1 エアレー山野を翔ける
乾いた風が乾いた土を舞い上げる。
大陸の東西を流れるバルエシオ大河の支流、クゼン川の更なる支流であるエゼン川の流れを遡るようにエフェスたちは旅を続けていた。
道中では大小の規模を問わず、覇国の軍勢と出くわすことも一度や二度ではなかった。普段は率先して覇軍を叩き潰そうとするエフェスも今ばかりは手を出すことを差し控え、旅を急ぐのを優先した。
勿論火の粉が降り掛かってきたのも一再ではない。相手は覇国だけではなかった。襲撃者は国難によって食い詰めた騎士や兵士の成れの果てである野盗たちもいた。覇国は獣神騎士らに対し、実に途方も無い額の賞金を賭けていたのである。
自称元子爵という盗賊の所持していた、やや凶悪な人相書きを斜め読みしたヴァリウスが、エフェスに絡んできた。
「お前の方が賞金額が多いのはどういうことだ?」
「知らん。寝ているそいつに訊け」
ちなみに自称元子爵は地面に寝ていた。訊いてもいない己の事情をベラベラ喋り倒している最中、ヴァリウスの鉄拳の直撃を頭部に受けたのだ。
人体構造上曲がらぬはずの方向に首を捻じ曲げたままぴくりともせぬ子爵を見て、兵卒だか家人だか区別のつかぬ下っ端たちは彼がもう二度と起き上がることがないことを理解した。そして期せずして良識ある行動を取った。一目散に逃げ去ったのである。
一行は彼らの忠誠心のなさに安堵した。
「ま、大方想像はつく。お前の方が単に活動期間が長いからな」
ヴァリウスは鼻を鳴らした。天龍剣エフェス・ドレイクの名は、最早覇国にとって公然たる怨敵であり、敵愾や恐怖の象徴と言っても過言ではなかった。
こうして彼らは無人の野での奇襲や、人気の絶えた夜の街道での思わぬ遭遇、そして宿を借りた村へたまさかやってきて不埒を働こうとした覇国兵――それらを尽く撃退あるいは撃滅した。こうした避け得ぬ敵に対して、手痛い教訓を与えるに容赦のない一行ではあった。
やがてトゥーナル山の姿が見え始めたとき、エフェスはエアレーの脚を早めた。ある地点で馬脚を止め、しばし無言のままに山の全容を見つめた。
「……似ている」
ヴァリウスがエアレーを寄せ、確認するように尋ねた。
「龍脊山脈か」
「ああ。いるとすれば恐らくあの山だろう」
エフェスが請け合ったのは、祖母を始めとする龍脊山脈の生き残りの所在である。
麓はなだらかに広がり、ある程度の高さから峻険さを増して頂きは天を衝く――無論標高の差は倍以上もあるが、確かに龍脊山脈をある地点ある角度から見ればそっくりに見えることもあるかも知れない。
ドレイクの一族は龍脊山脈一帯の村々の長として君臨して久しく、それは旧帝国時代に功勲あって辺境伯の爵位叙勲されたことよりもなお古い。そして祖父ファルコの亡き現在、家刀自たるエフェスの祖母が一族の棲家としてトゥーナル山を選んだ理由も、この眼で実際に見てみれば理解できないことではなかった。
「先生、質問がありまーす」
片手を上げたままアルジェは他三名の顔を見渡した。
「あの山に目的地があるとして、どこにあるかわかる人っている?」
エフェスは目をつぶった。
ヴァリウスはそっぽを向いた。
マーベルは天を仰いだ。
「こんな為体!? ちょっと信じらんないですけど! エルフの世間ずれを散々弄っといて!」
「行けばわかる」
「いい声して格好つけたこと言えばいいってもんじゃないわよエフェス・ドレイク! あんたのお祖母ちゃんが住んでるんでしょうが!」
「長らく音信不通でな」
尤もこればかりはエフェスを責められまい。覇国との戦いに旅立って以降、エフェスは自ら故郷の人々との音信を断った。覇国による龍脊山脈襲撃から中原の各地を点々とし、エフェスはその時々の塒に対して里心を持っている訳でもない。トゥーナル山にせよ、いずれ祖母も場所を遷すだろうと考え、詳しく場所を知ろうとしなかったのだ。
カリギス地方トゥーナル山という地名は、気まぐれのようにエフェスと接触を図って来る魔術師エアンナ・ニンスンの報告を思い出してようやくヒントを得たものだ。
