意識が危険を告げる。エフェスは身を地を這いそうなほどに低くした。
岩を斜めに銀光が走る。それは〈鉄鱗龍〉の甲冑、その兜のすれすれを掠め過ぎ去った。追撃を目論んだか、岩の上に躍り上がった影があった。エフェスは上へ剣を走らせた。斬り上げる剣閃を紙一重で躱し、影が降り立つ。
鋭利な断面を晒し、岩が重々しい音を立ててゆっくり滑り落ちる。
暗く燃える焔の中、〈鉄鱗龍〉の魔瞳玉は生身の人間と見た。白い長袍をまとい、抜身の太刀を携えた細身の者。その眼は剣の切先のように鋭くも揺らぐことなく、エフェスに据えられている。
「天龍騎士エフェス・ドレイク。お初に御目にかかる。天龍剣独孤派、グラーコル・ドゥークス――立合が所望。否とは言うまいな?」
天龍剣独孤派――その存在についてはエフェスにも多少の知識を持っている。覇王バンゲルグ以前、ガウ氏と白虎平原に於ける覇を競ったタオバー氏の招聘に応じて龍脊山脈を下りた一族があった。その剣は虎の民同士の争乱により独自の発展を遂げ、いつしか彼らは一族の姓であるドゥークスに表意文字を当て「独孤派」を名乗るようになったという。
ドゥークスを名乗るこの剣士から、隠しようのない怒りや憎しみ、敵意や戦意と言った感情をエフェスは見て取る。
「無駄口を叩かずに力を示してみせろ。さもなくば去ね。この焔、生身で焼かれぬのは幻魔くらいのものだろう」
グラーコルの唇が薄く、嘲笑めいて歪んだ。言われるまでもなく前者を選んだのだ。白衣の剣士は得物である右手の太刀と左手に提げていた鞘を眼の高さにまで上げた。
「――幻魔、装甲!」
鞘がほどけ、グラーコルの四肢に巻き付く。燃える幻魔焔。不浄の焔が弾けて消えると、青銅の甲冑をまとった騎士が現れる。それはウィロンデ大陸では知る者の少ない東方の魔獣を思わせる姿であった。
「饕餮――」
ヴァリウスからの言葉が脳裏をよぎる――「幻魔騎士とは即ち幻魔による獣神騎士」と。
「幻魔騎士グラーコル、参る――」
語尾を残すように、幻魔騎士の姿が掻き消えた。エフェスですら予兆を感じることも出来ずに。
間髪入れず、龍魂剣が火花を散らす。左手に迫る太刀の一撃をすんでで止めている。太刀が翻ると同時にエフェスは踏み込み、剣を薙いだ。しかしグラーコルは剣の間合より僅かに遠く、反撃が空を切る。
太刀による逆袈裟の一閃が跳ね上がる。右大腿から腰を狙ったそれを体を開いて躱し、龍魂剣を突き込む。それを流し、しばし二者は鍔迫り合いで睨み合う。
「思い出した。ガレインと鉄牛騎士団を斬ったのは貴様だな?」
「それは私だけではないが」
二本の刀剣が噛み合って火花を散らす。
グラーコルの太刀には毛ほどの傷もない。刃の鋭さは無論のこと、白銀の刀身には波打つ刃紋が浮かび、よほど手の混んだ鍛造方法で作られたことが伺い知れる。龍魂剣ほどではないにせよかなり強力な魔術師が手を貸したに違いない。
「まあ、間違いなくガレイン・ザナシュはなかなかの相手ではあった。むしろ鉄牛騎士団なぞという足手まといがおらねば、まだしも有利に闘えただろうな」
嘲弄を含んだ声だった。饕餮の兜で黄色い魔瞳玉が妖しく強く光を放つ。
「しかし――いずれにせよ私が勝つ。ガレイン・ザナシュにも、そして無論貴様にもだ、エフェス・ドレイク」
鍔迫り合いの圧が不意に消えた。エフェスの項に、断頭の刃が落ちかかる。エフェスは敢えて前に身を投げ出した。太刀の斬撃の軌跡が視野から消えるより早く、エフェスも地面すれすれから剣を払う。グラーコルは跳躍して後退した。エフェスはそれを追って立て続けに斬撃を送る。天龍剣〈万蛇群山〉。
後退をやめ、グラーコルもまた〈万蛇群山〉を繰り出す。その名を示すように数多の蛇の如き斬撃が噛み合い、また絡みつき合うようにようにぶつかり合う。
「それでこそ正調天龍剣の後継者! そうでなければ我が太刀の錆とする意味も無し!」
剣戟は速さを増し、鋭さを増し、激しさを増す。いつしか互いの刀身から魔力干渉波が溢れ、木の葉の蝶が巻き込まれて微塵に切り刻まれる。




