2 磨羯兵
マーベルが速度を緩め、エフェスが速度を上げる。エフェスの間合にうかうかと入っていた磨羯兵二人が弾け飛び、やや遅れて踏み込んできた二人をマーベルの矢が射抜く。
飛び跳ねながら左右を挟撃してきた敵の刃をアルジェは細い身体をひねって躱す。半寸横をゆく波打つ刃を見ずに、彼女は左右の銀剣を同時に払った。左剣は敵の伸びた手首を切断し、突き出された右剣が頸動脈を引き裂く。ほとばしる血液。
ヴァリウスの篭手から分銅付きの縄が飛び出し、磨羯兵の首に巻き付く。クリスをあてがわれるが縄は金属で編まれており容易に切断は不可能だ。ヴァリウスはその剛力を以て縄を引いた。磨羯兵の身体が宙を舞い、大きく弧を描き、同じ木靴を並べて戦うはずの戦友たちに対する鉄槌と化して薙ぎ払う。
いくら打ち倒されようとも磨羯兵は切れ目なく出現し、襲いかかってくる。それだけ覇国はこの山の探索に力を入れていたという証左であると言ってもいいだろう。
正面に出てきた磨羯兵をヴァリウスは慌てて躱し、派手に跳躍した。縄に絡められたままの磨羯兵を引きずり(ぴくりとも動かないのでもう死んでいるだろう)、また振り回す。それを崖から飛び降りてくる磨羯兵の頭部へぶつけたとき、酷使に耐えかねた頸部が千切れて頭はどこかへ行ってしまった。舌打ちしながら縄を篭手へ戻し、肉薄していた磨羯兵の顔面を山羊の面ごと拳で粉砕する。
「馬が軽い!」
ヴァリウスの苦吟が示すように、本来この世に属さぬ魔法生物であるエアレーの体重は軽い。通常の軍馬と比べれば十分の一、ひょっとしたらは百分の一もないのではないか。
この驚くべき自重の軽さはエアレーの生命の源たる魔力の維持を容易にし、尋常ならざる長駆能力に利しているが――これは戦闘ではむしろ弱点にもなりうる。馬ならば取り得る攻撃手段、例えば体躯に物を言わせての体当たりや蹄にかけての蹂躙などが、軽いエアレーでは却って不利になる。騎馬民族の本能もあってヴァリウスはそれを学習していた。
散らばる死体を後方に置き去りにして、視界が変わる。両端は低い崖になり、進むごとにまばらだった木々が数を増やし、緑が深くなる。
今まで四騎に向かってくるばかりであった磨羯兵の一部が、逆走していることに四人とも気づいた。
その方向には二つの人影がある。杖を突いた白髯禿頭の老爺と野良着の中年男である。
磨羯兵四名が二人に迫る。
老爺が中年男に杖を渡す。中年男が杖を両手で胸の高さに持ち上げる。
距離が詰まる。
まさしく指呼の間にまで縮まったとき、中年男の腕が遠目には判別もつかぬ速度で揮われ、銀色の光が一閃した。
踏み出しながら二閃、三閃、四閃――次の瞬間には磨羯兵の身体は頭頂から股間まで斬り開かれ、あるいは袈裟懸けに血を噴き、あるいは二本の大腿から切断され、あるいは心臓を貫かれ――変わり果てた姿となって血と肉を地面にぶち撒けていた。
引き裂くような笛の音が高く響いた。まだ生きている磨羯兵は潮が引くように撤退してゆく。賢明な判断だろう。磨羯兵の指揮官はここで総力をかけてエフェスたちを相手取るよりも、生きて情報を持ち帰る方を選んだのだ。
エフェスはエアレーで中年男たちに近づき、血に降り立った。
「技倆を上げられましたな、若――いや、エフェス様」
「あんたに言われると皮肉としか思えんな、グンライ師兄」
グンライは日に焼けた顔に穏やかそうな面相をしていた。彼を知らなければ、たった今四人を瞬く間に斬り捨てた男であるとは容易には信じられないだろう。血の匂いを微塵も感じさせない、人の良さそうな笑みを浮かべてグンライは言った。
「無論皮肉です。あの程度の敵、太師父ならばそう時間もかけずにお一人で片付けておられましょう」
エフェスはグンライの言葉に説教の気配を感じ、老人の方を向いた。話題を逸らしたのである。グンライの説教は昔から長く、耳に痛かった。
「ところで師兄、そちらの御老体は?」
グンライの穏やかな面相が僅かに強張った。この男は生来嘘をついたり、隠し事をするのが苦手なのだ。グンライが下手を打つ前に、老人が口を開いた。少なくとも、エフェスにはそう思えた。
「儂はデムシャーの縮緬問屋の隠居じゃよ」
老人は案外背が高く、肩幅が広かった。真っ白な眉が視線を隠すように長く伸びている。
デムシャーはヘブリッドの一地方名で、デムシャー織りなどで知られる綿花の産地でもある。エフェスは怪訝な顔をした。
「……御隠居、布屋がこんなところに何用だ?」
