13 鎖、鎌首をもたげ
爆ぜるような気配を感じた。
東街区からだろうか。二つの気の衝突である。余りにも強烈な力の持ち主が二人、東でぶつかっていた。断続するような気迫と気迫の衝突に空の鳥がざわめき、群れから落ちたものすらある。一瞬、ランズロウの意識が東に捉われたほどだった。
地に立つランズロウへ、トロルが握りしめた拳が振り下ろされた。ランズロウはそれをくぐり抜け、懐近くに潜り込む。
股をくぐりながら槍を揮った。穂先は会陰の関節部を深々と切り裂き、黒々とした血液を噴出させる。しかし即死には至らず、トロルの回復能力で傷がふさがり、出血も見る間に少なくなってゆく。ランズロウは腰部目掛けて槍を薙ぎ払った。鋭利極まる穂先はトロルの腰椎を断ち切った。夕闇を引き裂くような咆哮と共にトロルの上半身が崩れ、黒ずんだ焔の柱と化して自らを火葬した。
残るはあと二体。伏兵がなければ――彼は周囲を見渡すと、民家の屋根の上に立つ影が夕日に伸びていた。
「一度逢いましたね、ランズロウ・キリアン」
覆面をした女である。声は確かに聞き覚えがあった。
「その声――ヘブリッドのアルバポリスでユーリルを狙ってきた刺客かな?」
「覚えていてくれたのですね」
女の声が嘲笑を含んだ。堂々たる刺客の登場。しかも獣神騎士の眼の前に。ランズロウの第六感が警告を告げていた。
「以前は刺客としてあなたにまみえました。今回は、戦士として立ち会いましょうか――装甲!」
影の中から無数の鉄鎖が音立てて這い出した。それらが女の周囲を取り巻き、巻き付き、絡み合う。
鎖が弾け、姿を現した女は銀色の鎧をまとっていた。
「幻魔騎士メディッサ、参る!」
メディッサの影から鎖が走った。その先端は鏃のように尖るものもあれば、虎挾のようになっているものもあった。無数の棘を持つものもあった。それらがランズロウ目掛けて矢のように走った。
獣神騎士は跳躍した。鎖は自ら意思あるものの如くにランズロウを追う。速い。ランズロウは身を捻って避け、あるいは槍で叩き落としながらメディッサへ迫った。
槍を突き込んだ。しかし槍は止まった。止めたのは鎖である。無数の絡み合う鉄鎖が幾重にも重なり合い、堅き盾となって槍を阻んだのだった。
「あら、残念」
装甲の奥で確かに幻魔騎士が嗤った。
百頭の蛇が鎌首をもたげるように、鎖がしなってランズロウへ次々と襲いかかった。無数の鎖が圧力になり、彼は一度メディッサから距離を置かざるを得なかった。それでも槍を縦横に揮い、鎖を斬り払った。金属の破断音と共に破片が周囲に撒き散らされる。いくら破壊しても鎖の数は尽きることを知らぬように、次々とランズロウを襲う。
軌道を逸らされた鎖の一端が屋根を貫き、大きく穴を開けた。ランズロウはそこへ自ら身を投げ入れた。
住民は避難済みのようである。ランズロウは穂先で壁を切り欠き、鎖が来る前に逃れ出た。数十の鎖が一斉になだれ込み、猛烈な音を立てて床を突き破る。そのうち一割ほどの数が大半の鎖から枝分かれし、ランズロウを追ってきた。彼はそれらを切り払いながら、窓の外へ身を投じた。
やがてそれを見つけた。井戸だ。
「獣神戦技――〈流水剛刀《アクア・ブレイド》〉!」
井戸の中から水が高くほとばしり、それが大刀の形状をかたどって屋根の上のメディッサの頭上に出現した。彼女は跳躍し、振り下ろされた水の刃の軌道に合わせて鎖を盾のように展開した。断続する破断音がしばらく続き、水と鉄が弾け飛んだ。
ランズロウが跳躍し、別の家屋へ跳び移ったメディッサへと距離を埋める。
槍の刺突を捌きつつ、メディッサは鎖の先端を短剣のように逆手に持って斬り込んだ。ランズロウは槍の柄で受けながらその胴へ膝蹴りを打つ。メディッサが飛び退くや、その影からやはり無数の鎖が生まれランズロウに喰らいつかんとする。ランズロウもまた宙に水の鞭を生み、メディッサへ走らせた。
鉄の鎖と水の鞭が互いに互いを叩き合うさなか、両者は油断なく得物を構え睨み合った。
「その力――〈百頭蛇〉の獣神甲冑だな?」
「ユーリルから聞いたのかしら? 一族の秘事を教えてしまうなんて、やはりあの時殺しておくべきでしたね」
確かめるようなランズロウの言葉に対し、冗談でも口にするかのようにメディッサが言った。
決して冗談ではあるまい。ユーリルのもたらした情報によれば、メディッサは百蛇衆の当主。彼女の意に染まぬ者は例え身内でも殺すことに躊躇はなかろう。
「それが血を分けた姉妹でも、かい」
「血を分けた姉妹だからこそ、ですわ。どんな手段で懐柔されたかは知りませんが、一族の恥を晒すならば自害すればいいものを」
口調には、いっそ憐れみが宿っていた。一刻でも早くユーリルは自害すべきだと言うように。
だがそれはこの際関係ない。
「まあ、ユーリルのことは措くとしよう――何が目的で君は時間稼ぎをしているのかな?」
水と鉄が再び相殺された。
「どうしてそう思ったのです?」
「いや、何となくそう思っただけだ」
地響きがした。
「私が正直に答えるでも?」
大通りをトロルが歩いている。逃げ惑う民衆を誘導する兵士が槍を構え、トロルに向き直った。しかし数打の長槍では、トロルの装甲を貫くことは難しいだろう。獣神騎士の常より発達した聴覚は、鎧ごと人体が踏み潰される音、そして断末魔の苦痛に満ちた叫びと呻きが聞こえた。
そして疾走する馬蹄の響きも、確かに聞いた。
「馬蹄……!?」
メディッサが呟く声も聞こえた。
「来ましたか、バイロン」
大通りを凄まじい勢いで疾駆する人馬――だが果たして、それを馬と呼んでいいのかランズロウには咄嗟に判断がつかなかった。その鬣は青黒く燃え、その体躯は軍馬よりなお二回り以上も大きい。乗っているのは黒いフード付きのマントで顔を隠した巨漢である。背中には大剣があった。
鬼気迫る騎馬の勢いに、進路上にひと塊になっていた兵士の隊列が突き崩されるように崩れた。
騎馬が突き抜ける。その間近にトロルが迫っていた。男はそのたくましい腕に背中の剣の握把を握り、そのまま高々と掲げて見せた。
男が馬腹を蹴ると、青黒い焔のような鬣をなびかせ、人馬は跳んだ。大剣が四度揮われた。次の瞬間にはトロルの身体はぶつ切りの肉塊と化し、おびただしい血の雨を降らせた。
黒い血を残像のように残しながら、人馬はラッセナ城へ向かってゆく。阻むものは何もなく、これまでもなかったかのように。
ランズロウは率然と悟った。
「あれが幻魔騎士バイロン――そうか、あれをお前たちはエフェスと噛み合わせるつもりだったのか!」
「再会は劇的に。それが一番効果的ですからね」
蛇の女は仮面の下でまた嗤ったようだった。
「宿敵と呼ぶならばあの二人こそその呼称が相応しい。そのための邪魔は、決してさせません」
鎖の蛇がまた群れを成し、鎌首をもたげ、ランズロウに迫った。