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3 湯煙の中

温泉回。

 深夜になって雨は小ぶりになってきた。

 

 濛々たる湯煙の中、硫黄の匂いがほのかにする。温泉だ。しかも天蓋付きの露天風呂である。周囲は石垣で覆われていた。

 

 エザム山塊は元々は火山地帯であり、噴火の危険性は人々を度々脅かしてきたものの、同時に大きな「ベヘモット神の恩寵」を与えても来た。鉄鉱や金銀宝石を始めとする地下資源は、クーヴィッツの主要な産物として大陸に名高い。鉱床では太古の生物の姿を今に残す化石も良く掘り出され、好事家や魔術師がそれらを買い取っているという。

 

 温泉も重要な産出物の一つだ。エザムの山麓に湧く温泉は透明な湯に万病、打ち身、筋骨の疲労、更には皮膚病や肌の美容に効能を持ち、ウーイ村には巡礼の季節ともなるとそれにかこつけた湯治客が押し寄せるという。元来は風呂嫌いなドワーフもこの名湯の魔力には抗い難く、仕事帰りに生業である鍛冶で疲弊しきった身体を癒やしていた。

 

 一糸まとわぬマーベルが湯場へ入ると、先客がいた。温泉に肩まで浸かり、シェラミスが仰向けに長くなっていた。

 

「ああ……マーベル、君か」

「シェラミス……あなた、お風呂何度目?」

「三度目……これで終わりにするよ」

「そりゃ、一日も終わるし」

 

 だいぶ弛緩した様子だった。よく湯あたりしないものだと思う。見えないところでしているのかも知れないが。

 

 シェラミスは個室でひたすら書に向かい、あるいは書類を読み、あるいは書信を書いていた。それこそ朝から晩まで、だ。文盲の多いドワーフたちはうず高く積まれる書面を見て「我らならば発狂する(のう)」などと割と深刻そうな表情で呟いていたりもしていた。

 

 そんな日々を続けていれば、風呂で弛緩するくらい許されるだろうとマーベルは思う。日に三度は入り過ぎだけれど。

 

 マーベルは湯船に身を沈めた。人の体温よりやや熱い湯が、実に心地よく身に沁みる。

 

「……幻魔って何なんだろうな」

 

 天蓋の骨組みに視線をさまよわせていたシェラミスが、ぽつりと言った。


「ないんだ、ないんだよ。記述がない。白虎平原は東方由来の独自の文化を持ち、それは魔術体系も同じだ。文献も少ないが、ある。幻魔兵と聞いて一部の魔術師はそのルーツを探そうとした。あたしも手紙をあちらこちらへ送って確認した。が、どの文献にも『幻魔』やそれに相当する言葉や単語、文字は見当たらなかった。世界最大規模の〈蝶の館〉の図書館でも発見できなかった」

「……それは、つまり?」

 

 マーベルに続きを促され、シェラミスは「これは仮説の段階だが」と前置いて、言った。

 

「幻魔兵は白虎平原に由来するものではないのではないか、ということさ……うん、これじゃ何もわからないのと同じだな」

 

 シェラミスは口に苦い笑みを浮かべた。

 

「何故、我らは勝てなかったんだと思う?」


 突如話題が切り替えられた。マーベルはちょっと考えて、答えた。


「……闘いの用意が出来ていなかった、から?」

「そうだね」


 シェラミスも否定はしなかった。

 

「ひょっとしたら、敵にもろくな計略なんかなかったのかも知れない。そうだな……例えるなら、たまたま現れた道化たちが使えそうなので急遽舞台をしつらえたら案外上手く行った、とかそんな感じなんだろう。いっそ川魚の追い込み漁が近いかな」

 

 

 

「エフェスと喧嘩した」

「は!?」

 

 思わずマーベルは素頓狂な声を上げた。流石に寝耳に水である。

 

「ガレイン卿と話し合った後、様子がおかしかったからちょっとつついてみた。それがいけなかったらしい」

「……何を言ったの」


 シェラミスは少し言いにくそうに口を動かした後、諦めたように言った。


「……やるべきことはわかってるのに、いつまで愚鈍なふりをしてるつもりなんだ、って。そしたらあいつもキレた。役立たずの無能よりは愚鈍の方がまだマシだってさ――あいつめ、言うに事欠いて……!」


