14 暗雲、来たりなば
邪妖精は毒蛾の翅を畳み、蟷螂の前肢を振り上げ宙を走った。エフェスが前に出て、ロングソードを真っ向から揮った。剣は空を切った。その瞬間、邪妖精が分離し、エフェスの背後に降り立った。
両刃の鎌がエフェスの背を狙って突き込まれた。エフェスは即座に地に伏せ、邪妖精の胴を蹴った。揮われる刃が神殿の床を切り裂く。エフェスは距離を置いて膝立ちになり、立ち上がりながら脇構えからの横薙ぎに剣を払った。
邪妖精が飛び退きざま、左右に分裂した。一瞬の判断でエフェスは二体の隙間を前転ですり抜けた。彼の頭があった場所を刃が通過する。エフェスは身を捻り、袈裟懸けに剣を叩き込んだ。金属音が生じ、右腕の肥大した邪妖精が攻撃を防ぐ。その間、左腕の肥大した方がエフェスの左斜め後ろへと迫っていた。エフェスは飛び退きながら、それでも伸びる刃の斬撃を何とか受け止めた。衝撃でエフェスはたたらを踏むように後退を余儀なくされた。
邪妖精らもまた後退し、再度一つに重なった。右側の肥大した雄型と左側の肥大した雌型、その左右非対称の幻魔兵二体が奇妙にもつれ合って、一体のようになっていた。
「さしもの獣神騎士も型無しね、エリダン」
「仕方ないよシューラ。僕らの愛の前ではね」
エフェスはロングソードを見た。先の攻撃で、刀身の半ばに深々と切れが入ってしまっていた。エフェスはロングソードを捨て、背中の鉄鞘の剣を金具から外した。
「エフェス!」
マーベルが叫んだ。エフェスは鉄鞘に左手を添えた。
「お前たちはガレインの元へ行け――抜剣、装甲!」
鉄鎖に封じられた鞘から龍魂剣が抜き放たれた。高く頭上に掲げられた剣から雷がほとばしり、エフェスの姿を覆い隠す。鞘がばらけ、鎧になる。
「天龍騎士エフェス、参る!」
龍頭の騎士はそのまま邪妖精へ斬りかかった。揮われる龍魂剣を邪妖精が右手の刃が受け流す。同時に、幻魔兵は雌雄に分裂した。雌型が猛禽の速度で向かうのは西側の扉へ駆け出したマーベルとダーレルである。
エフェスは雄型であるエリダンを力任せに剣で払いのけるや、雌型であるシューラの元へ走った。幻魔兵が猛禽ならば、獣神騎士の速度はまさに風――その勢いのままシューラの胴へ蹴りを入れた。全長七尺近い金属の虫が、物凄い勢いで蹴飛ばされて南側の壁にめり込んだ。漆喰と建材が散らばり、衝撃で白煙が立ち込めた。
西側の扉を二人が潜ったのを見計らい、エフェスがシューラへ追撃の疾走に出た。不意に彼は首筋に風を感じた。首を僅かに傾げると、頬当を鋭い一撃が掠めていった。エリダンとエフェス、二者は共に左足を軸に巴めいて旋回し、斬撃を三度交わした。剣威は速く鋭いが、重さはさほどではない。押し切れる。そう確信した四度目、エリダンは大きく後退し、逆袈裟の斬撃を躱した。そのまま翅を震わせ飛んだ先はシューラの元である。
「可哀想に。大丈夫かい、シューラ?」
「……ええ。ウルク=ハイとして調整されていなければ死んでいたわね」
場もわきまえぬつがいの幻魔兵へエフェスは迫り、横薙ぎの斬撃を送った。その剣圧に壁が破砕され、大穴が開く。
そこに幻魔兵はいない。一体の邪妖精に戻り、壁のすぐ上に張り付くようにしていた。
「無粋な真似はしないで頂けるかしら?」
「さては君、モテないだろう? ひがんでいるのか?」
本気で非難がましい口調だった。エフェスは無言のまま、脚部に雷気を魔力付与――そのまま壁に爪先を打ち込んで垂直に駆け登った。
「嘘でしょ!?」
「全く常識外れの怪物め……!」
「お前らが言えたことか」
深々と足跡が壁に刻まれる。邪妖精は飛んだ。エフェスもまた壁から跳んだ。だが幻魔兵は切先よりもなお遠い。
「天龍剣〈飛龍輪〉!」
