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終章 磨墨滅叫

 風の強い日、ラッセナ城の前に十万の兵が居並んだ。指揮系統や兵站、補給などの都合上、数が増えれば増えるほど大軍は維持が困難である。覇国は己が軍権の威を示すために、多少の無理は承知でこれだけの兵力を掻き集めたのだろう。

 

 向かい合うようにして、城に残った主だった政治家や武官が拝跪させられている。ヨラン・ギャスレイはその代表としてそこにいた。

 

 ギャスレイ自身は無表情に努めていたが、他の者たちは異なる。屈辱、無念、怒り――露骨に感情をギャスレイに対してぶつけてくる者もあった。武官らの中には軍国クーヴィッツが決戦を交えることなく降伏した、という事実が受け入れられぬ者もあるに違いない。

 

 その無念はギャスレイも抱いている。しかしもし決戦にもつれ込んだとして、徒らに民を殺し、国土を荒廃させるだけだ、という気がしてならなかった。

 

 ジャストン・マルティン議員――否、元の名はメリヴと言ったか――が男としては甲高い声で、役人や軍人に指示を下している。白眼の勝った顔に喜色を浮かべ、大層上機嫌のようだ

 浮かれるのも当然だろう。彼の工作により、半年に渡る戦争をガウデリス覇国の勝利という形で終えることが出来るのだから。


 これ以上の戦役は無為と判断したからこそ、ギャスレイはジャストンが覇国の間者であることを承知で接触し、降伏工作を共に行なったのだ。

 その判断が正しかったのかは、これからわかる。


 夕刻に差し掛かった頃、角笛が鳴り響き、立ち並ぶ十万の兵が二つに別れ道を開けた。


「来ましたぞ。皆々様、神妙になされよ」


 ジャストンが告げた。

 

 歩むのは異様な獣だった。巨大でもある。大通りに敷き詰められた石畳が軋むほどに重い。高さは三丈半(約十メートル)。頭部の半分を占めるような大きい耳、対照的な小さな眼。四本の足は丸太ほどにも太そうだ。自在に動く長い鼻、その下の口から湾曲した二本の長い牙が突き出ている。


 トロル以上に戦場でも見ない幻魔獣〈妖象獣(ムーマーク)〉である。中原には生息しない(オリファント)なる獣を魔術調整したものらしいが、定かではない。

 

 百頭近くのムーマークは皆、専用にあつらえた鎧で厳めしく装飾されていた。その中でもひときわ大きく、豪奢に装った個体は誰の眼にも明らかであった。その背には貴人のための輿が乗せられた。

 

 やがてムーマークが座るように足を折った。

 

 銅鑼が連打される。丈七尺を誇る儀仗兵が一糸乱れぬ動きで、輿を守るように整列する。

 

 御前太監が男でも女でもない声で、淀みなくその名を告げた。

 

「王虎門総帥にしてガウデリス族、並びに白虎平原二十八氏族の長、そして世界に冠たるガウデリス覇国の王――覇王バンゲルグ主上陛下の、御成りィ――!」


 豊かな銀髪を風になびかせ、覇王が輿から降りてきた。

 

 事前に七十の老人だと知らなければ、到底そうは思わなかっただろう。傲岸という言葉を擬人化したような歩みは、無造作であるが故に付け入る隙が全くない達人の歩法。身の丈六尺の背筋は伸び、矍鑠どころか壮健そのもの。ゆったりとした衣服の上からも四肢は壮年の男と比べてなお勝るほどに逞しいとわかる。

 

 何より眼が印象的だった。瞳孔から瞳の縁にかけて黒から黄色に遷移する黒瑪瑙(オニキス)のような眼。それは勁すぎる気を絶えず放ち、見る者の心底までを見透かすかのようだった。

 

 最初から拝跪を余儀なくされていたラッセナの人々のみならず、兵や太監を含む侍従、その場にいる全ての者が申し合わせたように跪き、覇王に対して(こうべ)を垂れた。

 

「……変わらぬな。クーヴィッツの地の匂いは、鉄の味がする」

 

 覇王が足を止め、懐かしむように呟いた。深く低い声だった。

 

 若い頃、バンゲルグ・ガウは武者修行を称しウィロンデ大陸を渡り歩いたという。ならばクーヴィッツの地を訪れていてもおかしくはない。

 

