9 夕暮れ前に巨人を殺せ
夕刻というにはやや早い頃、隠れ家を出た。
街は静かだ。戒厳状態は未だ解除されていない。十日近くもこの状態では、都市機能に障りが少なからず出てくるだろう。何より北部では膠着状態とは言え覇国との交戦中なのだ。
シェラミスとの対談に乗ったのも、戒厳を解く理由が案外欲しかったのかもしれない。
一同は遠目から見ても物々しい。外交官として魔術師としての正装に身を包んだシェラミスはともかく、腰と背に二本の剣を帯びたエフェスを始め、ほぼ全員が武器をこれ見よがしに携行している有様である。一見非武装のユーリルでさえも服の中に軟鞭を隠し持っていた。中でもドワーフたちは一様に手斧やハンマーなどを携え、眼が剣呑に燃えていた。
密書には武装に関する条件は一切記載がなかった。皆、対談で何らかの不手際が生じた際、手にした得物で一戦交えてそのままガレイン・ザナシュ奪還へなだれ込む構えである。
「こんな重装備でいいのかな……相手を刺激しないかな……」
唯一乗り気でないのはダーレルくらいである。尤も彼もズボンのベルトに取り回し易くした鉄の棒を突っ込んではいた。
「本当に愚弟だねアンタは。お城へ上がるんだよ? 正装して行かなきゃナメられるよ。ナメられたらそこで死合終了だよ」
彼女は自身の得物、即ち鉄鋲を打たれたグローブに包まれた拳を軽く打ち合わせた。
「上手く行くといいがな」
髭の大尉が言った。随行させたのはマーベルの案だ。解放にはいい機会でもある。
「何、もしもの場合には人質になってもらうでよ」
意地の悪いメルチェルのほくそ笑みに対して、大尉は抗議の声を上げた。
「何度も言ったぞ、私の価値なぞ無きに等しいものであると。人質にしても無駄だ」
「そう繰り返すのが却って怪しいんだよね」
シェラミスが解説をした。
「こういう場合、むきになって否定するほどに言葉の信憑性はなくなっていくのさ。あるいは人間信じたいものしか信じないってことなのかもね」
「シェラミス師自身はどう考えてるの?」
「正直なところ、どっちでもいいかな。人質を取るという行為に意味があるとも思えないし」
マーベルもそこは同意だった。
誰もいない通りを歩いてゆくと、前方に兵の一団が見えた。数はざっと五百名。歩兵のみで構成され、隊列には僅かな乱れもない。ドワーフたちがにわかに殺気立った。
二組は百歩余りの距離を置いて立ち止まり、睨み合うようにした。シェラミスが片手を上げ、前に出る。同じく向こうから年嵩の軍人が出てきた。彼が隊長なのだろう。
「ヘブリッド王国の使節として参りましたシェラミス・フィファルデです。非公式ながら、ここまでのお出迎え、痛み入ります」
「御足労頂き、誠にかたじけない。ギャスレイ総帥閣下がシェラミス師をお待ちです」
二人が二言三言会話すると、声もなく兵士が一糸乱れず踵を返す。マーベルは内心ほっと安堵の吐息を吐いた。
エフェスが動いた。ランズロウもまたシェラミスをかばうような位置に立った。
三箇所、土埃の柱が立った。十丈もの高さに舞い上がる砂埃に重く低い破壊音が伴う。
瓦礫が飛んできた。エフェスが背中の剣を抜き、鉄鞘で粉砕した。
雄叫びが聞こえた。何十匹という肉食獣が同時に吼えた、そんな声だった。
通りの建物が崩れた。瓦礫を脚で躙りながら隊列の前に姿を現したのは、身の丈三丈超の巨人である。その肌は艶のある緑青色、頭も胴も手足も異常なほどに太く大きい。その頭部は兜めいて特に分厚く装甲に覆われている。そのスリットから覗く眼はただ破壊し殺戮することのみを目的とする狂気の光が宿っていた。
異様な金属の巨人――その姿は〈青の森林〉にあるといわれる青銅樹が人型を為したら恐らくこのような生物になるのではないかと思われた。
