5 エルフはカブトムシを食べない
食事を済ませ、火を片付けて歩き出した。丘をいくら歩いても人の姿は見当たらなかった。よくあることだった。
北東へゆけ。そう夢で告げられたものの、そもそも北東のどこへ向かえばいいのか。
ラッセナは南東である。翻意するつもりは毛頭なかったが、何故北東なのかをエフェスは歩きながらしばし考えた。
森に足を踏み入れて、違和感を覚えた。敵意の視線を感じたとき、一本の矢が爪先三寸前の足元に突き立った。
警告か、と思った。それは確信に近い。
篭手に覆われた指が頭上に伸び、一本の木の枝を折り取った。太さはともかく長さは振るにやや短いが、頃合いである。
また矢が飛んできた。二本。枝を一度横に振り、それらをはたき落とした。
身を低くして、疾走した。矢が三本。二本が頭の高さを通り過ぎた。風切り音を聞きながら、エフェスは背中への一本を振り返ることなく撃ち払う。
そうやって矢をやり過ごしながら、エフェスは矢の方向を見た。敵は樹上にいる。枝が揺れて葉が落ちてくるのは、何度か射ち込むたびに移動しているからだろう。弓勢、技倆、共にかなりの使い手と見た。しかも複数。
エフェスは跳躍した。二本の樹、人二人ほどの間隙。幹に矢が突き立つのを意に介さず、左右の樹を蹴ってエフェスは樹上へ登り上がった。
エフェス自身と鎧と剣、軽く見積もって男二人分の重み。それを受けて太い枝に罅が入る。完全に折れる前にエフェスは枝から枝へ次々と渡っていった。
枝が体重に耐えきれず落ちるほんの僅かな間に、別の枝へ移る。その動作には一瞬の躊躇もなく、表情には一切の逡巡がない。この程度のことは出来て当然、という意識すらない。
いた。色素の薄い髪。色白の整った顔。そして尖った耳――エルフの男だ。枝から枝を跳び移って接近するエフェスを見た眼が、驚愕に見開かれている。その手には引き絞られた弓矢――
真正面から放たれる矢。
しかし腰が引けている。そんな矢では当たるものも当たるまい。エフェスは無造作に矢を払いのけながら木の幹を思い切り蹴り、相手に迫った。
エルフが飛び退くより少し早く、彼の足場としていた枝が破壊される。それを為したのはエフェスの右手に掴んだ鉄鞘の剣だ。
エルフが悲鳴を上げて落下する。それを追おうとして、エフェスはやめた。背後から矢が来たからだ。仲間からの支援射。エフェスは別の枝を左手で掴み、身体を引き上げた。足元を矢が通り過ぎてゆく。その間にエルフの男は受け身を取り、脱兎の如く森深くへ駆け出していった。
エフェスは十分な太さを持つ樹幹に立ち、口に横に咥えた木の枝を捨て、大音声で呼ばわった。
「エルフたちよ! 何故俺に攻撃を仕掛ける!」
応答はない。葉群がざわめいただけだった。エフェスは続けた。
「俺にお前たちへの攻撃の意図はない! しかし降りかかる火の粉を払うには、俺は一切躊躇なく剣を揮うぞ!」
「……人間風情が――大声を出す必要はないぞ」
感情を抑えた呟きが、しかしあからさまなほどにエフェスの耳に届いた。エルフに伝わる魔術、あるいは魔法、もしくはそれに類する話法だろうか。
「本来ならば応える義理もないが、教えてやろう。ここは我らの野営地。通ることは能わぬ」
尊大な声である。それも道理、エルフは概ねエルフ以外の人々に対して冷淡かつ尊大、そして彼らを見下していると各地の伝承で知られていた。エフェスにエルフの知人はいないが、どうやら言い伝えは真実であるらしい。
「こちらも急ぎの用がある。迂回していては間に合わぬ故、押し通る」