 シェラミスの口調に、冷めやらぬ怒りが籠もっていた。


 マーベルには成り行きが何となくわかった。シェラミスが意図せずエフェスの弱みを突いたように、エフェスの返した皮肉がシェラミスの悩みどころを的確にえぐったのだ。

 

「謝るつもりは……なさそうね」

「ないよ」


 マーベルの言葉にシェラミスはそっぽ向いた。この若い魔術師は意固地である。一度こうなったら梃子でも首を縦には振るまい。


「まあ愚鈍は言い過ぎたと思うけど……エフェスの場合、やりたいこと(・・・・・・)やるべきこと(・・・・・・)が下手に近いから分離されていないんだ。だからやるべきこととやりたいことの区別もついてないんじゃないかな」

「やりたいことは――一族を殺した相手への」


 復讐。その一念がエフェスに暗い影を落としていることくらい、気づかないマーベルではなかった。


「やるべきことは覇国の撃破とか撃退とか、そのあたり?」

「そうなるね。でもエフェスはその二つを区別していない。それどころか意図的に混同しているように思える」


 シェラミスはここで身を屈めるように座り直した。口調もいつものものに戻りつつある。


「――覇国による龍脊山脈襲撃の件は有名だ。女子供の別なく殺され、難を逃れた数少ない生き残りも中原を転々とし、百蛇衆によって容赦なく狩り出された。エフェスの復讐の念が根深いのはわからんでもない」

「でもそれじゃ駄目なのね」

「ああ、駄目だね。なかんずく、獣神騎士の称号を継ぐ者は己だけのために力を揮ってはいけないんだ」


 それが超常の力を与えられた者の務めなのだろう。マーベルはそう解釈し、また問いを投げかけた。


「何故それを言ってあげないの?」

「獣神騎士じゃないあたしが言って聞くと思う?」


 思わなかった。マーベルやランズロウでも無理だろう。多分兄弟子であるガレインでも説き伏せることは出来そうにない。いや、出来なかったのだろう。


 シェラミスは深く溜息を吐いた。


「神童だの天才だのと煽てられて、人を顎でこき使う立場になって、祖父様直々に後継者として指名されて、いい気になって、世界さえ変えられるんだ、全知全能なんだと思っていた……結局、何もわかっていなかったんだなぁって、今更思った」


 その言葉には深い失望があった。絶対的な自分自身への信頼が揺らぎ、失いかけている者の言葉。


「……あなたは精一杯頑張ってるわよ。わたしなんか、狩りしか出来ないし」

「日々の食事に必要なことじゃないか。あなたのお陰で肉の貯蓄が増えたってドワーフたちも喜んでる。あたしは本がなければ記憶力が多少いいだけの小娘だ。家事だってろくにしたことがない。繕い物に至っては大嫌いだ」


 シェラミスの、継いだ言葉に怒りが籠もった。


「大体、腹の中に全部抱え込んで何も言わないあいつも悪い。大方右手を斬った奴に逆襲狙ってるんだろうけどさ、今のあいつのままじゃ何もしてやれないよ。尤もあいつだって、こっちに何かをして貰おうなんて思っちゃいまいが――だから頼まれるまで何もしてやるもんか」


 絶対に、とまでは言わなかった。それが彼女の良心なのかも知れないとマーベルは何となく思った。


 シェラミスの華奢な裸身が湯船から立ち上がった。それから済まなそうな口調でこう言った。


「……マーベル、愚痴に付き合わせてごめん」

「それくらいいいわ。でも、謝るならエフェスに謝るのよ」

「……わかった」


 しおらしく言って、シェラミスは浴場から退出していった。


「――何も出来ないのは、わたしの方よ」


 そう呟き、女騎士は湯で顔を洗った。きっと誰もが疲れすぎたのだ、と納得させて。

 

 × × × ×

 

 彼女がエフェス・ドレイクの失踪を知ったのは翌くる朝のことだった。

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