10 聞いてねえぜ困難
「……ボリイ? ボリイ爺さん?」
雨に打たれながら、ウーゴンは小声でボリイに呼びかけた。応答なし。やられたか。
ボリイは白虎平原のある部族の狩人である。極めて優れた、老練の狩人だ。五十近い、虎の民では老人と呼ばれるべき年齢もあって幻魔兵としての適性は精々がオルクス程度だったが(それだって実は大したものなのだが)、幻魔兵ボリイの強みは大の男でも容易に引きかねる剛弓を容易く引き、ほぼ確実に当てられるということに尽きた。 弓士として多くの敵を屠ったボリイへ試みに与えられたのが、あのねじくれた弓である。その射程は並の弓士の五倍近い射程を誇った。
ウーゴンは蜈蚣を遣い、その眼を借りることが出来る異能者だった。理屈は知らない。幼い頃から念じるだけでそれが出来た。その他にも身体の一部の機能に特化した者、奇怪な道具を自在に操る者、魔術や魔法とも異なる理外の技を遣う者――そんな異能者が出現する一族にウーゴンは生まれた。
二人が強制的に組とさせられてもう十年近い。良好とは言えぬまでも決して険悪な仲でもなかった。ボリイは口数が少なく、ウーゴンはそこが気に入っていた。二人は部族の敵を打ち倒し、陣の後方で采配する敵将の心臓を射抜き、あるいは裏切りに煮え切らぬ大臣に毒のしたたる蜈蚣をけしかけ、多くの功を挙げてきた。
斥候としてそれなりに場数を踏んできたし、暗殺者としてもそこそこの数を仕留めてきた自負もある。ボリイと組んでから、その仕事の質と量は向上するばかりだった。が――
「エルフを狩れと言われたが……獣神騎士まで出てくるたァ聞いてねえぜ困難」
獣神甲冑には蜈蚣の牙も効かず、どうやらボリイも失ったらしい。こうなったらお手上げである。
この指令が発布されたのはエルフを原料とする幻魔晶の需要のためもあろう。それは極めて純度が高く、従って用途も多い。裏では魔術師ギルド〈望星楼〉でもエルフの死体でも欲しているほどだし、ウーゴン自身魔術師に売ってそこそこの金を得たこともある。しかしこれでは最上の郭での乱痴気も諦めねばなるまい。
幸い、蜈蚣の眼は自分に近づく者を映してはいない。エルフどもは蜈蚣の相手に右往左往して、遣い手をどうこうするどころではなさそうだ。惜しむらくは蜈蚣の殆どと、無口ながら頼れる相棒だったボリイ爺さんを失ってしまったことだが、流石に己の命には替えられぬ。
「三十六計逃げるに如かず……」
頭目への報告を考え憂鬱になりながら、ウーゴンがそろそろと移動を始めた、その時であった。
「――逃がすかよ」
咄嗟に圧力を感じ、匍匐姿勢からウーゴンは立ち上がった。盛大に土を打つ音がする。背中がひりつく感じは攻撃の強烈な気配か。ついで飛んできたのは篭手に覆われた鉄拳。躱せぬと判断し、振り向きながら十匹の千足蜈蚣を盾とする。八匹が砕け散った。止まった。いや、止まっていない。ついで放たれた左の掌底が蜈蚣ごと、ウーゴンの鼻面を押しつぶした。上下の前歯が数本折れた。何たる馬鹿力か、襲撃者は崩折れかけたその喉元を掴んでそのまま吊り上げた。
「お、王虎騎士……ッ! 何で蜈蚣の眼を……!?」
「虎もまた優れた狩人なんだぜ」
鎧をまとった廃親王ヴァリウスが言った。その虎の兜の奥で獰猛な笑みを浮かべているだろう。
王虎拳法のある一派は音もなく相手に近づき、ただの一撃で息の根を止める暗殺技術に特化した一派があるという。そして獣神甲冑に秘められた機能を合わせればこそ、ヴァリウスは半里もの距離を無数の蜈蚣の眼に止まることなく、自分に肉迫し得たのだ。襲撃の際は雨がウーゴンたちを利したが、今度は雨が敵した形にもなった――ウーゴンはそう推察した。
「それにしても……何だこの外套は? やたら獣臭いが」
ウーゴンが着込んでいたのは全身をすっぽり覆う擬態服、ある種の獣の毛皮に苔や草を生やし枝葉を絡みつかせた、隠蔽用の衣であった。獣の臭いのために人に敏感なエルフの鼻も騙しおおせることが出来、実際に効果は確かな代物である。
