4 龍の警告
明け切らぬ夜をエフェスは早足で進む。
雨は上がっていた。黒い胸甲、黒篭手、黒マントの黒ずくめ。背中には鉄鞘に納められた剣――戦装束が草の露に濡れるのをエフェスが厭うことはない。
エフェスはカザレラ村での日々を、ただ身体能力の本復に費やしただけではない。シェラミスやカザレラ村から何枚かの周辺地図を無断で拝借し、暇を見ては地形や道を頭に入れていた(地図は置いてきたので問題はないだろう)。眼を瞑ってでも歩けるとまでは言わぬまでも、道はかなり把握しているつもりだ。
傷は完全に癒えていない。右手指先の震えは抜けきらず、未だ万全と言い難いことは彼自身が一番良く理解していた。シェラミスには後遺症を見透かされていたが。そして内心の焦りも。
(やるべきことはわかってるのに、いつまで愚鈍なふりをしてるつもりなんだ?)
その言葉が、いつまでも抜けない棘のように意識から離れない。尤も言い返したエフェスの言葉は彼女を絶句させ、直後に激怒させるに足るものでもあった。だからこれで五分だ、とエフェスは思っている。
向かう先は西、ラッセナ。目的は首二つ――即ち覇王バンゲルグと幻魔騎士バイロンの命。敵の首魁の暗殺である。
無論、容易いことだとは決して考えていない。だが決して不可能だとも考えなかった。カザレラ村で聞いた限り、覇軍がラッセナから動いたという報告はない。地方も戦々恐々と成り行きを見守っているようだった。天龍騎士の眼はこれを一日千秋に待ち望んだ好機と見たのである。
エザムの山道を突っ切り、視界が開けた。曲がりくねった丘陵をゆく。途中、礫を飛ばして木に止まった鳥を撃ち落とした。ドゥーンらドワーフに内密に譲ってもらった携行食もあるにはあるが、出来るだけ保たせておきたかった。
夜が来そうだった。起伏も少なく、丘というよりは草原に近い。そこで火を焚き、鳥の内臓を抜いて枝に挿して炙る。羽毛が焼け落ちていく。裏返し、火を通す。頃合いを見て塩を振り、食った。
ガレインの焼いた肉は、鳥であれ兎であれ蛇であれ、大抵美味かった。ガレインは香草をすり潰した粉を持ち歩き、肉に振りかけて焼くとそれが独特の風味を出した。その作り方や焼き方までは教わらなかったのだ。
さして美味くもない食事を終える頃には、すっかり周囲は暗くなっていた。残りは明日の分である。
獣の気配はない。炎以上に、獣神騎士の気配は彼らを極度に怯えさせる。野盗の危険性もないではなかったが、今のエフェスの風体を見て襲おうとする野盗はいないだろう。見るからに金目のものは持ち合わせていない武芸者、といったなりだった。
闇の中、炎が音を立てて燃えている。見つめていると、自然と考えは幻魔騎士バイロンのことに向かった。
何故勝てなかったのか。バイロンと己にそれほど差はないと思っていた。しかしそれは自分の考え違いではないのか。あるいは思いも寄らぬところに差があったのか。
「奴は、何故闘っている」
考えが呟きになった。
ガレインの語ったような妻を亡くして悲嘆に暮れる剣士と、闘うために闘うような幻魔騎士。つながると言えばつながりはする。悲しみが男を狂わせた、と思えば納得できぬこともない。だが本当にそれだけなのか。悲しみから逃げるために闘いを求めているのか。
ふと、エフェスは愕然とした感情に囚われた。
「俺は……何故闘っている」
覇国への復讐のため。そう思えば如何にも聞こえはいいだろう。だが、それだけなのか。獣神騎士の使命や復讐を言い訳にして、あらゆることを投げ出して闘いに逃げ込んだのではないか。バイロンと同じように。
それは初めて抱く思いだった――否、気づいていた。気づいていながらも、見て見ぬ振りをしていた思いだった。
闘うことしか知らないと思っていた。しかしそれも誤りではないのか。闘い以外のことを、己は学ぼうとしたのか。
「これでは――奴と何が違う?」
問いかけても、闇や炎は何も応えない。
いつの間にか、眠っていたらしい。全身が総毛立つような気配に襲われ、エフェスは咄嗟に身を起こした。
龍が、いた。――目鼻の先にいた。
飛竜や地竜などのように大型化した爬虫類ではない。神霊にも近い力を得た魔獣にして幻獣の長――それが龍である。
中でも歳旧りて膨大な魔力を蓄えたものを古龍と呼ぶ。古龍は大概の場合懸命という以上に老獪で狡猾、傲慢で自分本位だと言われる。
今龍は古龍と呼ぶに相応しい巨大さと偉容を持っていた。頭部の高さだけでエフェスの身の丈を上回り、顎を飾る牙の列は研ぎ澄まされた剣のように鋭い。尾も含めて一町(約百九メートル)にも及ぶ身を包む金属質の鱗は分厚く堅牢そのもので、大砲すら弾き返しそうだった。
龍を見るのは初めてのことである。今の時代では飛竜も数を減らし、古龍に至っては三十年近くも姿を目撃されていない。その個体は祖父ファルコが退治したらしいが――エフェスが祖父の言葉を信じられなくなったのも初めてのことだった。
エフェスの背中に冷たい虫が這い回るような錯覚を覚えた。対峙するだけで身も心も削れてゆくように感じるのは、龍の放散する魔力のためか。剣が手元にないことに気づき、心許なさすら覚えた。
同時に、ここまでの接近を許したのを訝しんだ。龍の巨体は少し動くだけで軽い地響きを起こし、折り畳んだ翼を広げれば風が渦巻くだろう。そもそも龍のまとう魔力からして膨大である。本来ならばもっと早くに接近に気づいたはずだ。
『天龍の剣士よ』
頭に届く声にエフェスは再び瞠目した。発達しすぎた頭脳による念話である。脳に直接語りかけられるのも初めてのことだった。
『北東へゆけ。さもなくば、汝の闘いの意味が失われることとなろう』
「どういうことだ?」
エフェスは思わず問いかけた。龍はそれには応えなかった。
『北東へ向かうのだ。我が告げるべきはそれのみ』
龍がその巨翼を羽ばたかせた。盛大に風が巻く。周辺の草木が倒れ伏さんばかりになびき、撓う。焚火の燃えた跡が吹き飛ぶ。エフェスは風の中で顔をかばいながら、瞬く間に頭上遠くまで遠ざかる龍の姿を眼で追った。
「何故だ! 龍よ! 何故俺にそんなことを告げた!」
『汝が天龍の剣士であるが故』
龍の影が小さくなり、空に消えてゆく。
そこで眼を醒ました。明るさを取り戻しつつある空が眩しい。
「夢か」
そう判断せざるを得なかった。熾火だけの焚火が、夜と変わらず燃え残っている。
やけに生々しい夢だった。いや、夢であったからこそ龍は目鼻の先にいたのだ。そう言えば、夢の中がどんな時間帯だったかさえ曖昧である。
あの夢にどういう意味があったのか、エフェスはしばらく考えざるを得なかった。
ふと視線で剣を探した。鞘に収まったまま、剣は傍らにあった。
「……ラスタバン、お前なのか?」
龍が形を変えたその鎧は、今は鞘として龍魂剣と相互を補完し合う状態にある。鎧はこれ以上小型化出来ず、鞘の形にすることに決めたのだ。
鞘に触れた。ラスタバンは何も語らない。これ以上眠れそうにはなかった。