負けじと尊大さを装って応答した。先手を打って仕掛けてくる輩にを前にして、下手に出るような訓育は天龍剣ではしていない。
「許さぬ。早急に立ち去れ。命ばかりは見逃して仕わす」
ここまで言われれば、エフェスの我慢もそれまでである。言わずともいい言葉が口を衝いて出た。
「お前たちに許可を貰う謂れなどない。そもそもこの森はお前たちの領分ではあるまい。それとも何か、エルフの頭の中は蜘蛛の巣でも巣食っているのか?」
「な……ッ!?」
別のエルフが呻くような声を漏らしたのが聞こえた。怒りのあまり絶句したのだろうか。エフェスは続けた。
「本来エレルフォムの〈蒼の森林〉に引きこもっているお前たちが何故クーヴィッツにまで出向いているのか、それについては俺にはどうでもいい。この森に陣取り、そこらへんの茸を食うのも勝手だ。だが森を我が物顔で専有し、私物化する権利はない。中原の森は最早お前たちのものではないぞ、エルフども。わかったなら草でも食って座視しているがいい」
往古、エルフは森の守護者であり管理者だった。その権限が失われたのはいつからのことだっただろうか。時代が下るごとに溢れんばかりに地に満ちていた魔力は徐々に希薄になり、その恩恵を最も受けていたエルフは数を減らしていった。やがて彼らは中原を去り、西の〈蒼の森林〉に逼塞を決め込んだ。
今でもエルフは自分たちが森を捨てたのを都合よく忘れて管理者気取りだ、という巷間の伝承も含めて、中原では良く知られた話である。
「言うに事欠いての挑発的文言、最早見過ごせぬ。吐き捨てた妄言の愚かしさを悔やむがいい」
語調は飽くまで冷静だが、僅かに語尾が震えていた。エルフらの攻撃的気配が森をざわめかせるようだった。
「数は六か、七か」
エフェスが相手の数の試算を呟いた。多く見積もっても十には満たないだろう。しかし彼らはそれぞれが優れた身体能力を持ち合わせた狩人であり、決して侮るべからざる戦士である。一人一人が訓練された騎士数人に匹敵するという。
それだけだ、とエフェスは思う。
「俺を竦ませるには、今の五十倍は連れて来るがいい――」
応答ではなく、今度は矢が一斉に来た。
それぞれの方向から飛んできた四本の矢が虚空を射抜く。エフェスは落下しざま、すぐに樹幹を蹴って別の枝へ跳び移っていた。剣を背中に収め、再び枝を折り取って右手に持った。すぐに二本が来たが一本は背にした鉄鞘に弾かれ、一本は枝で払う。
空中を疾走するような速度でエフェスは枝を樹上をゆく。
だが――弓矢と剣、射程の差は明白だ。しかも相手は一人ひとりが弓の名手として名高く、森人とも言われるエルフだ。地の利はあちらにある。
エフェスも負ける気は全くないししないが、さりとて彼らを残らず斬り伏せるような苛烈な意志も流石にない。
落としどころは二つに一つ――このまま森を突っ切るか、エルフたちに負けを認めさせるか。
そしてこの森は直線距離でなお深い。となれば取る手段は一つだけだった。
視線を巡らせる。眼が、一瞬だけだが合った。その緑の眼が驚愕から敵意に移り変わるまでの間、エフェスは鉄鞘の剣を真っ直ぐ投擲した。緑の眼の持ち主は、手近な上の枝に手をかけて身を登らせる。
エフェスはそこを読んだ。更に脚力に物を言わせ、速度を上げて肉薄した。緑の眼のエルフが体重を枝に預け切るより早く、その足首を掴んだ。
そのまま大地に、諸共に引きずり落とす。
その足首は細く、落下の際にエルフが上げた長い悲鳴は甲高い。つまり、女だ。
下は柔らかい腐葉土だが、先程までエフェスらがいたのは人の背丈の数倍はある樹上である。背中や腹から落ちれば衝撃は少なくない。反射的にエフェスは掴んでいた足首を離し、受け身を取って立ち上がった。
