17 逃竄、カザレラ村
あれは十五年前、龍脊山脈の燃え上がる少し前のことである。
門弟の一人がエフェスを殺しに来た。
いや、殺す気はなかったのだろう。天龍剣総帥ファルコの嫡孫であるエフェスは、天龍剣への急所になり得る。そう思いついたかそれとも誰かにそそのかされでもしたか、とにかくその男はエフェスをさらいに来たのだ。天龍剣を裏切り、ガウデリス覇国への手土産にとでも考えたのか。
門弟は寝台で眠っていたエフェスを布団に包んで誘拐しようとした。
その男の誤算は、エフェスがすぐに眼を醒ましたこと。そしてこの五歳児が、祖父母にも秘密裏に布団の中でも稽古用の剣を抱いて眠っていたことである。
エフェスは咄嗟に剣を抜き、布団の中から男へ突き刺さんとした。布団の中の藁がこぼれた。男も天龍剣を学んだ身、咄嗟に躱して布団ごとエフェスを投げ捨てた。男の口が動いた。殺す、とでも口にしたのだろう。その目は完全に据わっていた。
エフェスもまた無我夢中であった。稽古用の剣であり、刃は引かれているが剣自体は本物の重さ、そして切先は突けば肉を裂くままにしてある。
殺さなければ殺される。気合を口からほとばしらせ、エフェスはその身ごと剣を突き出した――
× × × ×
眼を醒ました時、自分がどこにいるのかわからなかった。
知らない部屋のベッドの上だ。横を見るとテーブルと椅子が一つずつ。素焼きの水差しもあった。
身を起こそうとした。全身が重い。思うように動かない。
「駄目よ、エフェス」
金髪の娘がいた。マーベル・ホリゾントという名前を思い出した時、エフェスは強引にベッドに肩を押し付けられていた。さほどの力でもないのに、抗えなかった。
「ひと月も寝ていたから、体力が戻っていないの」
「ひと月……?」
エフェスはふと自分の右腕を見た。ある。斬られたはずの腕があった。包帯でぐるぐると巻かれてはいるが、確かにあった。指先が小刻みに震えていた。握力が戻っていないのは明らかだ。
「治癒魔術で腕はくっついたわ。でも治るかどうかは」
「シェラミスは。訊きたいことがある」
「ここだよ、天龍騎士」
シェラミスがちょうど室内に入ってきた。
「君が聞きたいことはおおよそ見当がつく。ここはカザレラ村、ラッセナとテレタリエの中間にある山村だ。君の腕をくっつけたのはあたし。そして何故ここにいるかというと――ラッセナが陥落したからだよ」
彼女は無感情に一息で言ったが、声に滲む疲弊は隠し切れていなかった。エフェスは何かを言おうとして、ひどく喉がかすれていることに気づいた。
「……水をくれ」
ゆっくりと、エフェスは上半身を持ち上げた。たったそれだけのことに全身全霊を傾ける必要があった。木のカップを手渡された。左手には握力があることに安堵しながら、水を飲み干した。深く息を吐き出してから、エフェスは言った。
「負けたのか、俺たちは」
幻魔騎士バイロンとの一戦が脳裏で鮮やかに描かれていた。包帯の中で、右腕の傷口が痛みと熱を持って疼き出した。
「あたしたちは負けた。勝利条件を収め損なった」
シェラミスは素っ気なく言った。その唇の端を悔しげに歪ませながら、彼女はあるものをテーブルに置いた。小指の爪ほどの大きさの宝石が嵌った指輪である。
「投影珠という。遠隔地の光景を映し出す魔道具だ。ギャスレイ総帥からの最後の贈り物さ」
エフェスは指輪を見た。手を伸ばそうとは思わなかった。
「何が見える? 何を見た?」
「見ればわかる。マーベル卿、あなたも見ていなかったよね」
シェラミスは強がりにも見た笑みを浮かべた。
「夜は上映会だ。それまで君は体力の回復に努めなさい。幻魔焔の毒を抜く代償に、体力の多くを消耗したんだ」
逆らう理由は思いつかなかった。シェラミスはマーベルにも言った。
「マーベル卿、あなたも休みなさい。殆ど寝てないんでしょう?」
エフェスは女騎士の方を見た。彼女は横を向いて目をそらした。
夜になった。
甘いミルク粥の夕食を終え、エフェスの部屋に皆が集まってきた。
「よう生きておったのう」
「流石は獣神騎士じゃい」
「むしろお主の右腕を奪った男っちゅうのは何者じゃ?」
「はいはいさっさと座んなさいなあんたら」
ドワーフたちがベッドのエフェスを手荒く扱う前に、メルチェルがドワーフたちを手慣れた様子で椅子代わりの樽に座らせてゆく。
「幻魔騎士にやられたようだね」
ランズロウが声をかけてきた。それに対して、エフェスは自嘲するように言った。
「無様なものだろう」
「何の。僕も君のとは別の幻魔騎士にしてやられた」
エフェスはランズロウを見た。彼の顔色は優れなかった。
一同は白い布のかけられた壁に面していた。唯一シェラミスだけは壁を背にして、一同に向かい合う形で立っている。
「では、始めようか」
室内から灯りが消えた。シェラミスがテーブルに置いた指輪の宝石を壁面に向け、口の中だけで呪文を唱えた。宝石が光を放つ。ドワーフたちの口から驚愕の声が漏れた。
壁に投影されたのは、戦火の余燼が燻るラッセナ市街だった。その大通りを練り歩く、東方風の甲冑の軍勢。風に翻る銀の虎の軍旗。
ガウデリス覇国軍の堂々たるクーヴィッツ入場であった。クーヴィッツ生まれであるドワーフが口々に嘆き、あるいは小声で運命への罵りを口にし出した。
シェラミスが言った。
「目を逸らすなよ、諸君。これがギャスレイ総帥の遺言でもあるんだ」




