2 怒りと憎しみの所以
「叔母ちゃんのところに早馬!」
「ようがす!」
「承り!」
「合点承知の助!」
メルチェルの指示に、三名のドワーフが躊躇なく降りしきる夜の雨の中へ飛び出した。女子供などはカザレラ村から少し離れた別のドワーフ村に避難させていた。ガレインの妻もそこにいる。
ガレインは肩口から斜めに斬り下げられているようだった。しかしその傷自体は浅い。
「毒か」
エフェスが断じるように言った。
「それと内傷もな……ここでいい」
肩を貸す者たちにガレインは言い、板敷きの間の大黒柱に背をもたせかけ、結跏趺坐を組んだ。重傷と言ってもあからさまな怪我を負っている訳ではない。問題は体内にあった。武芸者の言う内傷――内出血や骨折の類である。
堂々たる結跏趺坐に、ドワーフたちが嘆息した。周囲の視線を意に介さず、ガレインは調息した。呼吸を巡らせ、内力を働かせ、鎮痛と損傷箇所の回復を促す。荒れていた呼吸が次第に穏やかになっていった。
メルチェルに軟膏の壺を手渡して、シェラミスが尋ねた。メルチェルがガレインの服を脱がせ、包帯と軟膏で治療を施してゆく。
「何があったんです、ガレイン卿?」
「覇王暗殺に失敗したか」
エフェスの言葉に、その場の皆がぎょっとした表情をした。ガレインは灰色の髭の生えた口元に自嘲めいた笑みを浮かべた。
「わかるか、エフェス」
「敵の首魁が手の届く場所にいる。俺があんたでもそうする」
「そうか」
至極当然のように同門弟子がうなずき合う。ガレインがしゃがれた声で言った。
「布をくれ、メルチェル」
メルチェルが言われたようにした。ガレインは布を口に当てると一つ二つ咳き込み、三度目に黒々とした血で布が汚れた。
「叔父貴……!?」
「毒血だ、仔細ない。後で埋めておけ」
ガレインは布のまだ白い部分で口元を拭った。
「確かに鉄牛騎士団を率いて覇王暗殺に私は向かった。その結果がこの有様だがな」
皆が唾を呑んだ。投影珠で送られてきた映像には音声が付随されていない。しかしあの、血の固まらぬおびただしい右耳から、ただならぬ事態が起きたことは推察していたし、ユーリル他複数の情報からも覇王暗殺とその失敗は知られていた。ただ、ガレインがそこに加わっていたことまではシェラミスも読んでいなかった。
否、読んでいたが、その可能性を除外していたのだろう。
桶と水差しが来た。済まんな、と言ってガレインは口をすすぎ、血の混じった水を吐き捨てた。ついでに、布を水で濡らして口をもう一度拭う。
「何故、そのような真似を? ガレイン・ザナシュ卿ともあろう方が、そんな無謀な真似を」
シェラミスには無謀としか思えないだろう。彼女は幻魔兵の恐ろしさを身にしみて知っている。ガレインもまた同様だろう。
「……友やかつての部下が命を投げ出そうとしているのだ。それを私は止められなかった。ならば、共に闘うのが騎士としての責務だろう」
ガレインはきつく眼を閉ざした。その顔に刻まれた皺は、エフェスの記憶よりずっと深かった。
「ただ――奴らは想像以上の怪物だった……クーヴィッツ軍最精鋭たる鉄牛騎士団二百名が、瞬く間に撃ち破られた。相手はたった二、三名の幻魔騎士だった」
重い沈黙が降りた。また、ガレインが言った。
「エフェスと話がしたい」
板敷きの間から皆が退出した。エフェスは結跏趺坐を組んだままのガレインと向き合う位置に座った。
「無茶をする、師兄」
「右手を出せ、エフェス」
エフェスは言われたようにすると、ガレインの手が手首を掴んだ。握力は戻ったが、右手の指先は僅かに、しかし明らかに震えていた。
「……この震え、当分は戻るまい。いくらか正確さも失われていよう」
「だから何だ」
「まだまだお前では私には勝てんぞ。就中、このような手ではな」
そのような状態のお前に言われたくはない、とガレインは言ったのだろう。エフェスは振り切るように手をもぎ離した。ガレインもそれ以上右手のことに興味はなくなったようだった。
「言いたいのはそれだけじゃないだろう」
「ああ。鉄牛騎士団を襲ってきた幻魔騎士の中に天龍剣の使い手がいた。知らぬ顔ではあったが――あれは似て非なる太刀筋だった。手強い相手だ、今のお前に勝てるかどうか――」
「そんなことじゃない」
「あの中にバイロンはいなかった」
エフェスがガレインを睨むように見据えた。
「あの神殿で私と奴が交戦したとき、お前との交戦で浅からぬ手傷を負っていたらしい。脇腹、かな。お前が右手を代償にした成果だ」
ガレインは少し深く息を吸い、吐いた。
