6 西から来た賢人
ヴァリウスはエフェスの横をすり抜けるようにアルジェへ近づき、屈み込んで様子を見た。上体を引き起こし、呟いた。
「外傷はないようだな。全く、向こう見ずめ」
両肩に手を添えて活を入れる。エルフ娘の上体が一度痙攣し、息を吹き返す。
「――はッ!?」
「起きたか」
「あッ、ヴァリウス――あたし、負けた!?」
「お前の負けだ、アルジェ」
きっぱり言われるとアルジェは緑の眼を伏せ、うつむいた。ヴァリウスは立ち上がり、エルフたちの事問いたげな視線を受けた。
「ヴァリウス殿、この男は」
「こいつは俺の知り合いだ。名をエフェス・ドレイク。天龍騎士だ。お前らが束になっても敵う相手じゃない」
エルフたちがざわめいた。天龍騎士の称号とドレイクの姓、そして獣神騎士の威名はエルフにも覿面であるらしい。
正面のエルフが手で合図を送ると、三名が降りてきた。これで六名。男が三で女が三。いずれも敵意とまでは言わぬが、胡乱な視線をエフェスに送っていた。
「ジェイラン、それとエフェス。神官長がお前らをお呼びだぞ」
「神官長が?」
名を呼ばれ、正面のエルフが背筋を伸ばした。
ヴァリウスが半眼でエフェスをじっと見つめてきた。
「……何だ?」
「行かないっていうのは無しだぜ、エフェス」
行く気がないという内心は、どうやら見透かされていたらしい。エフェスは問うた。
「それで俺に益があるのか?」
「あんたねぇ! つくづく不遜よ、不遜! 神官長様のお呼びなのよ! むしろ伏して拝みなさいよ!」
アルジェが指を突きつけてきた。エフェスはまたヴァリウスに視線を投げた。
「また黙らせていいか?」
「やめとけ。お前の無闇に喧嘩を売る態度、大分問題があるぞ」
「俺は売られた喧嘩を買っただけだ」
ヴァリウスは例の皮肉げな笑みを浮かべて首を振った。
ジェイランを先頭にして一同は歩き出した。
「何故エルフと同道している?」
先に口を開いたのはエフェスの方だった。ヴァリウスの表情に一瞬だけ苦い色が浮かんだ。
「エレルフォムでも、覇国の動向が気になるらしい。彼らはその斥候役だ。ちと目立つ気もするが……エルフたちがいなけりゃ俺もラッセナから脱出できなかった」
「あの場にいたのか」
「ああ。逃走中に彼らも犠牲を払った。覇国の斥候の眼を始終気に病んでるし、実際に死者も出ている。お前のことを警戒したのも無理はない。許してやれ」
「気にしてはいない」
ヴァリウスはそうかと言うと、何かに気づいたように声を上げた。
「あ、お前一人なのか?」
「そうだが」
「お前な、エフェス。俺は以前仲間を作れと言ったはずだぞ。お前の背中を護れる仲間を作れと。ありゃどうなったんだ?」
「知らんな」
「知らんなって……そんなだから右手を怪我するんだろうがよ」
ヴァリウスの口調は、やや堅苦しいものと俗っぽい口語が入り混じる、独特のものだ。大陸共用語が母語ではないからだろう。ある程度座学で学んで、その後実践で覚えたのかも知れない。
「それは俺の問題だ――お前、気づいていたのか」
「はッ、素人はともかく俺の眼は誤魔化されんぞ」
鼻で笑うように言ったあと、ヴァリウスは真顔になって言った。
「説教するつもりはないが、危ういところで命を拾ってるな、お前?」
「……この傷は俺の問題だ」
「そうかよ」
ヴァリウスはそれ以来尋ねなくなった。元々行きずりで、共闘したという程度の仲である。それが例え獣神騎士だとしても、私事に必要以上に立ち入ろうとは二人共考えなかった。
やがて森の中に開けた空間が現れた。
中央に泉が湧いており、その水は澄み、木漏れ日を鏡のように照り返していた。如何にもエルフ好みの場所である。
