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1 鉄床雲

遅れに遅れて申し訳ない……ッ!

 唖然として、マーベルとシェラミスはそれを見上げた。

 

 エフェスの身体が木の上にあったからだ。

 

 クーヴィッツの首都ラッセナとテレタリエ市の間にあるエザム山塊、その森を切り開いた裾野にカザレラ村はある。

 

 起き上がってからしばらくは、エフェスの右手は匙すら持てなかった。ベッドから起き上がってからするべきことは、体力と腕力を取り戻すことだった。

 

 要するにエフェスは、子供の頃に行なっていた修行を一からやり直していくことにしたのだ。

 

 自分の指先から肘までの長さの薪を選び、それを眼の高さにまで持ち上げる。そして背筋を伸ばし、その場に立ち続けた。

 

 ずっと立ち続けることは、言葉で言う以上に難しい。じっとしているだけで背中が痛み、腰が痛む。さしものエフェスも四半刻(約三十分)で息が上がった。


 エフェスは棒を持って立ち続けた。まずは薪から始め、徐々に重い剣に持ち替えていった。

 

 マーベルは、気に立てかけてある剣を見た。鉄鞘の剣は、これ一振りで通常の長剣数本分もの重さがあるという。これを素振りするエフェスの姿を何度も見たが、鬼気迫るものがあった。

 

 立つことに飽き足らず、素振りも満ち足りず、今エフェスは、片手で木の枝にぶら下がっていた。

 

 のみならず、右手だけで身体を持ち上げ、しばらく枝が胸のところに来るあたりで身体を固定し、ゆっくりと身体を落としてゆく。それを繰り返す。懸垂である。枝は一丈(約三メートル)ほどの高さにあり、手を伸ばしても爪先は地に着かない。つまり、筋力だけでそれを行なうのだ。

 

 両腕でならば、マーベルもシェラミスも何度かエフェスが懸垂をするのを見たことがある。しかし、片手――しかも右腕だけの懸垂を見たのは初めてのことだ。

 

 エフェスは袖のないシャツを着ている。剥き出しの右腕には、切断の痕跡が腕輪のようにくっきりと残っていた。シェラミスが呆れたような声を出した。

 

「目覚めてひと月でそれか。腕はトカゲの尻尾じゃないんだぞ」

「この腕は斬られて生えてきた訳じゃない。あんたのお陰だ。感謝はしているさ」


 エフェスは懸垂を続けながら応えた。

 

「感謝なんかいるもんか、とは前にも言ったぞ、エフェス」

「無茶するな、と言いたいのか、シェラミス師」

「平たく言えばそうだ」

「心配は無用だ。この程度は無茶のうちには入らん」


 腕をつなぐのに、フィファルデ家伝来の薬を使った。半日に及ぶ大手術の末、シェラミスも疲労困憊して昏睡した。

 

 魔術師の治癒魔術を用いても、常人ならば一ヶ月では指一本を僅かに動かせるようになるのが精一杯というのがシェラミスの言である。動くかどうかすらその時点ではわからなかった。

 

 しかしエフェスは目覚めて数日で立ち上がり、自主的に機能回復訓練を始め、そして右腕の機能を取り戻しつつある。獣神騎士の回復力は全く常識外れだった。


「もう正午だし、そろそろ雨が来そうよ。切り上げた方がいいんじゃない?」

 

 告げたのはマーベルである。指差した方向には黒々とした鉄床雲がわだかまっていた。


「あの雲の調子だと降るまでまだ半刻はある」


 口ぶりから、まだしばらくはやめる気はないようだった。


「エフェスさん」


 マーベルたちと別方向からやってきたのはダーレルだった。若さが残る顔には痣が浮かんでいる。

 

「稽古、お願いします」


 エフェスが右手を枝から離した。

 

 その脚が地に着くよりも早く、ダーレルが掴みかかってゆく。次の瞬間、彼の身体が宙を舞う。ダーレルは投げられた勢いに逆らわず、右腕を地に沿わせるように衝撃を吸わせて立ち上がった。その背へエフェスがすかさず蹴りを入れにゆく。ダーレルもそれを読んで旋回、回し蹴りで合わせた。

 

 エフェスがやや引いたところへ、ダーレルが前に出る。土倭夫(ドワーフ)神拳でいう〈熊手〉、大振りの掌底の連打。四度のそれを払い、躱し、受け、弾き、エフェスは前蹴りを返した。腹へ来たそれを胸で受けたダーレルは、顔をしかめながらそれでも体当たりを仕掛ける。エフェスもまた逆らわず、地に背中を着け、蹴り脚をダーレルの胸に接触させたまま彼を後方へ投げた。

 

 後ろには木がある。太い樹幹に背中を打ち付け、彼は痛みに呻いた。エフェスが近づき、巨体に脚を踏み降ろす。ダーレルは身を捻り、転がるようにして踏みつけを躱す。そしてまた立ち上がり、再度掴みかかり、投げ飛ばされる。

 

 ダーレルとの稽古も、素振りや懸垂同様にエフェスの今の日課の一つである。エフェスは身体能力の鈍化を解消するために体術の相手を欲しており、ダーレルは強くなるために訓練相手を求めていた。

 

 まがりなりにも互角と見えたのはごく僅かな期間で、エフェスは身体操作感覚を――完全とは言わぬまでも――すぐに取り戻し、上背で六七寸、目方八貫は上であろうダーレルは軽々と投げ飛ばされ続けた。

 

 それでもダーレルは飽きも倦みもせずに食いついていく。マーベルは二人の稽古に出くわすたび、つい立ち止まって見守ってしまう。投げられる回数も、徐々にではあるが確実に少なくなってきた。


「やっとるやっとる」

「今回は何度で済むかな」

「十五で」

「十二」

「十……いや、九かの」


 早めに仕事を切り上げたドワーフたちが、ダーレルを賭けの対象にしていた。


 背中から地面に叩きつけられたダーレルが白目を剥いた。すぐに上半身を起こされ、エフェスに活を入れられる。息を吹き返したダーレルがまた向かい合い、また投げられる。

 

「息を吹き返した直後、すぐに動けるのは悪くない。だが、動きがいつにも増して雑になるところがある」

「……肝に銘じときます」


 ダーレルが立ち上がりながら応えた。エフェスは手を貸さない。褒めもしない。投げを主体にして拳や蹴りなどは積極的に使ってこないが、急所に隙が見えればそこを狙って打突を入れてくる。それでダーレルが気絶したのも一度や二度ではない。

 

 メルチェルは現在、ランズロウ他数名と共に外回りに出ていた。半月に渡る外回りが単に商売上のことでないことは、マーベルも気づいていた。


 ガレインもまた、戻った形跡はない。

 

 頬に当たる水滴を感じて、マーベルは空を見上げた。雨だ。間もなく雷を伴う土砂降りになり、エフェスたちもやむなく家屋に戻った。

 

 夜半頃、メルチェル一行とガレインが村に戻ってきた。ガレインは重傷を負っていた。

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