「エアンナならば詳細を知っているだろうが、生憎彼女が今どこで何をしているのか、俺も知らない」
「彼女はそういう女人か」
「そういう女だ」
ヴァリウスがエアンナの示唆によってラッセナにいたことは、事前に情報共有されていることだった。
「ま、こうしていても始まらん。向かうとしよう」
「付近の地理に詳しい人に案内して貰いましょう」
ヴァリウスとマーベルが妥当かつ常識的な、つまりさほど面白みのない案を口にする。山麓付近に集落がないという行商人からもたらされた情報は、誰も口にしなかった。
山道に踏み入った。
山道といっても舗装などはろくろくされていない、人の踏み固めるに任せただけの道である。土は乾いており、雑草や枯れ木がまばらに生えているだけだ。この道に慣れた者でなければ、ところどころに露出する石くれに足を取られて転倒することもあるだろう。そんな道もエルフの使役する霊獣エアレーは物ともせず進んでゆく。
トゥーナル山の地図は三枚手元にあるが、それも古かったり曖昧な箇所も多く、時にはそれぞれを突き合わせて確認する必要にも迫られた。このエアレーの極めて正確な方向感覚がなければ、四人の長旅は遥かに難儀したものとなっていたに違いない。
地形を伺いながら、マーベルが浮かぬ顔つきで言った。
「何だか……待ち伏せにうってつけの地形じゃない?」
「お前もそう思うか」
エフェスは正面に顔を向けたまま応えた。
起伏に富んだ地形である。元は川でもあったのか、えぐれた部分が道のようになっている。左右の張り出しは高く、その傾斜は急峻である。
影が左右から降ってきた。
ヴァリウスが身体を傾け、散らばる砂利を右手に掬い取った。
エフェスが背中の剣を鞘のまま抜き、地に鐺を着ける。
砂礫が散弾と化して影を打ち据える。地に転がったそれの急所を、マーベルが放った矢が貫いていた。
動かなくなった影――その姿は異様だった。二本角を備えた山羊の頭骨をかぶり、爪先の長い木靴を履いている。手にした二尺に満たない刀身の曲がりくねった剣はクリスと呼ばれる得物である。
「覇国の山岳専門の斥候――〈磨羯兵〉だ。所属はジウィンツ隊と百蛇衆のどっちだったか――」
ヴァリウスが彼らについて思い出すその間にも、山羊の面の敵は傾斜を滑るように、あるいは跳躍するように駆け下りてくる。その軽捷さに半ば唖然としてマーベルが言った。
「……幻魔兵ではないの?」
「歴とした人間さ、一応はな」
応えたヴァリウスでさえ半ば疑うように、磨羯兵の移動は不安定な足場に於いては驚くべき速度だった。豆粒のような影が瞬く間に装束の判別が距離にまで迫っていた。あの独特の木靴の爪先立ちがその秘密の源だろう。
エフェスがエアレーを加速させた。戦うと決めた際、彼の動きに一切の躊躇はない。
先頭の磨羯兵が更に高く跳躍し、逆手に持ったクリスを振り下ろす。太陽によって刃が不気味な色に照り輝いた。毒が塗られているのだ。
毒刃が届くより早く、鉄鞘が磨羯兵の肉体を捕捉していた。エアレーの速度も加算された一撃は存分に刺客の肉体を打ちのめし、全身の骨が一斉に砕けたような壮絶な音を立てた。
即死した刺客が地に落ちる。物言わぬ屍と化した戦友には目もくれず、次々と磨羯兵が姿を現す。肉薄する。
敵が投じた投げナイフがアルジェの鼻先まで飛来したとき、すんでのところで止めたのはヴァリウスの鉄篭手だった。
「ひ――あ、ありがと」
「礼は後だぜお嬢さん」
ヴァリウスの投げ返した刃が山羊の面の右眼に吸い込まれるように突き刺さった。昏倒したところからも、やはり毒は塗られていたらしい。
エフェスの剛刀が四人まとめて薙ぎ払う。巻き添えを喰らわぬようにエアレーを寄せ、マーベルが尋ねた。
「待ち伏せかしら?」
「目標は俺たちではないかも知れんが」
あるいはその両方ということもあるだろう。エフェスらが地理の案内を依願することを考えたように、敵が同様の思考に至ったとしても全く不思議はない。
「そしてその場合、隠れ里はまだ覇国に発見されていないということでもあるわね」
「そうなるな」
いずれにせよこの場を乗り切る必要があるということだ。