(われ)が覇王を名乗ってから中原に姿を現したのはこれが初めてである。ここを選んだのは、故なきことではない」

 

 応える者はない。そもそも覇王自身も話し相手を欲している様子はなかった。愛玩動物に対して話しかけるような口ぶりだった。

 

「主上陛下、発言をお許し願えますでしょうか」


 ジャストンが覇王に跪いたままの姿勢で、器用ににじり寄った。ただし五尺以内には近寄らない。それが覇国の決まりであるらしい。

 

「汝はジャストン・メリヴか」

「は……」


 ジャストンは顔を伏せ、ギャスレイの視界からは伺えなかったが、隠し切れぬ得意さが表情ににじみ出ているに違いなかった。それを眼下に見下ろして、覇王はこう言った。


「汝に発言を許した覚えはない。一切、だ」

 

 恐らくはクーヴィッツ降伏工作の功績をねぎらわれると思っていたに違いない。しかし期待を完全に裏切る言葉に対し、ジャストンは絶句していた。肩が小刻みに震えていた。


「ふむ、流石に無体であったか。此度は大儀であった」


 熱のない口調で言い捨てた覇王は、今度は拝跪したままのギャスレイの元へ近づいてきた。


「汝がヨラン・ギャスレイであるか。発言を許す」

「……恐れながら」

 

 ギャスレイは言葉を選びながら慎重に応えた。


(おもて)を上げよ」


 言われるように、視線を上げた。

 

 両手で顔の左右を掴まれた。信じがたい握力だった。また、黒瑪瑙(オニキス)の眼がギャスレイの眼を覗き込んできた。眼を逸らせば即座に殺される。理屈のない確信があった。ギャスレイは捕食される草食獣の恐怖に耐え、覇王に逆らわなかった。


 ……一体いつまで凝視を受けていただろう。


「主上陛下」


 ここで覇王はようやく手と視線をギャスレイから外した。


 声の主は細身の武官である。男か女か一見して判別し難い容姿で、武官の装束や腰に帯びた反り身の太刀がなければ宦官かと思っただろう。

 発する気も、その眼も、触れれば切れそうなほどに鋭かった。この鋭さは、王族の奴隷たることが生業とも言われる宦官では有り得ない。

 

「何用であるか、グラーコル・ドゥークス」


 グラーコルは面のような無表情で覇王の前に拝跪し、懐にくくりつけた革袋を膝下に置いた。

 

「城外にて胡乱な動きがありました故、始末をつけて参りました。お目汚しではありますが、これを」

 

 ギャスレイの心臓が不穏に脈打った。グラーコルは無表情で袋の中身を地に落とした。

 中身を眼にして、ざわめきが起こった。その中身とはおびただしい数の右耳だった。


「兵力は二百。私ともう一人で片付けました。首級はこれにて代えさせて頂きたく存じます」


 覇王が目を細め、耳を一枚つまみ上げた。


「ざっと百――もう一人というと」

「ユアン・タオバーでございます」

「デムレの倅か、さもありなん。刺客の身許は」

「ガレイン・ザナシュ率いる鉄牛騎士団」


 遠く、悲鳴に近い声が聞こえた。ギャスレイは項垂れてきつく眼を瞑り、ガレインと二百名の死者に声もなく詫びた。


「ただ、ガレインと極小数を取り逃してしまいました。現在百蛇衆が追っております」

「左様であるか」


 覇王はゆっくりとうなずいてから、視線をギャスレイへ再び向けた。


「何か申し開きはあるか」


 その声は重く、ギャスレイの背に質量を持ってのしかかってくるかのようだった。

 

 事前に手配した弓兵からの合図もない。

 

 そもそも申し開きの余地はなかった。覇王に対してはするつもりもなかった。ただし死者たちに対して、クーヴィッツの民に対して、生命を賭して応え、そして問わねばならなかった。

 

 ギャスレイは口の中だけで文言を唱え、次に言うべき言葉を吐き出した。

 

「――覇王、御命頂戴」

 

 肉体が、骨が、軋みを上げて膨張した。軍服のボタンが弾け、膨れ上がった上半身が露わになった。

 

