9 雲中の龍、鬚を蠢かす
龍魂剣が走り、蜈蚣は頭部から縦に裂けた。それに眼をくれることもなく、エフェスは縦横無尽に青く透き通った長剣を揮う。斬撃の速度は常人の眼では捉えきれぬ。次から次に蜈蚣が斬り倒されてゆく。同時に毒を含んだ体液がたびたび鎧や剣を汚したが、最上位の魔術によって鍛造されたこれらの武具に付着する端からたちまちに魔力が焼き払ってゆく。
にわかに雨が降り始めた。蜈蚣どももまたバラバラの死骸となって地に落ちる。まだエフェスの剣は蜈蚣を屠り続けている。
「ナゼット!」
叫んだアルジェよりも早く、アーディルが前に出た。アルジェとジェイランが呆然とした顔でその背中を見る。
ナゼットの前に立ったアーディルが、手にした杖を下に向けた。腕の長さほどの杖、その先端が淡い光を放つ。ナゼットは眼と口を大きく見開き、苦悶した後、その口からいくつもの蜈蚣を吐き出した。
「なッ!?」
「幼生をその体内に仕込んでいたのだ。ナゼット自身をも罠とするために」
容赦のない手法――絶句するジェイランに対し、神官長の説明は素っ気ないほどに簡潔である。
「やはり覇国の刺客かね?」
「ですな。俺も覇国軍の全てを把握しているのではないのですが――特に魔術関連の斥候はやり方がえげつないと評判です」
どこの評判だ、とは誰も問わなかった。足元まで走ってきた蜈蚣を踏み潰しながら、ヴァリウスが問いを投げる。
「エフェス、お前の魔瞳玉で敵が視えるか?」
「視えんし聴こえんし、嗅げん」
蜈蚣を切り刻む手を休ませることなくエフェスは応えた。獣神騎士の身体機能拡張は五感にも及ぶ。敵が音や臭いで蜈蚣を操っているならば、その線からたどり着くことも出来よう。しかし大粒の雨が木の葉を打ち枝葉を揺らす今、早くも臭線は水に流されてしまっていた。文字通り苦虫を噛み潰したような表情で、ジェイランが唸った。
「一方的に虫で攻撃、か。悪辣な……」
「それもなくはないだろうが――」
飛びかかってきた蜈蚣の頭部近くを危うく篭手のはまった手で掴みながら、ヴァリウスが言った。
「こいつらの牙では、人の肌ならともかく獣神甲冑を貫くには無理がある」
そのまま握りつぶし、毒液が滴る。
「では、他に奥の手があるということか――」
言い終える前に雨に混じってかすかに聴こえた風切り音は、人やエルフの可聴域に及ばぬかそけき音。獣神騎士エフェスですら咄嗟に反応しかねたその音を捉えたのは、大気や枝葉の微妙なる変化のためである。
西から飛来し、左篭手にぶつかったそれは思いの外強力だった。それでも腕を振り切り、受け流す。木の幹に穴が開く。
間髪を入れず二度目が来る。三度目はもっと短い。切り払う。兜の側面に衝撃を感じる。
篭手に轍めいた痕が刻まれていた。兜も恐らくはこうなっているだろう。後方の樹幹に、矢が深々と突き立っていた。マーベルが警告の声を上げた。
「エフェス!」
「あまり大声を出すな」
はっとした表情を見せ、女騎士は口をつぐんだ。
「神官長、エルフたちを迂闊に動かすな。狙われるぞ」
「狙撃手、という者か。獣神甲冑を穿つほどの」
エフェスはかすかに頷いた。マーベルも弓士である。すぐに敵に正体に思い至ったに違いない。気絶したままのナゼットを介抱していたアルジェが小首をかしげるように言った。
「でも、何故今まで仕掛けてこなかったの……?」
「こいつら、かな」
ヴァリウスの言葉に皆、地に視線を落とした。
「奴らは蜈蚣を通してこちらを視て狙撃している、のか?」
「そうね。蜈蚣がわたしたちに接触したから、狙撃が始まったと見ていいわ」
マーベルが応えながら、ふと気づいたように付け足す。