顔の下半分を真っ赤に染めながら、ウーゴンはもがいた。王虎騎士の手から逃れるためではない。擬態服の内懐を探っているのを悟られぬためである。
やがて石のような質感に右の指が触れる。握り締め、放つ。光の矢が獣の衣の内側を焼き、貫いて走った。
死光珠――知り合いの魔術師に譲って貰った、ウーゴンの切り札である。水晶球の中に圧縮した魔力を封じ込めたもので、一発だけの光の矢を放つことが出来る。
ヴァリウスは驚き慌ててウーゴンを手放した。光軸が鎧を掠めて飛び去り、消える。
「何ッ!?」
獣神甲冑の肩口に溶けたような痕跡が残っていた。射程は精々十歩ほどだが、それだけの威力はあるのだ。
ウーゴンは擬態服を脱ぎ捨て、背後を確かめることもなく逃げ出した。木の枝に指をかけ、猿のように飛び上がる。残りの蜈蚣をヴァリウスに襲いかからせた。これで多少の時間は稼げるはずだ。――
その後頭部の盆の窪に、極めて正確な一矢が突き立った。
身体を仰け反らせて落ちてゆくウーゴンが最後に見たのは、エルフから借りたらしい弓を構えた金髪の女騎士の姿だった。当てようと思っても当たらないような距離。
聞いてねえぜ困難――そこで彼の意識は途切れた。永遠に。
× × × × ×
細く息を吐き、弓を射た構えのまま残心を解かない。金髪から雨が滴るのにも構わず、マーベルは眼を開けて落下する敵を見据えていた。後頭部を射抜かれた相手が二度と起き上がることがないことを確信してから、彼女はようやく構えを解いた。
「……あの距離で当たるのか」
「人間にしてはやるわね……」
ジェイランの口から驚嘆の声が漏れた。アルジェの口調にも驚きの色がにじんでいる。どうやらこの距離はエルフからしても当てることが困難であったらしい。
雨は上がりつつある。ヴァリウスが、ここでようやく鎧を解いた。蜈蚣は全て無惨な死骸となって転がっていた。神官長が杖で死体を指した。
「ヴァリウス、これが刺客か。素性は何者だ?」
「ええと……ああ、今思い出しましたよ。魔術や魔法とは異なる理外の異能を持つ者が時たま生まれる、そういう一族からなる斥候部隊です。蜈蚣遣いもその一つと見れば、多分間違いありますまい」
「ほう。一族の名は?」
「氏姓は知りません。隠しているのか、それともそもそも氏姓がないのか――ああ、これも思い出した。族長は名前を代々襲名し、その呼び名で呼ばれたそうです。その名をジウィンツ。部隊名はジウィンツ隊です」
木々をかき分けながら、甲冑を解除したエフェスがやってきた。彼は篭手の指に折れた弓を携えていた。
「仕留めた狙撃手が、こんなものを持っていた」
奇妙に捻じくれた弓と矢である。色は艶のない黒。それを見てマーベルの脳裏に思い浮かぶものがあった。
「弓矢……魔蝕樹に似てる……?」
「やはりお前もそう思うか」
エフェスとの会話の途中、アーディルが捻じくれた弓に手を伸ばした。それを眼の前に掲げ、しばらく見つめていた。
「これを私が預かっても構わぬか?」
エフェスは所有権を主張しなかった。
「あ、知り合いの魔術師も欲しがると思います。いいですか?」
「半分ずつか。いいだろう。念のため訊くのだが、その魔術師とは?」
「シェラミス・フィファルデです」
その名を口にすると、マーベルは言わねばならないことを思い出し「あー!」と叫んだ。
「エフェス・ドレイク、シェラミスからの伝言です。クーヴィッツとトランドールの国境、北東のカリギス遺跡へ向かうように。覇国の狙いは霊脈の制圧。カリギス遺跡は中原最大のベヘモットの聖地、狙わぬはずがない――とのことです」
「カリギス……」
その単語を口にしたエフェスが、一瞬だがはっとしたように紫水晶の眼を見開いた。間違いなく、眼を剥いたのだ。恐る恐る、マーベルは訊いた。
「……どうしたの?」
「龍脊山脈の生き残りが、カリギスの付近に村落を作っている。俺の祖母も」