「実は儂は古史古伝を多少齧っており申してな。このカリギス地方には古い伝承が在りし日のままに残っておる。数日前、名高いカリギス遺跡へ喜び勇んで立ち入らんとしたら、なんとしたことかあの付近は北方の蛮族めらによって封鎖されておるのじゃ」
「覇国が」
「左様。あの遺跡に金目の物などとうにないのじゃが。ともかく儂は殺されかけるところであった。迷いに迷い、宿も見当たらず、糧食も尽きた。乗ってきた驢馬も力尽きた。万事休す――そこで偶然出逢ったのがグンライ殿じゃよ。有り難や有り難や」
老人は大袈裟に、ヘブリッド人らしくレヴィアタン神の聖印たる鯨座を胸の前に描く。グンライは露骨に安堵した表情で語を接いだ。
「ということで、若」
ここで言わずもがなのことを言ってしまうのがグンライという男だった。信頼できるという以上に、天龍剣の高弟の中でも祖父や祖母が傍らに置いた理由がエフェスにもよくわかる。
馬蹄の響きより軽いエアレーの蹄が聞こえた。他の三人が集まってきたのだ。グンライが仕込み杖に手をかけるのを、エフェスは制した。
「俺の共連れだ」
「何と、お仲間ですか」
グンライの言葉に驚きとか感心の響きを聞き取ったが、エフェスは無視した。
簡単な自己紹介と挨拶が終わり、エアレーは掌ほどのサイズとなってアルジェが懐へ仕舞い込んだ(老人がより興味深そうな顔をしていた)。
やがて涸れ川の道が尽き、一行は森へ入った。日が陰り始めていた。
「祖母上は息災か?」
エフェスの問いかけに、グンライは複雑な表情をした。
「師母もお歳ですからね、持病ならばいくつも抱えておられます」
グンライの眼がいくらかの鋭さを帯びてエフェスを見てきた。
「若は何故トゥーナルの山に来られましたので?」
「虫の知らせがあった。というよりは、鎧が告げたのだ」
エフェスは夢枕に立った龍が西へ向かえと告げたことを素直に話した。グンライが考え込んで答えを出すより早く、老人が口を挟んできた。
「それは無視出来ぬわな」
「聞いていたのか」
山道は険しい。若く旅慣れたエフェスたちや山に慣れたグンライはともかく、老人もまたかなりの健脚だった。流石に息は少し荒いが、若い者に背負われることは老人自身が頑として拒んでいた。
「昔から地獄耳なのじゃ。許してくれ、御二方」
「いや、いい。御隠居にはわかるか、この言葉?」
「なんとなくではあるがの。お前様の焦慮もな」
焦ってなどいないとは、流石に言えなかった。
「御隠居はこの夢、どう見られる?」
「どうもこうも。龍の言葉をそのまま捉えれば、裏も何もありはすまい。覇国の奴輩が村を襲う。あるいはカリギス遺跡に存する何かを奪う。そのくらいにしか解釈しようがない」
エフェスの胸に僅かに失望が生まれた。老人はふうふう言いながら続けた。
「が、な。歳旧りた龍は未来をも見るという。恐らく、お若い人よ、その龍は何かをお前様にさせたいのではないのかな? いや、儂は知らぬけど」
また考えるべきことが増えた、とエフェスは思った。
「あの、質問があるんだけど」
心配そうなアルジェの声が聞こえた。グンライが応えた。
「何かな、エルフのお嬢さん」
「あたしの勘が確かなら――何か、森をぐるぐる回ってる気がするんだけど」
「ああ、実際回っているよ」
「え」
絶句の気配を密かに楽しむ様子で、グンライが穏やかに続けた。
「回ってるけど近づいてるんだ。木立を越える順番や回数、踏む石で道が開ける。逆にそれらを間違えたりすると村には決してたどり着かない。一種の魔術結界だよ」
「なるほど……」
アルジェが感心した声を上げる。同時に皆、磨羯兵が今の今まで村を発見出来ない理由を悟った。
「編んだのはエアンナか」
「そうです、若」
「彼女の居場所は?」
「私らが知っていると思いますか?」
「いや……」
知っているとしたら祖母だが、それすら確証はない。魔術師エアンナはエフェスが知るよりなお神出鬼没なのだ。彼女の足取りを掴むのは、大陸中の斥候を使っても不可能だろう。
マーベルが近づいてきた。
「エフェス」
「何だ」
「エアンナって、誰?」
マーベルは真顔である。圧を感じる。
「龍脊山脈に縁のある魔術師だ」
「ヴァリウス殿がすごい美人だって言ってたけど」
「美醜は主観だ。会う機会があれば自分で判断しろ」
マーベルは何かを言いたそうにこちらを見ていたが、結局何も言わなかった。
祖母に対する尊称は何だろうなーと思いあぐねた結果「祖母上」になりました。ちなみに祖父は「祖父上」。両方ともgoogle変換対応されてませんが。