5 抜剣、装甲
そして、このままでは埒が開かぬこともわかっていた。剣は半ばで折れている。一撃を食らわせるにも、距離は再び開いてしまった。
退くという選択肢はそもそも持っていない。あるのは、幻魔兵を斬って捨てるということだけだ。
背後に気配を感じた。エフェスは振り向くと、深緑のローブを着た妖艶な美女がいた。灰色の長い髪に灰色の憂わしげな眼。その嫋やかな腕には、黒い布に包まれたものが抱えられていた。
彼女の名を、エフェスは知っていた。
「……エアンナか」
「全く無茶をするわね、エフェス」
エフェスは折れた剣を手放し、彼女が捧げ持ったものを受け取った。それは黒いマントと黒革の胸甲と黒篭手と、無骨極まりない大ぶりの鉄鞘に収まった、一振りの長剣だ。長剣はあろうことか鉄鎖によって鍔のところが封じられていた。
鉄鞘の剣を杖にして立ち上がる。手早く胸甲と篭手を身につけ、マントを首に巻く。さほどの時間はかからない。これこそがエフェス・ドレイクの戦装束である。
壁が一気に崩れた。建材が上げる土煙越しに、デュラハンがエフェスを見つけ出した。その手にある剣を目敏く見つけ、嘲笑った。
「剣? そんなものが今更何の役に立つとでも?」
嘲弄を、エフェスは無視した。右手が柄に、左手が鞘に添えられた。鉄鞘はエフェスの腕が華奢にさえ見えるほど無骨である。
「我が名はエフェス! エフェス・ドレイク!」
大音声の口訣に応じ、鍔を封じた鉄鎖が鳴動した。
「龍祖ウシュムガルが末裔、天龍剣総帥ファルコが孫、そしてレガートが息子にして正統後継者! 討たれし同胞に成り代わり、血に飢えた虎の首を狩る者なり!」
鉄鎖が音高く砕けた。
「抜剣――装甲!」
抜き放たれる剣。頭上高く掲げられる切先。
室内で雷光が閃き、轟音が響いた。
その場にいた者らの眼が眩み耳が聾した一瞬、鞘がバラバラになり、エフェスはそれを甲冑として鎧う。
次の瞬間に現れたのは、黒鉄の鱗を持つ人型の龍とも呼ぶべき全身甲冑の騎士である。手にした長剣は、柄から鍔にかけての拵えは戦龍のように厳めしく、しかして刀身そのものは蒼い水晶の如く流麗にして鋭利。これこそ天龍剣派一門に神代から伝わる龍魂剣に他ならぬ。
デュラハンが、唸るように声を上げた。その声からは今までの余裕が失われていた。
「獣神騎士――目の当たりにするのは初めてだ」
鉄鱗の地肌と朱色の魔瞳玉に小さな電光が躍り、龍魂剣の刀身に紫電が奔った。
「天龍騎士エフェス、参る!」
人型の龍はエフェスの声で告げた。デュラハンが怒号した。
「フン! 私の力は獣神騎士に超えているッ!」
エフェスの返答は疾駆であった。文字通りの電光の如き速度で、デュラハンとすれ違っている。
乾いた音を立て、何かが床に転がった。デュラハンの右腕が切断されていた。身じろぎすら不可能だった。床に落ちた腕を見て、デュラハンが愕然と声を上げた。
「な――馬鹿な……ッ!?」
「愚物め。獣神の力をその程度だと思ったか」
天龍騎士とデュラハンは同時に向き直った。髑髏の虚無の眼窩が、凄まじい怒りをたぎらせているように見えるのは、決して錯覚ではあるまい。
エフェスは意に介さなかった。
力が身体中にみなぎっている。痛みは完全に消え失せた。心臓が強く脈打ち、血液と共に魔力を巡らせる。聴覚は蝙蝠の鳴き声を捉え、視界は熱をも見る。嗅覚は驚愕と恐怖の匂いを嗅ぎ分け、肌は大気の流れすら読む。いつものことだが、まるで全身の細胞という細胞が別のものに置き換わったとしか思えない。