「大型幻魔兵〈トロル〉! 戦場にも滅多に出て来ないって評判の奴らだ……」
シェラミスが呟くように言った。
どよめきが兵の間から漏れた。兵の中には幻魔兵との交戦経験のある者もいるのだろうが、巨人の存在感は彼らの度肝を抜くに余りあるだろう。マーベルも、一瞬言葉を失った。
思考を失っていなかったのは二人の獣神騎士と、シェラミスを背にしたユーリルだけである。
トロルの足元に駆け寄りながら、腰のロングソードを抜いたエフェスがその脛を薙いだ。金属音が火花とともに散る。しかしその装甲は分厚く、エフェスの一刀を以てしても浅い傷しかついていない。
巨人が脚を上げ、まるで蟻でも踏み潰すかのように脚底を下ろした。エフェスはすぐさまその場を離れた。三百貫は下らぬだろう大質量が踏みしだいた石畳が細かくひび割れ、足跡を刻まれていた。
ランズロウが壁を蹴り、屋根の上にまで瞬く間に登っていた。目敏くもそれを見つけたトロルの手が払いのけるように動いた。その一撃で大気が煽られ、家屋が半壊する。ランズロウは跳躍し、その手に飛び移っていた。疾走した彼の槍がトロルの左目を抉る。巨人は身も世もなく咆哮し、苦悶して巨体をよじった。トロルが身じろぎするだけで家屋の損壊が広がり、被害が増してゆく。
「マーベル卿、あれを使え! 二本だ!」
「二本でいいの!? 四本じゃなくて!?」
「二本で十分!」
マーベルはうなずき、矢の中で羽根模様の違う二本を手にした。
エフェスがトロルの左膝裏をロングソードで深々と刺し貫いた。関節部には無論装甲がない。貫通に至らないのは膝部装甲のためだが、刃の埋まり具合からして傷は深い。エフェスは身を翻し、右の膝を同じように貫いた。巨人はまた苦悶の悲鳴を上げ、よろめいた。
開いた口腔に、マーベルの矢が二本飛び込んだ。ひと呼吸の後、炸裂した。頬肉が爆ぜて乱杭歯が剥き出しになり、片方の顎骨が砕かれて顎がずれていた。もし人間なら見るも無残な面相だったろうが、人外の怪物と成り果てた幻魔兵に対しては奇妙にそういう感慨は涌かなかった。
「……炸裂箭二本でも不十分か!」
シェラミスは愕然と憮然の綯い交ぜになった口調で言った。彼女はマーベルの類稀なる射手としての能力に眼をつけ、虎の子たるフィファルデ家謹製の炸裂弾を鏃にくくりつけたものを預けていたのである。テレタリエ市城門前に於いては覇国の騎馬隊を潰乱せしめ、十分な威力ありと判断した炸裂弾だが、トロルの巨体の前では有効打たりえぬと言うのか。
大型幻魔兵の巨躯が傾いだ。膝をつき、手をつく。それだけでラッセナの地面が割れる。局所的な地震すら起きる。
その項に刃を突き立てる影が一つ。ランズロウだ。神槍〈鯨座の骨〉の穂先が深々とトロルの盆の窪に埋まり、その頚椎を断ち斬るべく金髪の獣神騎士は両手に掴んだ長柄に力を込めた。
一段深く槍が突き刺さった。息を苦しげに一つ吐くと、大型幻魔兵の残った眼から光が消えた。緩慢に崩れていくトロルから槍を抜くと、ランズロウは飛び離れた。
トロルの死体から黒と紫の幻魔焔が上がった。これだけの質量となると、消え去るのにも時間がかかりそうだ。
「これはどういうことだい! 待ち伏せ? いい度胸じゃないか!」
「姉ちゃん! やめろって!」
メルチェルが怒りを露わにして掴みかかろうとするのを、ダーレルが肩を掴んで制した。当然それで止まるメルチェルではない。巨漢の弟が小柄な姉を抱きかかえるようにして持ち上げるが、もがく手足がダーレルの頭と言い身体と言い打ち据えた。これで離すのをやめないダーレルも大したものだとマーベルは思った。慣れているだけかも知れないが。