エフェスは龍魂剣を投げた。剣が風車のように高速回転して邪妖精へ走る。一体は二体に分裂した。その間を駆け抜けた刃は、血の糸を引きながら神殿の外壁に緩やかに沿うようにして、宙にあるエフェスの手元に戻ってきた。
天龍騎士が着地した。邪妖精も着地した。
「「おのれ……獣神騎士ッ!」」
その声からは余裕が失われていた。〈飛龍輪〉の刃は、雌雄の邪妖精の、肥大していない方の脚を奪っていたのである。切断された脚から血を滴らせながら、その複眼を威嚇の赤に燃やしてエフェスを睨みつけた。
「「殺す……獣神騎士、必ず殺すッ!」」
「やってみろ。お前の太刀筋は見切った」
完全に見切った。次は確実に仕留める。そう告げたつもりだった。
睨み合う二者に、ステンドグラス越しの夕日が落ちかかる。次で決めると互いに念じ、踏み出しかけたその時。
北側に面したステンドグラスに影が差し――そして粉々に割れ砕けた。
降り注ぐ色とりどりの硝子の破片をまとうように、落ちてきたのは巨大な馬に乗った大柄な男である。背中に異形の大剣を背負った、フード付きマントをかぶった男――
「幻魔騎士バイロンッ!!」
エフェスの意識が瞬時に煮えたぎり、バイロン以外の存在が意味を失くした。彼は疾駆し、剣を振りかぶって跳躍した。フードの男が背中の剛刀を抜き放ち、落下の勢いと巨馬の質量を以て龍魂剣を迎え撃つ。
エフェスは上へ、バイロンは下へ。
龍魂剣と剛刀がぶつかり合い、凄絶な金属音を奏でた。獣神騎士と幻魔騎士は宙で馳せ違った。バイロンは衝突してなお勢いを減じること無く、そのまま真っ直ぐ走り抜けた。即ち、邪妖精の元へ。
剛刀が揮われ、首が一つ飛んだ。
「――エリダンッ!!」
幻魔焔に身を焼かれながら、シューラは恋人の名を呼んだ。その悲しみは即座に怒りに変わり、彼女は絶叫した。
「幻魔騎士が何だ! 貴様を殺して――」
剛刀が彼女の身体を斜めに切断した。
エフェスは朱色の魔瞳玉に激しく雷華を宿し、バイロンへ迫りつつあった。燃え上がる黒と紫の焔を背にエフェスを見やり、バイロンは呟いた。
「装甲」
黒ずんだ焔が人馬を包み隠すほどに燃え上がった。エフェスは獣神甲冑の効果を信じ、焔を物ともせず斬り込んだ。龍魂剣の切先が幻魔焔を切り裂き、バイロンに届いた。
焔が晴れた。
龍魂剣は剛刀に真っ向から受け止められていた。二本の剣越しにエフェスはバイロンを睨みつけ、バイロンはエフェスを直視した。
現れたのは、甲冑の騎士である。エフェスの〈鉄鱗龍〉の甲冑と似通った意匠――しかしその鎧は骨か腐肉のように白かった。
「幻魔甲冑〈屍龍〉――四年前の龍脊山脈、忘れたことはないぞ!」
「……天龍騎士」
怒りと憎悪を吐き出したエフェスに対し、バイロンは闇のように暗く、重々しく呟いた。
「俺も、お前と闘わねばならぬようだ」
白い甲冑に覆われた全身から気が膨れ上がり、剛刀と長剣が磁石の反撥めいて弾かれた。飛び退いたエフェスを見据えたまま、バイロンは馬から降りた。
「ゆけ、暗雲。ここからは二人だけで闘いたいのだ」
巨馬は一つ低く嘶くと、青く燃える鬣をなびかせて主から離れた。
エフェスは長剣を八双に構え、だらりと剛刀を下げたままのバイロンに向き直った。
「……何故今、幻魔兵を斬った?」
「邪魔だったからだ。俺とお前は二人で斬し合う。そうしなければならないからだ」
バイロンはゆるゆると剛刀を脇に構えた。その構えにはエフェスでも付け入る隙が全く見いだせなかった。
「この逆鱗刀、貴様の龍魂剣には流石に及ばぬ。が、貴様を屠るには十分な得物だ」
〈屍龍〉の頭部で、紫の魔瞳玉が妖しく燃えた。
「見せてみろ、貴様の天龍剣を」
〈鉄鱗龍〉の眼に、紫電がまた走った。