3 見知らぬ土地の見知らぬ故郷
魔術的と考えなければ何の意味もないような回り道を行きつ戻りつし、ようやく村に着いたのは夕刻である。
そう規模は大きくない。並ぶ家屋の数は少なく、造作も急ごしらえと感じられる簡素さだ。
「村の人口は?」
「三十七人です」
「龍巣村は百人と少しだったか。龍脊山脈全体では――」
「数えるのはやめにしませんか、若? 山脈全体の生き残りがここにいる訳でもないので」
「そうだな」
村人が踏み慣らしたのだろう道をしばし歩いた。
「若い者はいません。皆中原に行かせました。そうしないと口を賄えません」
そういう気配は確かに感じた。子供の声がしないのだ。従って活気がない。
老いた気配のみを感じる。新しいのに老いた村。
高台に建つ、他の家屋と比べて明らかに大きい一軒家。その扉をグンライが叩く。
「師母、リウィア様、グンライです。こんな時間にすみません。客人をお連れしました」
ゆっくりと扉が開く。老女だった。
「あらグンライ、客人は何名――」
老女の視線がグンライの顔からエフェスに視点を定め、しばし動かなくなった。
「あら、エフェス」
「無沙汰をしていました、祖母上」
グンライは自然に身を引いた。老女が手を伸ばし、エフェスの顔を撫でた。
「随分……苦労をしたわね。長旅から帰ってきたファルコやレガートみたい」
エフェスは何も言わなかった。何も言えなかったのだ。
老女はエフェスから手を離し、客人たちを見渡した。
「感傷に浸るのはこのくらいにしましょう。わたしはこの村の長でドレイク家の刀自をしておりますリウィアと申します。皆様方、見れば長旅でかなりのお疲れのご様子。どうぞお入りになって。――ところでエフェス」
「……はい?」
「どちらのお嬢さんがお前のお嫁さんなの?」
× × × ×
「祖母上」
一行が広間の卓につくや、ようやく決断的口調でエフェスが言った。
「俺は当分身を固めるつもりはありません」
「あら、今更」
冗談なのにね、とリウィアは笑う。長い間――生まれてからエフェスが生まれるまでの人生を殆ど龍脊山脈の龍巣村で暮らしていたこの老女には、どこか童女のようなところがあった。
「でもお前はそう言うと思ってたわ。ドレイクの血ってそういうものだものね」
「そんなことはどうでもいい」
「どうでも良くはありませんよ」
腰を折ろうとする祖母の言葉を出鼻で食い止め、エフェスはやや食い気味に言った。
「覇国がこの村の位置を探っています。発見されるのは時間の問題でしょう。避難を」
「しません」
リウィアの返答はにべにもなかった。
「出せるものなんてありませんよ。伝家の財宝は置いてきてしまったし、この村なんて戦略的にもさしたるものじゃないでしょう。特産物もろくにないし」
何しろ四十人足らずの高齢の者を養うので手一杯、とリウィアは続ける。
「祖母上がそう思っていても、敵は必ずしもそうとは限りますまい。ドレイクの刀自には手中に収める価値がある、という者が現れてもおかしくはないでしょう」
「お前に対する人質に、とか?」
「……そうです」
「心配なきよう。そうなる前にわたしは自害します」
エフェスが絶句する気配が伝わる。
「そのくらいの覚悟、武家の妻として当然です。大体、わたしは余生を過ごしてる未亡人ですよ? 夫も婿も娘もいなくなってしまいましたし、この世に思い残すような未練はありません」
祖母の眼が見つめてくる。その鋭さに孫は僅かに怯んだようだった。
「本当ならば、孫であるお前にも闘うなと言いたい。けれど、それはお前も肯んじることはないでしょう、エフェス」
エフェスは黙り込む。
「勿論、ただ死ぬつもりはありませんよ。お前も気づいているでしょう? ここは龍脊山脈にそっくりだし、年寄ばかりの村なの。ここをわたしは終の棲家と定めたわ。それはわたしだけではないということ。老いたりと言えど立派な天龍剣門下、覇国の兵を一人でも多く討ち取って、村を枕に討ち死にする程度のことは出来ます」
重苦しい沈黙が流れる。
話はどこまでも交わらない。祖母を避難させたい孫と、避難したくない祖母。家族間の話として口を挟むべきではないのだろうけれど、事は人命がかかっている。勇気を振り絞ってマーベルが発言しようとしたその時、
「お茶のお替りは如何? お口に合えばいいのだけれど。ええと、お名前は?」
「マーベルと言います。あ、お替りいただきます」
リウィアは穏やかに微笑した。自覚的に話の腰を折ったのだ、とマーベルにはわかった。
あくまでこの老女は家族の話にしたいのだ。そう思うと、マーベルにはこの笑みがとてつもなく凄みを持ったものだと感じられた。
「龍脊山脈から持ってきた花のお茶なの。種がこの山で育つか不安だったけどね」
「刀自様が丹精を込めて育てられたのですな。甘露です」
「お世辞でも嬉しいわ」
ヴァリウスがさらりと言ったように、供された茶は馥郁として芳醇で、乾いた喉にはこの上のない滋味だ。軒並み空になった碗にリウィアが花の茶を注いでゆく。アルジェもこの茶が大層気に入ったようで舐めるように味わっていた。