人智を超えたものと闘うことを定め付けられた力、それが獣神騎士の本質である。天龍剣開祖が「天龍騎士」の称号を得て幾星霜、ドレイクの剣士たちは歴史の闇を斬り裂いて来たのだ。
デュラハンは切り離された腕を浮遊させて引き寄せた。切り口を合わせると、黒紫の焔と煙が上がる。強引な接合である。
「エアンナ」
いつの間にか大公一家を護るような位置にいたローブの美女へ、エフェスは眼を向けた。
「何、エフェス?」
「護れ」
エアンナが莞爾と笑った。それを諒解と見て前を向き、エフェスは床を蹴った。三度幻魔斬波が飛ぶ。それを斬るともなく斬り払い、踏み込んだ斬撃が袈裟懸けに空を切る。後方に跳躍した〈デュラハン〉の胸甲が左肩口から斜めに裂けていた。
「ぬう……ッ!」
「逃すかッ!」
追撃は執拗だ。上下左右からの目まぐるしい斬撃が逃げ腰の〈デュラハン〉を襲う。〈デュラハン〉の剣といい甲冑といい、龍魂剣の触れた箇所が引き裂かれてゆく。
傷の付いた部分に幻魔焔が燃え、再生する。しかしエフェスの攻撃は留まることを知らない。更に迅速に、苛烈になる。再生が間に合わない。絶え間ない攻撃で敵の反撃すら封じる、これぞ天龍剣〈万蛇群山〉の手である。
戦闘経験の差もあった。力を与えられるだけで研鑽もしなかったマエリデン侯爵と、強者との戦闘に明け暮れたエフェスの差であった。
やがて金属の髑髏に深い傷がついた。
「あ……あ……アあァあアァッ!!」
髑髏の虚ろな眼窩と口腔とに、黒と紫の焔の舌が溢れた。折しもエフェスの耳は慌ただしく近づいてくる複数の足音を捉えていた。
エフェスは電光の勢いで足音の方へ走りながら、エアンナの方を見やる。彼女が右手を上げるのが見えた。
足音の主はマーベルやハイダンを含めた騎士である。周囲の惨状を見て女騎士が声を上げかけた、その直後に幻魔焔が爆発的に広がった。
天龍騎士は彼らを背にして幻魔焔の前に立った。
生物を害する焔に対し、エフェスは柄を軸に剣を風車めいて回転させることで防いだ。鎧の怪人が幻魔焔を切り払う様を、騎士たちは度肝を抜かれたように見つめた。
揺らめく黒紫のヴェールの向こうでは、エアンナが不可視の魔術障壁によって大公一家を護っている。心配はあるまい。
廊下の逆方向にいた騎士の存在に、エフェスは今更にして気づいた。護れる位置ではない。魔性の焔に焙られた皮膚は悍ましく爛れ、騎士は崩れるように死んだ。
焔が収まりかけた頃合いで、露台に向かってデュラハンが駆け出すのが見えた。
逃走か。エフェスの腹を憤怒が衝き上げた。ここで逃せば、外で奴は犠牲者を増やし続けるだろう。城内で確実に狩る他はなかった。
脚部に陰陽二極の雷気を魔力賦与。鉄鱗の脚甲に電弧の蛇がのたうった。獣神騎士の権能とは即ち獣神由来の奇跡の再現であり、天龍騎士の属性はマルドゥーク神の雷気である。
紫水晶の瞳と重なる朱色の魔瞳玉が憤怒を湛えて、幻魔兵の背を睨んだ。
「呪われた虎は狩り尽くす……ただの一匹として逃がすつもりはない」
デュラハンの死物狂いの逃走は確かに速かった。常人からすれば風のようなものだろう。窓を破ってデュラハンが跳躍した。
だが風とて、雷の速度に敵うものか。