泉の畔にいくつかの天幕が張られている。その中でも一回りは大きい天幕に誘導された。
「神官長」
「入り給え、エフェス・ドレイク。ヴァリウス、アルジェ、お前たちもだ」
思いがけず深い声だった。何気なく放たれた風でありながら、質量すら感じる声である。このような声は、少なくともエフェスが知る限り初めてだった。
名を呼ばれたアルジェが、ぎくりと肩をそびやかした。
「……あたしも?」
ジェイランが黙って頷いた。
天幕の中には二人がいた。一人は見知った顔だった。金髪、柘榴石の瞳の女騎士は、エフェスを見るなり驚いた表情をし、ついで半眼になっても大きな眼で睨んできた。
「……何故いる」
「それはこっちの台詞……言い訳があるなら後で聞くわ」
言うべきことなどない、と言いかけたエフェスの腹が肘で軽く突かれた。横を見れば興味深そうな顔をヴァリウスがしている。
「おい誰だこの美人は? 紹介しろ、エフェス」
「マーベル・ホリゾント。あとは本人に聞け」
面倒になってエフェスは説明を放棄した。後頭部を刺すような視線を感じるのは、アルジェの白眼だろう。それに従ってのことではあるまいが、二人は黙って目礼を交わす。
「もうよいか」
今一人の者が、やはり深い声を発した。その一言だけで天幕内の空気が変わった。それほどの力を秘めた声だと言えた。
床几(折り畳み椅子)に座ったエルフの男である。人間で言えば壮年の気配がするが、その容貌は二十代から六十代のあらゆる年齢にも見えた。長い真っ白な髪の下の大きな眼は殆ど黒に近い青であり、あたかも全てを見透かすかのように深い。
神代エルフか、と思った。言うなればエルフの貴族、真のエルフとも言われ、その寿命は通常のエルフより長く、持ち合わせる魔力も多いという。無論、エルフの中でもハイエルフは希少である。
「エレルフォム王国神官長アーディルである」
「……お初にお目にかかる、アーディル殿。天龍剣後継者、エフェス・ドレイク」
神官長には侵すべからざる威風とも言うべきものがあった。その威に打たれ、エフェスもまた目礼を返した。
「アルジェ、御苦労だった」
「はッ!」
鋭く応答を返してアルジェが拝跪した。神官長が僅かに眼を細め、彼女を見た。
「が、少し逸ったな。お前が双剣に自信を持っているのはわかる。しかし、対峙して彼の技倆に気づかなかったか?」
「う……」
頭を垂れたままの姿勢でアルジェが硬直した。
「逃げと弓射に徹し、支援を待つべきだったな」
「み、見ておられたのですね」
「然り。彼が森に脚を踏み入れたときから」
アルジェは今、気絶しそうなほどの羞恥に襲われているだろう。神官長が彼女から眼を上げ、視線をエフェスに向けてきた。エフェスはそれを見計らって言った。
「神官長、あなたは俺を試したのか。だから今足元で死にそうになっているこのエルフ娘が、俺に斬りかかるのを座視した、と」
「多少はこの娘の鼻柱を折っておく必要もあったのでな。まあ、試しには不足だった訳だが」
アーディルは否定せず、語を継いだ。うずくまったままのアルジェの身体が、生まれたての子羊めいて小刻みに震えていた。
「半端な力を過信する者は、自分だけでなく周囲の者も危険に晒す。学ばねばならぬことだ」
「……それは俺もか?」
「さて。争闘の何たるかなど、天龍騎士には今更説くべきことでもなかろう」
今のところは無表情で通しているが、エフェスは内心顔をしかめた。余人が口にすればあからさまに皮肉の籠もるだろう言葉を、このエルフの神官長は何とぬけぬけと言ってのけるのか。
賢人とはこういう者のことを指すのだろう。つくづく油断のならぬエルフだった。