「それとわたしの勘だけど、視てる者と狙撃手は多分別ね」
「何故?」
「ええと……狙撃手を煩わせないため、狙撃手に狙撃に専念させるため、だと思う」
「合理的だな。戦術に於いて、やはり人間に我らが見習うべきところは多そうだ」
アーディルが鹿爪らしくうなずくのと、エフェスが忌々しげに舌打ちするのは殆ど同じだった。敵はもう移動してしまっていることだろう。
「御託はいい。――神官長、奴の位置を読むための術などはあるか?」
迂闊に動けば、バラバラに配置されたエルフたちが狙われるかも知れぬ。敵襲を警戒してのことだろうが、それが裏目になった巻は否めない。
敵の弓矢による狙撃は獣神甲冑をも傷つける。急所を射抜かれれば、さしもの天龍騎士もどれほど動けるか。エフェスも試す気にはなれなかった。
「ある。が、その必要はあるまい」
「何……?」
「その鎧の力、まだ引き出す余地があるということだ」
神官長はその声で歌うが如く告げる。
「天龍騎士の力を使え」
剣を両手に構えたまま、エフェスは眼をつぶった。唐突に思い出したのは、師たる祖父ファルコの言葉だった。
――雷気は本来水に似たるもの。高きから低きに流れ、眼には見えぬ形で世に溢れている。
獣神甲冑を雨が打ち、流れてゆく、その感触すら伝わる。それを超え、肉体を離れて感覚が膨れ上がる。だがまだ足りぬ。
――雷気の全てを掌握出来得れば恐らく無敵の力となろうが、それは人の身では叶うまい。しかし、獣神甲冑にはそれを耳目とする技がある――
切先を上向けた龍魂剣が淡い光を放った。その切先を中心にして、半球状に薄い膜の如き雷気が放たれる。その半球の領域が広がり、森全域を覆うほどに至る。
雷気は不可視であるが、エフェスの知覚とつながっていた。森全域に植生する木々の全容を、逼塞する全ての生物を、息を潜めるエルフの兵らを――そして二人の敵の位置、距離、姿形までを、細大漏らさずエフェスは把握していた。獣神戦技にいう〈雲龍鬚〉である。
エフェスの反応は迅速である。剣を握る腕は左腕と剣を水平にして切先を敵に向けた「弾弓」の型を取り、踏み込む形に膝が曲げられる。その甲冑の脚部に雷気魔力付与。視線と切先は西南西――弓矢を引き絞るが如き戦型のまま、彼は告げた。
「北北西、半里。そこにもう一人いる」
エフェスの手短な言葉の意味を察し、ヴァリウスが何も問わず駆け出した。エフェスもほぼ同時に溜めた魔力を一気に解き放つ。
「獣神戦技〈貫光迅雷・剛〉!」
力ある言葉と共に、天龍騎士は稲妻を曳く矢――あるいは弾体となった。盛大な破裂音と共に擂鉢状に土が抉れる。
弾丸であるエフェスが見た景色は泥のように遅い。直進上にある枝葉や幹が次々と吹き飛び、緩慢に後方に流れてゆく。追い越す木々が十数本を数えた時、エフェスの眼は狙撃手を発見した。樹上、青銅の鈍い輝きの幻魔甲冑がうずくまる。――幻魔兵オルクスだ。その手には奇怪にねじれた形の弓矢があった。
オルクスはバイザーのスリット越しにこちらを見ていた。矢をつがえようとしていたが、回避を優先したようだ。
すれ違う。剣の切先が敵を捉えたことをエフェスは感じる。血飛沫を撒き散らしながら宙に舞ったのは左腕である。本体は地面に降りて逃げようとしていた。勢い余って二本先の木にぶつかりそうになるのを、エフェスは脚で止める。破裂音と共に樹幹の蹴られた部分が大きくえぐれた。
逃走する敵を背後から斬る、という行為への躊躇は、今のエフェスにはない。木を蹴り、蹴り、蹴り、跳躍。振り下ろした剣がオルクスを頭頂から股間まで真っ二つに斬り下げた。紫の炎を上げ、左右に分かたれたオルクスの屍は爆発するように燃え上がった。