「しかしその程度だ。バイロンが戦場に出なくとも、鉄牛騎士団二百名を殲滅出来る戦力を覇国は複数保持している」
エフェスは歯を噛んだ。これでは率直に、不首尾をなじられた方がずっとマシだった。
ガレインが話題を変えた。
「……奴が我が師父ファルコに連れられて龍脊山脈に来たのは、お前が生まれる何年か前のことになる」
バイロンのことだと、エフェスはすぐに気づいた。
「あれも一つの怪物だと思ったな……とにかく強い男だった。当時の私は強さに自惚れていたが、一度奴と立ち会うと鼻っ柱を打ち砕かれた。師父の他にあれほど強い相手に出会ったことはなかった。……無礼で鼻持ちならない男だったが、純粋とも思えるところがあった。全く、鼻持ちならない男だった」
師兄の過去を懐かしむ様子に、エフェスは苛立った。
「思い出話はいい」
「まあ、聞け。――奴は龍脊山脈で所帯を持った。師父の引き合わせだったが、妻との仲は睦まじかったらしい。いずれ奴が天龍剣を背負って立つ男だと師父が見ているのは明らかだったし、私ら高弟も奴への感情はどうあれそう思っていた」
ガレインがエフェスをまっすぐ見た。
「……十六、七年前の冬を、お前は覚えているか?」
「流行り病だな」
覚えている。それで母が死んだのだから。
後々知ったのだが、それはウィロンデ大陸全体を襲った流行性の感冒だった。北は白虎平原から南はシャロワに至るまで猛威を奮い、死者は何十万人にも昇ったそうだが、正確な数はわからない。教育の行き届かぬ辺境では、患者が生きたまま家と共に燃やされた例もあると聞く。
幼いエフェスも病に罹ったが、かろうじて回復し、死にゆく母を看取った。それが自分の覚えている最初の記憶かも知れない。
「……あの流行り病で奴の妻も病んだ。奴は半狂乱で走り回り、あらゆる快癒の手立てを探ったが、甲斐なく妻は息を引き取った。奴が戻ったのはその数日後のことだった。死に目にも会えず、灰になった妻と面会したのだよ」
大陸の他地域と同様に、龍脊山脈も土葬を旨としていたが、医師や魔術師が進言するようにあの時ばかりは遺体を火葬に付したのだという。
「病原を広げぬための措置だったとは言え、奴は怒り狂い、嘆き悲しんだよ。私は今の今まで、あれほど大の男が泣き叫ぶ有様を見たことがない。そしてそれが、私が奴を見た最後の姿になった。龍脊山脈から姿を消したのだ」
「まさか、それが敵になって現れるとは思わなかったか」
「大方、心の弱みに付け入られたのだろう。私とて同門の弟弟子が素面のまま裏切ったとは考えたくもない」
ガレインの沈毅な顔が、暗い色を微かに帯びた。それが後悔の色なのか悲しみの色なのか、エフェスにはわからなかった。
どちらでもいいことだった。
「バイロンはお前には殺させたくはない。私の手で引導を渡さねばならん」
「兄弟子としての情けか」
「それもある」
ガレインが一つ呼吸を吸い、吐いた。
「奴にこだわるな、エフェス。お前の敵はバイロンだけではないのだ」
喉元まで衝いて出そうになった感情を、エフェスは無理に飲み込んだ。
「――何が言いたい」
「憎悪と怒りを捨てろ」
「今更それを言うのかッ!」
今度こそ、エフェスの紫水晶の眼に怒りが満ちた。声が震えるのを懸命に抑制しながら、エフェスは吐き出した。
「今更、あんたがそれを言うのか、ガレイン・ザナシュ。奴のために何人死んだ、殺された。師父――俺の祖父も殺されたんだぞ! それだけじゃない。天龍剣の高弟たちは、俺に憤怒と怨嗟を刻みながら死んでいったようなものだ。あんたがそれを言うのか……彼らの代表面をしていたようなあんたが!」
ガレインは苦々しげにエフェスを見つめた。
「怒りと憎悪を捨てろ」
「無理だ。それは俺の血肉になってしまっている」
「出来ぬならば、お前から鎧と剣を奪う」
「それが出来るならばやってみろ!」
憤然とエフェスは立ち上がった。
「この剣は、この鎧は俺の力だ。バイロンを殺し、覇国を滅ぼす。それでいいだろうが……!」
ガレインは口元を歪め、言った。
「どうやら、我らはお前を育て損ねたようだな……」
「……あんたたちは尊敬している。それは変わることがない。だが、許せることと許せぬことがある」
多少は、声に落ち着きを取り戻した。しかし怒りは収まらなかった。
「何度でも言う。バイロンは俺が殺す」
「エフェス、待て」
エフェスは返事をしなかった。話すこともこれ以上はなかった。
ただ、ガレインが呟くように言った言葉が、不思議と耳に届いた。
「気づけ、エフェス。お前も変わらねば、この闘いは終わらぬということに――」