「――獣神戦技〈貫光迅雷・剛〉!」
エフェスは脚部の魔力賦与を解き放った。刹那――紫電を曳きながら疾走する鉄の龍と宙に身を躍らせた〈デュラハン〉の間合が詰められた。それはあたかも地上に雷光が奔ったようだった。
まさに迅雷の速度で肉薄した龍魂剣が、デュラハンの胴体を真二つに薙ぎ払った。余剰の魔力と幻魔焔が反応して城の上空で爆ぜ、大気が荒れ狂って窓硝子を尽く割り砕き、露台を吹き飛ばして外壁に大穴を開けた。
エフェスは勢いもそのままに中庭に墜ちていく。それは落雷の轟音にも似ていた。中庭の土が大きく抉れ、土煙が大きく立ち込めた。
「あ……ああ……」
デュラハンの抱えていた髑髏が石畳に転がっていた。エフェスの鉄の脚底が、髑髏を逃げられぬよう強く踏まえて押さえつけた。
「何故だ……何故……何故……」
「お前が幻魔になってしまったからだ。幻魔は、この世にあるべき存在ではない」
呆然と呟く髑髏へ、冷然とエフェスが告げた。言葉を聞いているのかいないのか、なおも逃亡を図らんとする髑髏が動き、脚底と石畳の間で金属質の軋む音が絶えぬ。
「侯爵よ、冥府の河を渡れ。どうせお前は家族の元へはゆけまいが」
一息に髑髏を踏み砕いた。脚元で、宙で炸裂したものに比べればずっとささやかな幻魔焔が散り、すぐに消え失せた。
幻魔兵の鎧も肉片も、形として残るものは何一つとしてない。まるで最初から幻だったかのように。
「装甲解除」
その一言でエフェスの身体を覆っていた甲冑がバラバラになった。鎧の断片が龍魂剣に集まってゆくと、鞘として剣を覆い隠している。ほんの一呼吸の間の出来事だ。弾け飛んだはずの鉄鎖すら元に戻っている。
「無茶ばかりね、エフェス」
エアンナが苦笑を浮かべていた。エフェスは鞘の鉄鎖を胸甲のベルトに取り付け、担ぐようにして背負った。
「いつものことだ」
言いながら周囲を見渡す。
中庭の自分に対してあらゆる視線が向けられていることに、エフェスは気づいていた。騎士や騎士号を持たぬ兵、城にいた貴族、下女下男、行儀見習いの貴族の子弟。好奇や興奮や怪訝や恐怖など、あらゆる感情の入り混じった視線。最早慣れたことだった。
遠巻きにエフェスら二人を伺い見る人々の中から、騎士が一人だけ前に出てきた。柘榴石には困惑と、それでもなお強い意志の光がある。マーベル・ホリゾントだった。
「エフェス・ドレイク。あなたには訊きたいことがあるわ」
「俺には言うべきことはないが――いや、あるか」
エフェスは一歩だけ近づいて、言った。
「覇国との戦は激化する。間違いなく、中原が幻魔の焔に燃える。その時に備えろ」
紫水晶と柘榴石の瞳が交錯した。女騎士は口を引き結び、眼で頷いた。幻魔の、そしてそれを擁する覇国の危険性を認識した者の眼だった。
「エフェス・ドレイク!」
城の上から声が降ってきた。侍従や側近たちの制止も意に介することなく、モンド大公が穿たれたばかりの大穴からエフェスに呼びかけてきた。
「我らの命のみならず、アズレアの存亡をもそなたに救われたようだ。感謝する!」
「大公殿下、壮健なれ!」
エフェスは拳を突き上げ、大公へ向けて応えた。
周囲のざわめきに眼をくれることなく、エフェスは歩き出した。エアンナの姿はなかったが、構いはしなかった。
月はまだ高い。朝が来るまでは、まだ時間がかかりそうだった。