「信じられない……この人間……!」
腐葉土に顔から突っ込む結果となったエルフ女は、立ち上がりながら口の中の土をしきりに吐き出した。青に近い髪を掻き上げた手が止まり、その感触に端正な顔が歪んだ。
「……げぇッ、カブトムシの幼虫! 最低……!」
髪にくっついたものを払いのけると、腰にくくりつけた二本の剣を抜き放った。長さ一尺五寸ほど、刀身と柄が一体になった、美術品とも見えるような剣である。業物に違いない。
「あたしたちを愚弄した罰、甘んじて受けなさい!」
緑の眼を怒りに燃やし、エルフ女が構えた。逆手に握った双剣が木漏れ日を受け、錆一つ無い銀色の輝きを放つ。重心を低くした構えには一分の隙も伺えない。
距離は十二歩ほど。エフェスは手にした枝をエルフ女に向けた。挑発的に見えるように。
「病み上がりの腕試しだ。本気で来い」
エルフ女が木の葉を踏みしだいて走った。一息で間合が詰まり、左は側頭を、右は下腿を狙って双剣が左右から薙ぎつけてくる。エフェスは滑らかに後方へ下がりながらその顔を枝で払った。エルフはしゃがみながら、右剣を顎目掛けて突き上げる。右半身を開くようにして躱しざまに、エフェスは右の蹴りを送った。エルフは身体を捻り、転がるようにして後方へ逃れた。
エルフは立ち上がり、そのまま全身の発条を以て、双剣からエフェスへぶつかってきた。
思い切りがいい。判断も悪くない。距離は近く、何よりエフェスは双剣を防ぐ得物も防具もない。篭手で防ぐのも心許ない。
だが悪かったのは、相手である。他の相手であれば十中八九勝利を収め得ただろうが、今の相手は天龍剣エフェス・ドレイクに他ならない。
エフェスは瞬時に身を低くしてエルフを担ぐようにし、相手の勢いそのままに己の後方へ投げ飛ばした。この技は〈擒霧摘雲〉、天龍剣と王虎拳で共通する符丁を持つ技である。
エルフ女は背中から樹に叩きつけられる結果になった。大きく息を漏らし、双剣を取り落として力なく横たわる。
やりすぎたかとエフェスは彼女に近づいた。死んではいない。気を失っただけで息はある。改めて観察すれば少女のように若かったが、エルフはなべて長命だから年齢のほどは想像もつかなかった。
「アルジェから離れろ、人間」
周囲を囲まれていた。気づいていなかった訳ではない。エルフの女と剣を交わす間は誤射を恐れて矢を射掛けてこないだろうと踏んでいた。
エフェスは立ち上がり、エルフたちを見渡した。姿を見せているのは三名――真正面に一人、頭上に二人。皆弓矢を引き絞っている。あと数名、森に潜んでいるとエフェスは見た。
「交渉は可能か?」
「この状況でか? 侮るのも大概にせよ、人間」
交渉決裂。というより相手にその気がなければ交渉は成立しない。
流血沙汰になるのは止むを得ない、とエフェスは思った。生憎剣は正面のエルフのずっと後方の土に突き立っていた。あれを取り戻す好機を果たして相手が与えてくれるか――
「――はいはい、そこまでにしておけ。これ以上――というか、そもそも最初から無益で無意味な闘いだ」
太い声と共に、ぱんぱん、と手を叩く音がした。
音の方向を見た。身の丈六尺半の巨漢が近づいてくる。黒髪に隆々たる体躯、特徴的な眉毛。そして中でも特徴的な黒瑪瑙の瞳が、皮肉っぽく笑っていた。多分呆れてもいただろう。
男は馴れ馴れしげに片手を上げた。忘れられぬほどごつい手だった。
「よう、久しぶりだな、エフェス・ドレイク」
ヴァリウス・ガウだった。