卓を囲んでいるのはエフェス、マーベル、ヴァリウス、アルジェ、そしてこの家の刀自であるリウィアだ。グンライと老人はいない。風呂好きのヘブリッド人らしく老人が入浴を優先したためにグンライが自宅へ連れて行ったのだ。
一般的な祖母は成長した孫の近況についてとかく根掘り葉掘り聞きたがるものだが(マーベルの祖母もそうだ)、リウィアはエフェスの闘いについて何も聞かなかった。それどころか何も語る必要はないと言った。
「旅塵にまみれたその姿を見れば、大方のことはわかります。三年、ずっと激しい闘いをしてきたのね。ファルコもレガートも、長い旅から帰ってきたときには似たような雰囲気をまとっていました」
ドレイク家はどこの国家にも属さぬが、歴とした古い武門の家系である。その妻女としてこの刀自は余計なことは決して尋ねず穿鑿もしないという態度を貫いてきたのだ、ということがわかった。
「でも……あなたたちはエフェスの仲間なのでしょう?」
「あ、はい」
言葉とは裏腹に、どうだろう、とマーベルは思った。
マーベル自身エフェスのことを決して嫌っている訳ではない。祖国の危機を救われたし、彼が復讐一辺倒の人間ではないことを知っている。実際に轡を並べて戦ったし、旅や寝食も共にした。目的は同じ覇国の撃破。
それを仲間と呼ぶならば仲間と呼んでいいだろう。
が――それだけだ、という思いはどこかにあった。
「大変でしょう、うちの子の扱い。頑固で意地っ張りで融通が利かなくって」
「ええ、まあ……」
「ちょっとマーベル、エフェスってばすっごい面白い顔してるわよ」
アルジェが言う通り、エフェスは苦虫を数十匹まとめて噛み潰したような表情をしていた。
「昔はこんな子じゃなかったのだけれどねぇ。もうちょっと可愛げがあったわ。やっぱり遺伝かしら」
リウィアは嘆息した。
どこでこんなひねくれた子になったのか、というような決まり文句までは流石に言わなかった。
グンライが妻のレカを連れて来た。夕食と風呂が供され、周囲はすっかり暮れなずんでいた。
エフェスは濡れ縁に座っている。そこからは村の様子を一望できる。
やはり龍巣村に似ている。
「若、お久しゅうござる」
イノエの声だった。背丈は五尺と三寸三分(この三分が大事なのだとイノエは強弁する)、突き出た腹に渋い声の持ち主だ。一方ホゼは身の丈六尺半のヴァリウスにも劣らぬ巨漢である。
三人共に天龍剣の高弟であり、エフェスの兄弟子に当たる男たちだった。再会の挨拶もそこそこに、エフェスは切り出した。
「祖母上を説得してくれ」
師兄たちもまたエフェスの言わんとすることを敏感に察していた。
「それは無理な話ですな、若」
「何度も俺たちも説得したのだが、ついぞ翻意させられなんだ」
首を振るグンライとイノエに続いて、ホゼが重々しく頷いた。彼は燃え盛る森林へ己が身を顧みず飛び込み、四人の仲間を救出した剛の者である。そのときに吸った熱気に喉を焼かれ声を失っただけで済んだのは、むしろ強運の為せる業に近い。
「どうしても無理か」
「どうしても無理ですな」
ドレイク家は龍脊山脈一帯の守護者であり、傲慢な言い方が許されるならば敬意を払われて当然の存在である。また武林に於ける師弟関係は一種の疑似家族でもある。ただグンライたち三人はそのような理由がなくとも師父ファルコを、そして師母リウィアを実の母の如く敬慕していた。そして三人とも既に実の親は亡い。
せめて死に場所を選びたいという母の意志を、何故息子たちが無視することが出来よう? それが彼ら三人の言い分だった。
「許してくだされ、若」
「よもやの際には我ら三人命を賭して師母をお護りする。それは天龍マルドゥーク様にお誓い申し上げる」
ホゼもまた頷いた。彼らとてリウィアの意志に関わらず、むざむざ彼女が悪党どもの爪牙にかかって非業の最期を遂げるのを決して良しとはしない。それがわかってなおエフェスの顔は晴れない。
「ガレインがいてくれれば――否、ガレインでも無理か」
「ではレガートか――しかし奴は」
「イノエ」
グンライが短く咎める。
ホゼがじろりとイノエを見る。
イノエは露骨にしまったという顔をする。
エフェスは自分が無表情のままであることを自覚し、言う。
「イノエ師兄、父は死んだ」
「そ、そうでござった。俺としたことがうっかり」
そういうことになっている。ただ覇国と勇敢に闘い、死んだと聞かされている。
ずっと以前、幼少期の話だ。その頃は龍脊山脈から落ち延びた前後でもあり、あらゆる事柄が重なって発生していた。
「俺に気を遣う必要はない。父の死は受け入れている。もう十年以上も前の話だ」
置かれている状況もろくろく把握できぬまま父が死んだと知らされて、幼い自分がどう思ったのか。悲しくて泣いたのか、嘘だ父上が死ぬはずがないと怒ったのか――それすらも思い出せない。
ただ――鋼のような黒い髪をなびかせ、紫水晶の瞳に言いようのない感情を湛えて木剣を揮う父の姿。それだけは何故か憶えていた。