 至近距離にいた一人の儀仗兵が前に立ちはだかった。拳を胸甲に叩き込み、心臓を打ち砕かれた儀仗兵は七孔噴血しながら崩れ落ちた。


 そのままギャスレイは覇王に掴みかかる。

 覇王もまた両手を上げ、即座に応じた。

 

 グラーコルが太刀の鯉口を切って身を低く構えた。僚友を一撃で殺した相手に向け、儀仗兵たちも槍を構える。が、二人は両手で組み合い気を発していた。これでは覇王を人質に取られているようなものであり、迂闊に手出しが出来まい。


「手出し無用だぞ、汝ら」


 覇王が言いおいた。ギャスレイも覇王も満身の筋肉が縄のように膨れ上がり、その腕力は伯仲していた。

 

「王虎拳……しかもそれは〈易筋剛体功〉ではないか」


 当代最強の王虎拳使いという覇王でも、この技を実際に眼にするのは珍しいのか、あるいは初めてなのだろう。

 

 〈易筋剛体功〉は血中の内功(オド)を強制循環させ、爆発的に身体能力を向上させ、山をも砕く剛力を与える王虎拳の奥義である。しかし完全な習得には最低でも二十年の歳月を必要とし、その域に達せぬ者が用いれば内力を損ない寿命を十年は縮める諸刃の剣でもあったのだ。

 

 ギャスレイ自身も土倭夫(ドワーフ)神拳の使い手であり、王虎拳を学んだこともあった。ある時、王虎拳奥義書『白虎真経』の一頁を手に入れた。それを穴が空くほど読んだ。そして〈易筋剛体功〉を会得した。

 

 軍人たる者、機あらば一命を賭して国土や民を護らねばならぬと信じたためだった。それが王虎拳最強の男覇王バンゲルグ・ガウに対して揮われることになるとは――

 

 山をも砕く今のギャスレイの膂力と、覇王の膂力は拮抗していた。二人の足元の石畳が音立ててひび割れ、大気すらみしみしと悲鳴を上げるかのようだった。

 

 人は声一つ上げていない。ただ固唾を呑んで成り行きを見守っていた。

 

「いいぞ……快いぞヨラン・ギャスレイ……」

 

 顔に汗を滴らせた覇王が獰猛に笑った。


「汝、決して悪くはない――」


 前からの圧力が不意に消えた。そして背後から唐突にのしかかってきた。圧力が形を変え、ギャスレイの項を鷲掴みにするや、前のめりにその身を倒した。

 

 それこそ信じがたい思いがあった。


「我がその〈易筋剛体功〉を会得しなかったのは、その必要がなかったからよ」


 ギャスレイは身をよじったがびくともしない。首を支点に、まるで山の重さをそのまま受けているかのようだった。

 

「我に暗殺は通ぜぬ。十万の兵の間隙を縫い、幻魔騎士を騙しおおせても、その程度の腕で覇王は殺せぬ。ギャスレイ、汝の唯一の誤謬(あやまり)はそれよ」


 不意に、怒りがこみ上げてきた。判断を誤り、国土を苛み、民を苛み、国を失わんとした己の愚かさへの怒りだった。


「だが久方ぶりに血が沸いたぞ。褒美に、手ずから殺して進ぜよう」


 むしろその声は慈悲深かった。覇王の慈悲は、十万の兵よりも恐ろしかった。


「王虎拳禁じ手〈磨墨滅叫〉――覇王の覇王たる所以(ゆえん)、冥府でも語り継ぐがよい」


 ギャスレイは絶叫した。それは恐怖では断じてなかった。怒号だった。この叫びを聴く者よ、ヨラン・ギャスレイを断罪せよ。覇王バンゲルグ・ガウを断罪せよ。そして起て。抗え。

 

 頭に熱を感じた。熱と痛みが猛烈に苛み、やがて何も感じなくなった。痛みも、熱も、怒りも、悲しみも、叫びも消えた。

 

 × × × × ×

 

 大通りに一条の線が引かれた。血で引かれた線だった。

 

 ヨラン・ギャスレイの首から上がそっくり失われた遺体は、覇王が打ち捨てた後刑吏らの手によってバラバラにされ野に廃棄された。

 

 ギャスレイの家族は家長の死を聴くや事前に用意していた毒で皆自害した。

 

 血の線は長い間決して消えることがなかった。


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   第一部 龍虎争覇編 完  第二部 幻魔暴狂編に続く

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